五十狭城入彦命とは?
五十狭城入彦命(いさきいりひこのみこと)は、日本書紀に登場する第十二代「景行天皇」と後皇后「八坂入媛命」の間に生まれた七男六女の十番目に生まれた皇子になります。
景行天皇は前皇后の間にも子を設けています。(次男に当たる人物こそ「ヤマトタケル」と呼ばれる小碓尊になります。)そして、景行天皇は皇子たちを各地に派遣し、統治させ、大和朝廷の勢力圏を広げていったと言われています。
そして、五十狭城入彦皇子は、三河の地に派遣され、旧事記によると、「五十狭城入彦皇子は応神天皇の勅命により、三河の地の逆臣、君主に背く者の討伐をしこの地を治めた。」と書かれています。そして、この地に住み着いたが「五十狭城入彦皇子」の後裔が三河国の国造となる「長谷部氏」であると言われています。
五十狭城入彦皇子をめぐる系図
前皇后)播磨稲日大郎姫
├───────┬大碓皇子(猿投神社祭神)
第十二代景行天皇 └小碓尊(日本武尊)─第十四代仲哀天皇
├───────┬第十三代成務天皇
後皇后)八坂入媛命 ├五百城入彦皇子
├忍之別皇子
├稚倭根子皇子
├大酢別皇子
├渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)
├渟名城皇女
├五百城入姫皇女
├麛依姫皇女
├五十狭城入彦皇子
├吉備兄彦皇子
├高城入姫皇女
└弟姫皇女
日本武尊の兄「大碓皇子」は豊田市猿投町に鎮座する「猿投神社」の御祭神であり、猿投山にその御陵が治定されています。そして、異母弟ではありますが、五十狭城入彦皇子の陵墓が岡崎市西本郷町に治定されており、景行天皇の御代の大和朝廷の東端は矢作川周辺だったのではないのか?という説が存在しています。この説が正しければ、この当時、矢作川流域は大和朝廷の最前線であったということになります。そうなると、岡崎市矢作町で日本武尊が竹を使い武器となる矢を作ったとされる矢作神社は矢作川西岸に位置し、川向うの異勢力と交戦したという説が成り立っていくのかなと思いますが・・・。どうなんでしょうね。
五十狭城入彦皇子と気入彦命
延喜式神名帳に「碧海郡碧海郡六座和志取神社」が記載されていて、この和志取神社の御祭神が「鷲取天神」であるとされています。三河国神名帳には「正五位下 鷲取天神 坐 碧海郡」と記載されており、この和志取神社と鷲取天神は同一であるとされている訳です。
一方、和志取古墳は江戸時代の頃から古墳の東側に矢作の大友から移ってきたという「蓮華寺」の境内に組み込まれる形で丘陵上に薬師堂などが建立されていました。蓮華寺の堂宇の一つに鎮守社としていいのかは不明ですが「天王社」が鎮座していたといい、この天王社の御祭神が「鷲取天神」であるとされています。鷲取天神は気入彦命と同一であるとされていました。
そして、明治期になり、神仏分離令、一郷一村制などにより、延喜式内社であり三河国神名帳にもその名が記載されている鷲取天神を祀る神社がこのままでは廃棄される可能性が出てきた為、和志取古墳の南東に鎮座する「長谷部神社」が「五十狭城入彦命」を御祭神として祀っていた事から、天王社を長谷部神社に合祀する事になります。
景行天皇の皇子に気入彦命(皇子)という人物は存在しない為、五十狭城入彦命または五百城入彦皇子の事ではないかと言われています。五百城入彦皇子は兄である第十三代成務天皇の補佐として都から離れていないと言われている為、三河の地に派遣されたのは五十狭城入彦命とする説が有力なんだそうです。
そんな事から
五十狭城入彦命 = 気入彦命 = 鷲取天神
という事が言え、延喜式内社「和志取神社」の御祭神は「五十狭城入彦命」であると考える事が出来る事から、神祇院は岡崎市西本郷町に鎮座する「長谷部神社」を延喜式内社「和志取神社」であると治定しています。(後に安城市柿崎町に鎮座する「和志取神社」より異議が出たため、再検証の結果、和志取神社の治定は取り消されています。)
また、加茂郡にも「気入彦命」を御祭神として祀る「鷲取神社」があります。こちらの神社の由緒によると、日本武尊の東征に従軍していた気入彦命がこの地に館を築いたとする場所に鎮座しているとし、気入彦命は鷲取神社の北にある「市塚古墳」に埋葬されたとされています。やはり、こちらの神社でも気入彦命=五十狭城入彦命として、現在境内に据えられている由緒書きでは御祭神を五十狭城入彦命と書かれています。