大阪市

御霊神社( 大阪市中央区)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社情報

社 名:難波神社
鎮座地:大阪府大阪市中央区淡路町四丁目四番地三号
御祭神:瀬織津比売神 、津布良彦神、津布良媛神 、応神天皇、源正霊神
旧社格:府社
創 建:不明
境内社:東宮十二社、松ノ木神社、大国社
例大祭:10月16日
御朱印:〇
H P:〇

http://www.goryojinja.jp/

御由緒

本神社は古来大阪市の船場、愛日・中之島・土佐堀・江戸堀・京町堀・靱・阿波堀・阿波座・薩摩堀及立売堀・長堀の西武・南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神と坐す。其地往昔海辺ぬかるみにて芦萩繁茂して圓江と謂い円形の入江をなしその口に瀬織津比売姫。地主の神たる津布良彦神、津布良媛神を奉祀して圓神祠と言ったのが当神社の古名である。

御神威高く上古、天皇御即位の大嘗祭に続く八十島祭に預か給うに、後土地次第に固成、村をなしその名も津村と転化。豊公大坂居城と共に政治経済の中心として発展、諸大名来集して崇敬篤く什器の寄進相次いだ。中にも石見国津和野藩主"亀井茲矩"候、宅地を割いて寄進。
文禄三年境内の乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀。
寛文年中御霊神社と改称。
元禄九年御霊大明神と贈御号。
宝暦三年九月、正一位の神階を授けられる。
又伏見宮家より神輿修復の御寄進あり。幕府亦城代順見社として崇敬。
明治御親政により、明治六年郷社となり、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬篤く。
大正二年府社に列し朝まいりと夏祭に南堀江御旅所への神輿渡御列の華麗さは浪速名物として現今に到る。
大正十五年境内の人形浄瑠璃の文楽座出火の際本殿類焼。
昭和五年再建竣工を見たが昭和二十年三月十四日戦災に遭い、すべて炎上した。
戦後仮本殿及社務所一部を再建。
昭和二十四年奉賛会を組織して神社及び神域復興に邁進。
昭和三十二年十二月御社殿を再興次いで昭和三十四年鳥居玉垣を再建。
年を追うて往時に勝る神社の威容を整備しつつある。
尚、江戸時代末期まで、日本仏教の親元である比叡山延暦寺、天台宗神宮司があり観音堂本尊十一面観世音(慈覚大師作)は浪速観音巡礼三十三番目の札所として夙に名高い。又、薬師如来堂、伝教大師堂があった。

境内由緒書板より

参拝記

江戸時代の文化八年(1811年)に難波神社(稲荷社)に人形浄瑠璃の芝居小屋を構えていた"文楽座"ですが、明治五年(1872年)に大坂松島新地に移転していきます。その後、明治十七年(1884)一月、難波神社北門に彦六座が移転します。彦六座の興行が非常に好調だったこともあり、九月には文楽座が松島新地から御霊神社の境内に"御霊文楽座"を建て、文楽座の全盛期を迎えています。その後、彦六座も解散してしまい、人形浄瑠璃を行う劇場となってしまいます。

由緒書きにもありますように、大正十五年に失火により焼失。劇場を移転します。

そんな、大阪文化の一つである人形浄瑠璃の歴史の一端というかほぼ王道を担っていた劇場を有していたのが今回紹介する御霊神社になります。明治維新から戦前まで、神社は国家神道の名の下に国営施設だったので、こういった文化育成のために境内に劇場を作るのは認められていたのかもしれませんね。

境内入口

御霊神社の社殿配置は西入りの様式になっています。
神社の周囲はビジネス街になっており、御霊神社の境内の木々がこの辺りの清涼剤になっている感じがします。

鳥居

赤い鳥居が非常に目立つ境内入口になっていますね。
扁額のある明神鳥居がお出迎えです。

御霊宮と書かれた扁額。造形が凝った扁額ですね。

社号標

奉納と彫られている社号標になります。確かに奉納された物なんでしょうが、正面に奉納と彫られた社号標は初めて見ました。

手水舎・水盤

一本柱タイプと言っていいのか、非常に独創的な手水舎になります。合理的といえば・・合理的な感もしないではないですが、これがまだ神社に対する感情とマッチしているかというと・・ちょっと微妙ですね。

狛犬

元和元年(1615年)生まれの青銅製の狛犬一対になります。400歳越えですか・・・風化もあまり見られないし、青銅って耐久力がすごいんですね。
それにしても、造形があまりにも岡崎周辺でみる狛犬と異なっていて、地域差を感じられます。

社殿

この御霊神社も非常に凝った建築様式になっていますね。
御霊神社のホームページを拝見すると、社殿の様式を「錣屋根 入母屋造」というそうです。そこに千鳥破風と唐破風の組み合わせは非常に重厚感を感じます。

昭和三十二年に再建された社殿なんですが、低床化された拝殿など、バリアフリー的な観点から見たら時代が追い付いてきた感じですね。

境内社

東宮と呼ばれる、皇大神宮、猿田彦神社、五福恵美須神社と東宮十二社の相殿になります。

本殿向かって右側に鎮座する松ノ木神社と大黒社になります。

松ノ木神社の御祭神は松之木大神と朝吉大神と書かれています。う~ん、ちょっと存じ上げません・・・が、社殿前には狛犬ならぬ狛狐が据えられている辺りから、稲荷系の神名かな?と想像しますが・・真偽はいかに。

参拝を終えて

御霊神社の名をさらに有名にさせているであろう構造物が御霊神社の南側に建つ明神鳥居です。元々は、由緒書きにもある神宮寺が御霊神社の南側にあったそうなんですが、神仏分離の際神宮司は御霊神社から切り離され、神宮寺は廃寺となり、現在ではご覧の通りビルが建っています。なぜか鳥居だけそのまま残されているそうです。

もしかしたら、御霊神社の社殿も元々は南入りだったのかもしれませんね。南側を分離させられ、社殿を再建の際、西入りで造営したと考えるのが妥当かな?

-大阪市