岡崎市

海雲山長福寺(愛知県岡崎市竜泉寺町)大久保氏菩提寺

2021年1月17日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名海雲山長福寺
所在地愛知県岡崎市竜泉寺町前田九番地
御本尊釈迦如来
宗 派法華宗陣門流
創 建不明
札 所
御朱印
H P

参拝日:2018年12月26日
再 訪:2020年12月27日

沿革・由緒

 徳川家康、秀忠、家光と徳川三代に仕え、三河物語の著者として知られる「大久保彦左衛門忠敬」の墓石がある事で知られています。「死後は長福寺に葬るべし」という遺言に従い大久保氏一門の墓がある長福寺に埋葬されています。

 大久保氏に繋がる始祖は上和田城を築城したと伝えられる「宇都宮泰藤」になります。宇都宮氏(宇都(宇津)姓に改姓)の菩提寺は宮地町にある「本寿山妙国寺/紹介記事」でした。しかし、大久保氏の始祖とも言われる「宇津忠茂」によって菩提寺が妙国寺と同じ法華宗陣門流である「海雲山長福寺」に移される事になります。そして、徳川家康の関東移封に従い大久保一門も関東に移るまでの間の菩提寺となっていきます。

 いつ頃創建されたのかは史料が見つからず不明なのですが、元々は天台宗の寺院であり鳳来寺の末寺だしたが、文保二年(1318年)日蓮の弟子日印が上京の途中、当寺に立ち寄り、法華宗に改宗させたと本尊の脇書きに記されています。(基本日蓮宗の本尊は大曼荼羅で脇侍に鬼子母神と大黒天を祀るのが一般的なんだそうですが、長福寺は元々天台宗の寺院だったという事もあり、本尊は大曼荼羅ではなく釈迦如来が奉安されているのでしょうか。)
 元中元年/至徳元年(1384年)「日道」が中興と言われています。

 この日道とは、美濃国里見城の城主で法華宗に帰依して妙国寺を創建し、娘婿である宇都宮泰藤が治める三河国碧海郡和田荘に自らが創建した妙国寺を移転させ、さらに自らも和田荘に移り住んだという「土岐伊豫守頼直」になります。日道は元中元年/至徳元年に齢九十四歳で没し、妙国寺に埋葬されたと伝えられているのですが、まさに人生最後の大仕事って感じで長福寺の中興開山を行ったのではないでしょうか。

 慶長八年(1603年)には徳川家康より朱印十五石を賜っています。

歴史探訪

妙国寺に埋葬された大久保氏先祖達

 宇都宮氏から宇都(宇津)に改称後も菩提寺は岡崎市宮地町の本寿山妙国寺となっていましたが、宇都宮泰藤から六代子孫の宇津(大久保)忠茂の時に菩提寺を海運山長福寺に移しています。これには、仕えていた松平家の内部抗争が影響していたと思われます。

 宇津忠茂は文明八年(1476年)に上和田城で生誕したとされ、安祥松平氏四代「松平清康」に仕えています。当時の松平氏の惣領的な立場になっていた安祥松平氏ですが本城は安祥城であり、後に松平家の本城となる岡崎城は同じ松平氏一党の岡崎(大草)松平氏の居城となっていました。どういった経緯があったのかは不明ですが、松平清康は一門の居城である岡崎市にある「山中城」を攻め込みます。この時、宇津忠茂は急襲しようとする清康を諫めて計略によって山中城攻略を提案したとされ、この攻略がうまくいき山中城が落城した為、清康は忠茂を武功第一とし、市場を開く権利を与えています。その後、松平清康は天文四年(1535年)に森山崩れによって亡くなり、ここから永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで松平元康(徳川家康)が今川家から独立を果たすまでの25年間は内部抗争によりその勢力の衰退を招き、織田家、今川家のパワーバランスに翻弄される時期を過ごすことになります。

 この主家となる松平氏の混乱に大久保一党も巻き込まれる形となり、居城を構えていた上和田周辺は三河侵攻を狙う尾張の織田信秀が矢作川を渡河地点を守る橋頭堡となってしまいます。織田軍と今川軍が衝突したという小豆坂の戦いも織田軍はこの上和田に築かれた砦から出陣したと言われています。

 そういった状況の中、天文十六年(1547年)に宇津忠茂が死去します。これまでの流れでいけば、当然妙国寺に葬られる所なんでしょうが、この時上和田周辺は織田軍の最前線基地となっており、妙国寺は荒廃してしまっていた・・・焼失していた可能性も0ではないかなとも思われます。・・その為、遠祖「宇都宮泰藤」の義父となる「日道(土岐頼直)」が中興開山した「海運山長福寺」に埋葬される事になったのではないでしょうか。

 宇都宮氏と大久保氏を結びつける家系図は仮冒である可能性が非常に高いとも言われており、この菩提寺の変更も何らか関係があるのでは?と考える事ができるんだとか。

長福寺に埋葬されている大久保氏

・宇津忠茂以降の家系図と埋葬地

 忠茂の孫の代になると小田原の役の頃の当主達の時代になっていて、忠茂の三男「忠員」の嫡子「大久保忠世」は徳川家康の関東移封に従い小田原城主となり、当地に「大久寺」を建立、大久保忠俊、忠勝、康忠という大久保宗家といえる者達は、長福寺の智存院日慶上人に依頼し浜松市に本妙寺を創建し、関東移封に伴い本妙寺も江戸に移されています。

