岩津松平家 十八松平のひとつ

岩津松平家とは?

 松平信光が叔父「松平泰親」と共に岩津郷に進出し、その後信光が「岩津城/紹介記事」を築いた事から始まる松平氏の分家が「岩津松平家」になります。この岩津松平家の一族が発展していき、岩津松平家の分家である安祥松平家から「徳川家康」を輩出する事になっていきます。

 信光の兄「松平信広」は松平家の本拠というべき松平郷を継いでいる事から宗家的な立場でしたが、松平郷周辺を納める地方小領主としての道を選んだ為、歴史の表舞台に現れる事は殆どありません。が、江戸時代には440石の旗本身分でしたが松平家発祥の地を納め、さらに松平親氏直系の血統であることもあり交代寄合として参勤交代を行う旗本という立場でした。

 信光の子達は三河各地に所領を与えられますが、基本岩津城下に築いた館にいたと見られており、岩津城はまさに岩津松平家一党の中心地であったと考えられます。そして、信光は嫡子「親長」に家督を継がせていきます。この時、松平親長は松平家が政所執事伊勢氏の被官としてあり続ける為に、京において伊勢氏に出仕しており岩津城にはほとんど不在であったとも見られています。この親長が岩津城を離れる事が多かったこともあり、先ほど述べたように岩津城下に親長の弟達が集まり、言わば合議制で松平氏の運営を行っていたのではないでしょうか。

 岩津松平家一党の本拠ともいえる「岩津城」ですが、築城以来何度も外敵から狙われています。その最たる戦いが永正三~五年(1508-10年)の間に行われたとされる今川氏親が伊勢新九郎(後の北条早雲)を総大将として三河国掌握の軍勢を遠征させ、東三河の反今川家だったする牧野家を制圧した後に松平家を狙って岩津城下に布陣し岩津城に攻勢をかけたという当サイトでは第三次井田野合戦と呼んでいる戦いになります。この戦いでは安祥松平家二代松平長親が軍勢を引きつれ今川軍の後方より突撃し奮戦した事と東三河の動静が怪しくなってきたことが合わさって今川軍は撤退したと伝えられいますが、岩津城がどうなったのか記している資料が見当たりません。ただ、その後の安祥松平家を見ているとこの戦い以降言わば宗家としての行動が見て取れる辺りを考えると岩津城は落城したのではないかと考えられます。

 ここで問題が一つ・・・当時の岩津松平家の当主は誰だったのか?という事ですね。信光の跡を継いだ松平親長は生誕死没が不明なんですが、弟の松平親忠が永享三年(1431年)または永享十年(1438年)の生誕で文亀元年(1501年)死没であることから1420年代に生まれ、長生きだったとしても1500年までには死没していると思う訳です。そうすると永正年中の第三次井田野合戦が起こった時には親長は死没してしまっています。

 しかし、この辺りがよく解らない所なんですが、三河物語では永正年中の第三次井田野合戦において岩津殿が今川軍を迎え撃ったという一文が記されています。創作である可能性もありますが、この時の岩津殿が一体誰のことを指しているのかが不明なんです。

 寛永諸家系図伝などでは松平親長は、「松平親忠」の嫡男であるとされています。しかし、史料によると、親長は寛正三年(1462年)から京で活動している事がわかっているため、親忠の子だとすると史料と整合性が取れなくなってきてしまいます。しかし、永正年中の第三次井田野合戦時には生存している可能性が非常に高くなってきて、三河物語での岩津殿が親長である可能性も出てくるわけですが・・・。
 この辺りが、親忠から続く安祥松平家を松平宗家としたい当時の江戸幕府の思惑があり、家計図を仮冒しているのではないかとされながら断定できない部分なんでしょうね。
 このあたりは、当サイト企画「改訂三河風土記を置く-松平親忠-」に詳しく書いておりますのでご覧ください。

 親長が既に死去していたとして、岩津松平家を継ぐ子はいたのかと言えば、断絶してしまった血統の悲しい所でそういった資料が残っておらず、妻子がいたのかが全くの不明なんですが、寛永諸家系図伝には能見松平家の松平重吉の室、深溝松平家の松平忠定の室が親長の娘であるとしています。出典は不明ですが、Wikipediaには松平忠勝という嫡男がいたとも書かれていますね。

岩津松平家の系図

 家康を輩出した安祥松平氏を中心に見た系図と信光から広がっていく一族を岩津松平系ととらえる見方とでは系図の起こし方がかなり変わってきます。この見方の違いが親長の立場のあやふやさを示しているのかなと思います。

岩津松平家墓所

岩津城南側の弥勒谷と呼ばれていた場所に松平信光が建立した「弥勒山信光明寺/紹介記事」は松平氏菩提寺となっており、初代親氏、二代泰親の墓石と並んで信光の墓石があります。兄信広と領地を分け岩津を本拠とすることになった信光は松平郷にある高月院にかわる菩提寺を岩津松平家としての菩提寺を建立したんだと思います。しかし、岩津松平家を継いだとされる松平親長の墓所はわかっておらず、岩津松平家関連の墓所で自分が分っているのは安祥松平家の菩提寺である「成道山大樹寺/紹介記事」には岩津松平家供養塔が建立されている事ぐらいです。この供養塔は松平親長のものではなく、永正年間に起こった今川軍による岩津侵攻での戦没者の供養塔の様な気もします。岩津松来家の菩提寺ともいえる信光明寺にも親長の墓地が見当たらなかったので、もしかしたら、滞在先の京にて没して現地に埋葬されている可能性もありますね。

 五輪塔を模した石塔が岩津松平家供養塔になります。ちなみに、土塀と柵の向こうに見える墓地は歴代住職の墓石が並んでいる場所になります。