寺院情報
寺院名 | 鶴林山大御堂寺 |
所在地 | 愛知県知多郡美浜町野間東畠五十番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 真言宗豊山派 |
創 建 | 天武天皇(673-686年) |
札 所 | 知多四国霊場 五十番札所 尾張観音霊場 八番札所 東海百観音霊場 八番札所 東海不動尊霊場 二十一番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | 〇 |
参拝日:2018年4月19日
再訪:2018年10月24日
https://amzn.to/33IWq2C
大御堂寺公式Webの紹介
http://nomadaibou.jp/index.html
知多四国霊場公式Webの紹介
http://chita88.jp/
由緒・沿革
「鶴林山大御堂寺」の名を全国に広めたのは平成二十四年(2012年)に放送されたNHK大河ドラマ「平清盛」ではないでしょうか?玉木宏演じる「源義朝」が平治の乱で平清盛率いる軍勢に敗れ、東国を目指して逃走しているなか、尾張国野間の地で「長田忠致」の背信により自害した姿が描かれています。そして、その「源義朝」の墓が置かれているのが「大御堂寺」になります。
大御堂寺は天武天皇の御代(673-686年)に建立され、当時は「阿弥陀寺」と称していた。聖武天皇の御代(723-749年)に全国行脚を行っていた「行基菩薩」により中興、そしてこちらも行脚を行っていた「空海(弘法大師)」が三河国から船で知多半島大井に上陸し、医王寺→岩屋寺と御留錫、護摩修法を行った後に野間の地にて護摩行を行ったと言われています。
その後、承暦年間(1077-1081年)には「白河天皇」の勅願寺として勅命を受け、寺名を「大御堂寺」と改めています。
何時頃から「長田氏」が野間を領有するようになったのかは分かりませんが、どうも「長田家」は平家の血をひく一族の様で、平家の勢力の増長によって領地を得ていたのかもしれません。平治元年(1159年)に平治の乱が起き、源義朝がこの地に逃げてくるので、それ以前からこの地を納めていた事になります。
「長田忠致による源義朝殺害」については「湯殿跡/紹介記事」を参照してください。
平治二年(1160年)の正月に源義朝を討ち、平家より恩賞をもらった「長田忠致」ですが、源義朝の嫡子「源頼朝」が東国にて挙兵し、平家の軍勢を打ち破りながら京の都に向けて進軍してくると、源義朝に恭順し従軍する事になります。この時、源頼朝が長田忠致に対し活躍すれば過去の事を忘れて「美濃・尾張をくれてやる」と言ったとか。長田忠致は信頼を勝ち取るために、平家討伐軍において非常に活躍し武功をあげています。建久元年(1190年)、頼朝が鎌倉から上洛する途中、父義朝の三十周忌の法要を営むため「大御堂寺」に立ち寄っています。この時、大造営工事が行われ大御堂寺は七堂伽藍を有する寺院になったと伝えられ、この造営工事の落成に合わせて父義朝の法要が営まれた形になります。この法要の日、長田忠致は大御堂寺からも見る事ができる丘に生えた松に磔にされ殺されています。「活躍したら美濃・尾張をくれるんじゃなかったのか。」という長田忠致に対し、頼朝は「だからくれてやる。身の終わりを。」と言ったとか・・・。
長田忠致が磔にされた松は現在でも史跡として残っています。「磔の松/紹介記事」を参照してください。
失火により本堂などを焼失してしまう事故も復興を遂げますが、慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦において西軍に属した鳥羽城主「九鬼嘉隆」が水軍を率いて知多半島に上陸し、沿岸の村、神社仏閣などを焼き討ちしています。知多四国霊場を遍路して由緒を調べると、この慶長五年の九鬼嘉隆による知多半島焼き討ちによって伽藍を焼失した寺院が非常に多い事に気が付きます。この「九鬼嘉隆」によって大御堂寺も焼失してしまいます。なんとか復興を遂げますが、焼失前に比べてかなり寺院も小さくなったと言われています。
明治以降、塔頭が独立させられてしまい、現在では塔頭であった「大坊(野間大坊)」によって管理されるいわば無住の寺院になってしまっています。
天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。聖武天皇(723-749)の時、行基菩薩が中興、その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。
源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王、毘沙門天を奉案され、七堂伽藍を造営、さらに後年には豊臣秀吉、徳川家康などの庇護を受け発展しました。
「境内由緒書」より