 長福寺の墓地は境内からは少し離れた場所にあります。長福寺から向かおうとすると少しわかりにくいかもしれませんが、美合から桑谷方面に抜ける県道326号線沿いにあります。

宇都(大久保)忠茂の墓

 松平清康に仕え、安城譜代にも名前を挙げられる宇都(大久保)忠茂の五輪塔になります。松平家中において大久保氏が躍進する基点となった人物ともいえるのではないでしょうか。

大久保忠俊の墓

 宇都姓から大久保姓に改姓したとされる大久保忠俊の五輪塔になります。

越前国の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・清康に伺いを立てると、大窪は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」に改名し、後年に漢字は「大久保」と改めた。

というエピソードが残されています。そもそも大窪藤五郎とはどんな人物だったのか。武芸者ということでどんな人物なのかは不明な人物ですが、松平清康が剛勇の士としている所から武芸に秀でた人物であるということでしょう。
 大久保忠俊も武芸に秀でた人物であり、今川義元の指揮の下行われた蟹江城攻めでは「蟹江七本槍」の一人に名を連ねるとされています。(大久保忠俊ではなく息子の忠勝とする資料もあります。)

蟹江七本槍
弘治元年(1555年)、今川軍の蟹江城攻めで活躍した松平軍の家臣七名を顕彰したもの。
・大久保忠俊(1499年 - 1581年)、または大久保忠勝(1524年 - 1601年)
・大久保忠員(1511年 - 1582年)
・大久保忠世(1532年 - 1594年)
・大久保忠佐(1537年 - 1613年)
・阿部忠政(1531年 - 1607年)
・杉浦吉貞
・杉浦勝吉
※大久保忠勝は大久保忠俊の子。
※大久保忠世と大久保忠佐は大久保忠員の子
※阿部忠政は大久保忠次の子(阿部氏の養子となる。)
※杉浦吉貞は、宇都(宇都宮)忠茂の娘の子(嫁ぎ先が杉浦政次)
※杉浦勝吉は杉浦吉貞の子

 弘治元年(1555年)に行われた蟹江城攻めには松平家臣団の内大久保一党が多く出陣していた事が「蟹江七本槍」に名を挙げられている全員が大久保氏一党であることからも見て取れます。

大久保忠員の墓

 宇津(大久保)忠茂の三男である大久保忠員の墓になります。兄である大久保忠俊と共に「蟹江城七本槍」に名が上げられている武将になります。息子に大久保忠世、忠佐という徳川十六神将にも名を連ねる武将がいて、特に忠世は小田原藩になるなど宗家よりも繁栄したとも言われています。さらに八男に「三河物語」の著者でしられる「大久保忠教」もいます。

大久保忠教の墓

 大久保一党の墓地の中で一番大きな五輪塔が大久保忠教の墓になります。
 徳川家康直参の旗本として現在の幸田町坂崎に一千石を拝領しています。この坂崎の陣屋跡は、明治維新によって江戸から三河国坂崎に戻ってきた大久保忠教の八代孫になる大久保忠明が坂崎村長を勤めていた時に坂崎郷学校を建設しています。

久世広長の墓

 三河額田郡の豪族であった小野高広の子。母が足利将軍家の臣久世十郎藤原永次の娘だったことから久世を称した。通称は平大夫。徳川家康の祖父松平清康と父の広忠2代に仕え戦功をたてた。下総関宿藩藩主久世家の祖。天文十五年(1546年)年十月八日死去。

参拝記

 長福寺の境内は尾尻地区の集落の中にあり、初見では中々わかりにくい場所にあるので、注意して進んでください。もしかしたら、龍泉寺川沿いに進んでいった方がわかりやすいかもしれません。

寺号標

 「法華宗長福寺 岡崎市開市恩人宇津忠茂公、大久保彦左衛門忠教公 菩提寺」と彫られた寺号標になります。

参道

 両側に石垣が設けられている参道が長く続いています。参道入口部分には、元々山門(総門?)が建っていた基石が残されています。この基石を見ると薬医門が建っていた感じです。

 石垣の造りなどをみると、参道となっている場所の両側には僧坊などが建てられていたのかもしれませんね。大久保氏の菩提寺という事で、大久保一党からの寄進があり、元々はかなり広い境内だったような気がします。

 この長福寺の山門の守護神として勧請されたのが、現在長福寺の北側に鎮座する「松尾神社/紹介記事」になります。その後、尾尻地区の産土神となっていたそうです。

山門

 現在の山門となっているすぐ門脇まで土塀が造られている薬医門になります。

手水舎・水盤

 木造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。柱の上部と下部に耐震性を高める貫が設けられています。この手水舎は近年建て替えがおこなれたようです。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝が設けられ、高覧のある濡れ縁がある本堂になります。石垣を用いた基壇の上に本堂が建っているので、かなり本堂が高く感じます。
 実は、旧本堂は岡崎市上地町にある「弘誓山願成寺」の本堂として移築されて現存しています。こちらの移築された本堂は享保四年(1719年)の建造であると伝えらているそうです。

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所在地を地図で確認

寺院名海雲山長福寺
所在地愛知県岡崎市竜泉寺町前田九番地
最寄駅名鉄バス 美合線「新田バス停」徒歩4分

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