前回の野間大坊から東にわずか300mほど行った丘陵部分に磔の松は存在します。
松が根元からは野間大坊が一望できる場所であり、逆をいえば野間大坊からもこの松は見ることができると思います。
写真を見て頂くとわかりますが、現在では松は枯れてしまっていて根元部分だけが残っているだけになっています。
建久元年(1190年)、この地を訪れた源頼朝が父義朝の為に法要を行った際、義頼を殺した長田親子をこの松に磔にし処刑したと伝えられています。(真偽は不明)
亡き父に敵である長田親子の処刑を見せる為にこの地を選んだとしか思えません。
平治の乱で敗軍となり命からがら逃げてきた源義朝一行、義朝の家臣である鎌田政清は長田忠致の娘婿になり、鎌田政清の案内でこの野間の地に逃げてきたんだと思います。その頃には、平治の乱の結果がこの野間にも伝わっており、義朝討伐の情報も得ていたのだと思います。
娘婿が義朝の家臣とはいえ、義朝の首を平家に差し出せば莫大な恩賞に授かれると欲に目がくらんだ長田忠致とその息子長田景致は義朝殺害を計画、実行します。
平治の乱が年末に行わており、年が明けた1月3日、長田親子は、新年の湯殿に義朝を誘います。そして入浴中の義朝を襲撃、殺害します。
当然風呂に入る時は刀は持っておらず、丸腰になるのを狙っていたはずです。
「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」
勇猛かつ剣の腕も相当と言われていた義朝らしい最後の言葉だそうです。
義頼の首を捕った長田親子は、野間大坊脇にある池で義朝の首を洗い都の平家に差し出します。
長田忠致は義頼を討った褒賞に「壱岐守」に任ぜられます。さらに本貫地として現在の豊田市の高橋荘を賜り、野間から高橋荘に居を移動させます。
ただ、長田忠致は壱岐守では不満だったようで、左馬頭という官位か、国司としてなら尾張か美濃のどちらかに任ずるべきだと思っていたそうですが、清盛に睨まれたとたん主張を取り下げたと平治物語に描かれているそうです。
その後、頼朝が平家討伐の挙兵を行うと、長田親子はなんと頼朝に加勢し、平家討伐の一連の戦いで戦功をあげたそうですが、建久元年に野間の地で磔処刑されたそうです。
長田親子が頼朝軍に加勢した際、頼朝は長田親子を捕まえず、「戦功をあげたら美濃、尾張を与える。」とかつて清盛に要求した事を逆に頼朝から言われたそうです。それでかなりな戦功をあげたのですが、建久元年に野間の地で磔処刑される時に、「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたそうです・・・。
長田親子の最後は所説あって、どこまで本当なのかわからないんですけどね。
訪問記
野間大坊を後にして、一路県道277号線を東に300m弱進むと、田圃の中に「はりつけの松」という案内看板が見えてきます。
あぜ道の脇に車を止めさせて頂き、磔の松を見にいきます。
事前にどんな松なのかとか情報を見ずに行ったため、松が枯れていることを知らず、ちょっと残念な気分に・・・。
支柱で支えてあるにしても、近い将来朽ちてしまうんでしょうね。
さらに、裏手に回ると詳しい説明書きが掲げられています。
ここは美浜町の指定文化財なんですね。平成3年に指定された時には松はまだ枯れてなかったのかなあ。
長田忠致の辞世の句が彫られた石碑&磔の松の石碑になります。
野間大坊方面を望みます。少々木々の枝が邪魔ではっきりとわかりませんが、中央奥に野間大坊の境内の木々が見え隠れします。
実際にここで磔処刑を行った際は、野間大坊からよく見えるようにこの辺りの木々も切り倒された様な気がします。頼朝は父親の墓の前から遠くに見える処刑風景を眺めていたんでしょう。
野間地区散策記
野間大坊(源義朝墓所)