犬神伝説(愛知県岡崎市)

 岡崎市の宮地町に鎮座する「糟目犬頭神社/紹介記事」と下和田町に鎮座する「犬尾神社/紹介記事」には、犬神(犬頭)伝説が残されています。実は岡崎に伝わる犬神伝説とほぼ同様の内容の伝説が日本各地に残されており、どこかから伝えられた犬神伝説がこの地に根付いたと考えられそうです。

犬神(犬頭)伝説の内容

 貞和二年(1346)、上和田城主「宇都宮泰藤」が、糟目犬頭神社の近くで鷹狩をし、境内の大杉の下で休憩をしていた。ところが、大杉の上には大蛇がおり、泰藤を襲おうとした。
泰藤がつれていた白い犬が、これに気づき、吠えて主人に知らせようとしたが、泰藤は寝ていて、気づかず。犬は、三度吠え続けたが、目覚めた泰藤は、犬の吠えることを怒り、犬の首をはねてしまう。
 はねられた犬の首は飛び上がり、大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、主人を救う。大蛇に気づいた泰藤は、この犬に感謝し、犬の頭を手厚く葬り、糟目犬頭神社に祀ったという。また、犬の尾は犬尾霊神として、下和田の新宮(犬尾神社)に祀ったという。

宇都宮泰藤

 この伝説の主人公といってもよいであろう人物が「宇都宮泰藤」になります。その苗字からわかるように泰藤は下野国を本貫としている宇都宮氏の一門衆になります。

 宇都宮宗家七代「宇都宮景綱」の次男「宇都宮泰宗」の孫にあたる人物になります。
(宇都宮氏)景綱(七代)┳貞綱(八代)
            ┗泰宗┳時綱┳泰藤
               ┣貞泰┣師奏
               ┗貞宗┣泰朝
                  ┣氏泰
                  ┗泰景

 鎌倉幕府を討幕した後醍醐天皇が始めた「建武の新政」に対し、反旗を翻したのが足利尊氏になります。後醍醐天皇を京の都から追放し新たに北朝を起こし、吉野に逃れた後醍醐天皇(南朝)との争い「南北朝時代」が起こります。この時共に鎌倉幕府を討幕した武将達も、それぞれ北朝方、南朝方に別れ、さらにここに鎌倉幕府方であった勢力なども加わって日本全国が動乱の渦に飲み込まれていく事になります。宇都宮一門内においても北朝方、南朝方に別れていくことになります。ただ、後醍醐天皇と足利尊氏の勢力争いは非常にふり幅が大きく、尊氏が京を占領したかと思えば、今度は戦いに敗れて九州まで逃げ落ちる事になり、さらに九州で勢力を挽回した尊氏が再び京に攻め登ってくるといった感じであったため、それぞれの陣営の優劣を見ながら風見鶏の様に移り変わっていた勢力もかなりいたようで、宇都宮宗家その時々で北朝方と南朝方に属していたといいます。

 そんな宗家がそんな態度であった中、宇都宮泰藤は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕の勅令に応じて挙兵した「新田義貞」に一貫して従軍していたと伝えられています。

 新田義貞が鎌倉幕府討幕の挙兵したのが元弘三年/正慶二年(1333年)であり、越前国の藤島で足利方に討ち取られたのが延元三年/建武三年(1338年)になります。当初は北条氏率いる鎌倉幕府討幕の為の挙兵だったはずが、鎌倉占領後は急激に武将からの信頼を集め勢力を伸ばした足利尊氏を牽制する立場に持ち上げられていき、その後後醍醐天皇から離反した足利尊氏との戦いに突入していく事になります。最後は、越前国で勢力を回復を図っていた所、藤島で足利方の斯波軍と遭遇し、弓矢にて討ち取られたと伝えられています。

 新田義貞が討ち取られた後、泰藤は義貞の弟「脇屋義助」に従い、越前国にて勢力の回復を図りますが周囲は足利方が固めつつあり、これ以上の回復は見込めないと判断し、伊予国に向かったと伝えられていますが、これ以降は歴史書に登場してこない為不明であるとされています。

新田義貞の首塚伝説

 一方、糟目犬頭神社の社伝などによると、宇都宮泰藤は打ち取られた新田義貞の首級が京にて晒し首(獄門)となっている状況を良しとせず、義貞の首を奪還し、自らの居城があった三河国碧海郡和田荘に向かったとされ、糟目犬頭神社の境内に義貞の首を埋葬したと伝えられています。そして義貞の弔う為、法華宗に帰依し剃髪出家して蓮常と称していた。そして正平七年(1352年)に五十一歳で死去し、糟目犬頭神社の東側ある「本寿山妙国寺」に埋葬されています。

 糟目犬頭神社の東隣にある法華宗の寺院「本寿山妙国寺」の境内にある宇都宮泰藤の墓石になります。妙国寺内には泰藤以来の子孫の墓石が大久保家所縁というかたちで並んでいます。

 神奈川県小田原市には糟目犬頭神社と同じように、新田義貞の首塚伝説が残っています。小田原の首塚伝説では、「新田義貞の家臣「宇都宮泰藤」は、越前国藤島の戦いで討ち取られ、今日にて晒し首(獄門)となっていた首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿した。」と伝えられている。

 どちらの伝承も、三河国碧海郡和田荘に宇都宮泰藤の居城があったとしている点は非常に注目できるポイントになるかと思います。京都から上野国を目指す場合、当時は東山道を使うのが通常ルートであったとされ、わざわざ東海道を使って上野国を目指す事は無かったそうです。小田原の首塚伝説にあるように、三河国碧海郡に宇都宮泰藤の拠点に立ち寄った為、東海道を東に向かったと考えられるそうです。

義貞の首塚と犬神(犬頭)伝説

 新田義貞の首が埋められたのは延元三年/建武三年(1338年)と考えられます。当時三河国は新田義貞と敵対していた足利一門の一大有力拠点となっており、もし義貞の首が埋葬されたという事が漏洩してしまうと間違いなく掘り起こされてしまう泰藤は、犬神(犬頭)伝説を流布する事で義貞の首塚の伝承を覆い隠してしまおうとしたと言われています。

 泰藤を救ったという犬頭が埋葬された首塚と伝承されています。そしてもう一つの伝承では、新田義貞の首を埋葬された首塚とも伝えられています。
 現在は、琵琶湖の竹生島より市杵島姫命が勧請され「大和田島弁財天社」が塚の上に鎮座し、塚周囲も弁財天社をイメージさせる為か、池となっています。

 歴史書などでは、宇都宮泰藤は越前国を出国し伊予国に向かったのでは?と考えられており、三河国に滞在したという事はあり得そうもない感じがします。室町時代、上和田を拠点としていたのが松平家・徳川家譜代の「大久保氏」になります。大久保氏は宇都宮泰藤の末裔であると自称していますが、仮冒ではないかという説が有力なようです。まあ、この辺りは徳川家康が勢力を拡大していく中、和田荘の豪族であった大久保氏が朝廷から任官されるために宇都宮氏と繋がりを求めたという事なんでしょう。ただ、全く縁もゆかりもなかったわけではなく、宇都宮氏宗家には三河守を任ぜられた当主もいたので、三河国に地頭職として宇都宮泰藤が赴任していた可能性は0ではないのかなとは思いますが、かなりその確率は低いように思えますね。

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