野間村野間東畠に在り。境内二千五百八十三坪。真言宗。中島郡長野村満徳寺末なり。承暦年中の草創にして白河天皇の勅建たり。後漸く衰頽に属せしを平判官康頼本州に守たりし時文治二年源義朝の冥福を祈らんか為めに堂宇を建立し水田三十町を寄進し六口の僧をして不断念仏を修めしむ。是により寺門再び興り一伽藍を建立す。其殿閣排扉荘厳の粧、眼を遮り僧衆轉経の聲、甚た盛なり。建久元年十月廿五日、源頼朝墓参見て大いに康頼の厚志に感し又大に佛事を修張す。享禄四年十月十三日兵火あり。坊宿悉く灰燼に帰し大御堂と楼門とのみ残りしを天文三年三月勸化修造せり。天正中、織田信長の為に領地を没収せらる。文禄四年八月三日豊臣秀吉百九十四石三斗三升の地を寄進す。慶長五年に至り九鬼嘉隆来て本郡を侵せし時又其暴火に燼す。僧長圓之を中興開山せし。昔時の一山十二坊、是に至りて僅かに大坊、安養院、密蔵院、圓明院、慈雲院、龍松院、法山寺の七宇を残せり。寛永十六年三月十五日、徳川義直二百五十石の地を寄進し、別に山林沿海の地若干町を属し領民若干戸をもって定めて更番寺役に充てしむ。
本堂衰頽に属せしを宝暦四年六月之を建立す。明治維新以降領絶し寺門衰退し塔頭は大坊、密蔵院、安養院の三宇を残すのみ。明治六年各独立し、当寺僅かに本堂、楼門、鐘楼を存して寺号を称するのみ。当時の荘厳今観るべきもなし。一山の別当古来大坊の掌る所今に至り猶兼管せり故に寺宝等皆大坊の保管に属す。
「愛知県知多郡誌」より
歴史探訪
西尾市上道目記町に鎮座する「八剱神社/紹介記事」を参拝し、その由緒を調べていると、寺宝として「宝剣」が納められていて、そのいわれが、
平治二年(1160年)、源義朝が野間の地で長田忠致の裏切りにより討ち死にした時、家臣の鎌田某が源氏始祖「源経基」由来の帯刀を持ち出し、この地(現在の西尾市上道目記町)に逃げ込み、その後、帯刀を八剱神社に奉納した。
というものでした。西尾市の神社巡りをしていてまさか源義朝の名を見るとは思いもよらないことであり、これは何かの縁かな?という事で、始めて知多半島の野間地区にやってきました。
この野間大坊周辺には、源義朝討ち死にした湯殿跡があったり、義朝を裏切った長田親子がはりつけの上処刑された場所があったり、さらには織田信孝が自害した寺社があり墓が源義頼の墓近くに置かれていたりと、歴史のうねりを感じる場所が多数存在します。
こんな野間大坊は、
・知多四国霊場五十番、五十一番札所
・東海百観音尾張八番札所
・東海三十六不動尊二十一番札所
・くるま六地蔵五番札所
となっています。
色々な霊場巡りがあるんですね。
今回、野間周辺の散策をしている時も知多四国霊場巡りをされている方との出会いがありお話をさせて頂く事が出来ました。その方はもう20年以上知多四国霊場巡りをされていて、その方の納経帳を拝見させて頂いたところ、幾重にも朱印が重ね押しされていました。
「丁度今年は知多四国霊場開創210周年で特別な朱印も押していただけるし、今年限定の納経帳も出ているので是非始められたらいかがですか?」
と霊場巡りを勧められております。一周目はやはり一番札所から回った方がいいという事で、野間周辺では納経帳を戴いておりませんが、近々・・・・たぶん、知多霊場巡りもご紹介していくかも・・・?
上記は知多四国霊場を巡礼する前に、大御堂寺、野間大坊を参拝した時に書かせて頂きました。当時は、野間大坊=大御堂寺という認識だったのですが、知多四国霊場を巡礼し、色々な資料に目を通していく内に、大御堂寺を本山として一山十四坊を有する寺院だったことを知りました。現在では、一坊であった野間大坊の名が知られており、野間大坊が大御堂寺をむしろ管理している感じです。
当サイトでも、大御堂寺と野間大坊がごちゃ混ぜになって紹介させて頂いていましたが、今回(2019.4.12更新)の追記で、しっかりと分けて紹介させて頂こうと思います。
西尾市の「八剱神社」からここ野間の「大御堂寺」にやってきたおかげで、当サイトでも一気に行動範囲が広がりました。これも歴史探訪の醍醐味です。
九鬼嘉隆関連
・「鳥羽城址/紹介記事」
・「九鬼嘉隆胴塚/紹介記事」
・「九鬼嘉隆首塚/紹介記事」
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知多四国霊場を行く
五十三番札所「鶴林山安養院/紹介記事」から北側にあるのが今回納経する「鶴林山大御堂寺」になります。元々安養院は大御堂寺の塔頭だった歴史があります。
境内全体の雰囲気は、次回紹介する予定の「野間大坊/紹介記事」と「大御堂寺」が一体化しており、大御堂寺より、むしろ元々塔頭だった「野間大坊」のが主となっている感じがします。
管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅
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参拝記
県道沿いには、後で紹介する大門が建っていたりするのですが、大御堂寺と野間大坊の中間部分に駐車場が設けられている関係で、現在の伽藍配置がどちらかというと県道からそれぞれにアクセスするというより、駐車場を境にして大御堂寺と野間大坊をそれぞれ参拝するような感じになっています。
大門
本堂正面にある大門です。
源頼朝により建久元年(1190年)に創建された物なのだそう。
この野間大坊には、建久元年に上洛の途中この地に立ち寄った頼朝によって父義朝の法要が営われ、その際様々な伽藍などが建立されたんだそう。
大門の近くには知多四国霊場五十番札所の石碑が建立されています。
血の池
平治元年(1159年)、義朝を討った長田忠致親子が義朝の首を洗った池とされています。
伝承では国家に一大事があったときは池の水が赤く染まるんだとか。
手水舎
四本柱タイプの瓦葺木造の手水舎になります。
しっかりと管理されており、きれいな水が張られていました。
本堂
この寺院の本堂は三度の火災等により現在は宝暦四年(1754年)に鎌倉様式にのっとり再建されたものになります。本尊は阿弥陀三尊象で国の重要文化財。
鎌倉様式というのがどういった形なのかわからないのですが、ここの本堂は向拝も設けられていて、よくある本堂で信徒の方達が座るスペース?があってその奥に僧侶の方のスペースがありその奥に本尊が安置されていたりしますが、その信徒の方が座っている場所に当たる部分、本堂二間分が開放方になっています。文字にすると説明しづらいですが、寺院はあまり巡らないですが、それでも初めてこういった本堂を見ました。
源義朝公墓所
源義朝の墓所の碑
義頼の事を書こうとすると、色々とまた話が広がりすぎていく感じがするので、また別の記事で紹介していく予定です。
この源義頼の墓所は周囲を石垣で囲まれています。石垣の中には、義朝の墓以外にも、
義朝の忠臣"鎌田政清"夫妻の墓、
源頼朝の助命をした平清盛の継母である池禅尼の供養塔、
織田信長の三男"信孝"の墓
が安置されています。
一ヶ所墓所に通じる門が設けられています。門正面に見え隠れしているのが義朝公の墓所になります。この墓所の写真は有名なので一度は見たことがあるかもしれませんね。
源義朝公の墓所には、無数の木刀が供えられています。
元々は、源義朝が長田親子の裏切りにより殺されるときに叫んだとされる言葉に由来して木刀を備えるようになったはずが、よく見たら絵馬みたいに願い事が書かれるようになっています。
いつの間にやら、義朝公は人神になられていた様です。
義頼が叫んだ言葉とは
義頼が長田親子に襲われた場所は、野間大坊からほど近い場所にある曇華山法山寺の湯殿でした。長田親子の屋敷に逗留中、初湯に招かれた義朝は、法山寺の湯殿で入浴中、長田親子に襲われ命を落とします。剣術の達人でもあったとされる義朝は「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と叫んだとされます。
鎮守の社
大御堂寺には、鎮守の社が二社鎮座しています。
弁天尊天
弁天様の周囲は池になっていまして
独特の雰囲気が漂っていますね。
悩み不眠除け稲荷社
すぐ隣には五重塔跡地の案内板があります。
鐘楼堂
この中に、第五代鎌倉幕府将軍藤原頼継公が寄進したという梵鐘があります。
梵鐘には建長二年(1250年)の刻印があり、尾張地方最古の梵鐘とされています。
これだけの由緒があると、第二次世界大戦時の鉄供出での損失は免れれたのですね。
この鐘楼堂の鬼瓦の造形に目を奪われました。
・・・鬼・・・かな?
平康頼供養塔
由緒の所でも紹介していますが、大御堂寺を再興させたという平康頼公の供養塔になります。
平家でありながら、源義朝の墓所である大御堂寺が荒廃していた事に心を痛め、水田を寄進し、僧侶を住まわせ再興させたと言われています。そして、いつの時代かわかりませんが源氏の子孫が供養塔を建立したといいます。
御朱印
今まで、神社御朱印用としての朱印帳は持っていたのですが、寺院用の御朱印帳は持っておらず、かといって一冊に神社と寺院の御朱印を混在させるのもちょっとと思い、この度野間大坊オリジナルの御朱印帳を購入させていただきました。
源義朝公を彷彿とさえる兜が特徴的ですね。
参拝を終えて
野間大坊の境内を散策していると、所々で目にする「美浜幕府」というキャラクターの描かれた看板。戦国時代だけではなく、源平合戦の時代にもキャラ化の波が押し寄せている様です。
さらに、動画までありました・・・。
2013年から展開している観光プロモーションなんですね。
源義頼の親父さんにどれだけ人気があるのかわかりませんが、明らかに2012年の大河ドラマだった「平清盛」の便乗商法ですかね。
さて、次回は源義朝の敵である長田親子磔の松を見に行きます。
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所在地を地図で確認
寺院名 | 鶴林山大御堂寺 |
所在地 | 愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ五十番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 知多新線「野間駅」徒歩11分 |
次の目的地は?
大御堂寺とほぼ同じ境内となっている五十一番札所である「鶴林山野間大坊/紹介記事」を参拝します。