岡崎市

綿積神社(愛知県岡崎市柱町)

2016年12月12日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名綿積神社
鎮座地岡崎市柱二丁目十番地一号(柱町字北屋敷十四番地)
御祭神綿積命、天照大御神、豊受姫命、建御名方命、白山姫命
旧社格神饌幣帛料供進指定村社
創 建不詳
神名帳
境内社柱津天神社(祭神:柱津彦命)
 三河国内神明帳:正五位下 桂津天神 坐 額田郡
熊野社(祭神:伊邪那美命)
護国神社
例祭日十月二十日(十月第三日曜日)
御朱印
H P

参拝日:2016年12月12日

御由緒

 この柱の地には、元々矢作川に臨んだ所で、社地の近くに貝塚があった事から有史以前より人々が生活をしていた事は明らかです。伊勢海岸にあった海人族「伊勢部」または「磯部」が三河の海岸に移り、更に矢作川を遡ってその沿岸に居を占め、其祖神である海神を祀ったのが綿積神社奉斎の起原であろう。

 矢作川は、三河国の内陸への重要な海上輸送のルートとなっています。そして、沿岸部から現在の岡崎市中島町周辺にかけての矢作川沿いは「河内御園」と呼ばれる伊勢神宮の神領だったそうです。伊勢神宮へ送る荷を中島で集積して航路にて伊勢まで運んでいたそうです。

 その後、海神を祀った事から神仏習合時代になると、八大龍王社と称し、祭神を八大龍神としていました。

 今川家と織田家が現在の岡崎市小豆坂周辺で衝突した「小豆坂の合戦」の後、今川方武将「朝比奈備中守泰能」が参拝し、戦勝の記念として「槍一本」を奉納しています。
 「徳川家康」は、永禄六、七年に起こった「三河一向一揆」の時、柱方面に軍を出す毎に参拝したと伝えられています。

 昭和五年(1930年)発刊「岡崎市史」、愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」、そして綿積神社「由緒書板」にすべてに記載されているのが、「この地の住民「神尾孫兵衛久宗」その子「興四郎」「興五郎」は家康に仕え、産土神と崇敬した。」と書かれています。

・・・神尾孫兵衛久宗って誰?

 色々調べていると、ご本人なのか、同姓同名の他人なのかは不明なんですが「神尾孫兵衛久宗」という方が登場してきたので、ご紹介します。

 家康は「子を産める女性」という考えの下、初婚の女性より出産経験のある女性(未亡人)を側室に向かえる傾向が強かったとも言われています。徳川家康の側室に「阿茶局」という女性がいました。
 彼女の素性ははっきりしない為、生い立ちには諸説あるようですが、その中の一説に「父は飯田久右衛門といい、今川家の家臣「神尾孫兵衛久宗」に嫁ぎ男子をもうけたが、その後死別し、天正七年、徳川家康に召された」とあります。只、今川家の家臣とだけでどこの生まれなのか不明なので、中々同一人物だとは思えない所です。もう一説は「甲斐国出身で武田家家臣の飯田筑後直政の娘で、石和の春日神社社家神尾孫兵衛に嫁いだ」とあって、こちらの説が正解ならば、まったくの他人の空似という事になるわけですね。

 地元の者としては、歴史に名を残す「阿茶局」が実は近くに住んでいた!と思いたいのですが、どうなんでしょうね・・・。まぁ、由緒書や、各文献に「阿」の字も出てこない時点でかなり可能性は低い・・・(ない?)・・・と思いますが。

 この地は矢作川に臨んだ所で、社地の近くには貝塚あり。有史以前より住民居住し、海神を祀る。神仏習合で八大龍王社とも称した。
 永禄六、七年(1564年)一向一揆の時、徳川家康、戦勝を祈願する。この地の住民神尾孫兵衛久宗その子与四郎、与五郎は家康に使え、産土神として崇敬した。
 明治五年10月十二日、村社に列し、同四十二年九月一日、神饌幣帛料供進指定をうけた。同四十二年三月十六日、稲荷社、諏訪社、白山社を本社に合祀する。同四十五年五月二十九日、字南屋敷の神明社を合祀した。
 昭和四十八年、拝殿廊神饌所を新築、同六十一年、社務所・斎館を新築する。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

この地は元矢作川に臨む土地にて、有史以前より住民居住し、海神・綿積命を祀る。神仏習合時代は、海神としての性格より八大龍王社とも称する。
小豆坂の合戦の後、今川氏の将朝比奈備中守泰能は当社に参拝し、戦勝の御礼に槍一本を奉納。
また、徳川家康は、永禄六、七年(1564年)一向一揆の時、出陣の度に戦勝を祈願。この地の住民で家康の家臣神尾孫兵衛久宗その子与四郎、興五郎は産土神として崇敬した。

境内御由緒板より

参拝記

watatumi_okazaki1JR岡崎駅の西口から県道43号線を南に5分ほど歩いていくと綿積神社に着きます。
火の見櫓が目印になります。綿積神社の境内入口の目の前に火の見櫓が建っています。

watatumi_okazaki2境内入口から社殿を望みます。
社号標を左右に建っています。左が古い社号標で社格部分が埋められています。

watatumi_okazaki3 watatumi_okazaki4

watatumi_okazaki6社号標裏にこの様な碑が。御大典記念 「左近の桜に右近の橘」

watatumi_okazaki7灯篭の裏側に植えられている為、境内外側から中々見えにくいのが残念ですね。

watatumi_okazaki5 watatumi_okazaki16
こちらが左が大正天皇、右が昭和天皇の御大典記念の碑になります。

watatumi_okazaki8手水舎となります。ちょっと柱が細めかな。

watatumi_okazaki9

大きい狛犬です。大正八年十月生まれみたいです。
大正八年=1919年・・・第一世界大戦の終戦のパリ講和会議が行われた年ですね。

[ad]

 

境内社:柱津天神社

綿積神社の社殿脇に鎮座し、社号標もある境内社が柱津天神社となります。

御由緒

御祭神を柱津彦命と申し、天津彦根命の後裔、五十芥(いそたける)命の孫、額田別命の御子なり。

十二代景行天皇の勅を奉じ當地に遷(うつ)り坐し、民草の統治、荒野の開拓に力を注がる、即ち岡崎市南部菅生川以南(福岡、幸田、竜谷)東は男川沿岸を始めて後には岡崎、額田一円に亘り産業、文化の発展に努められ斯の御事蹟や著しく現在の盛殷(せいいん)の礎を築き給う。

文徳天皇は仁壽元年十月命の御偉蹟を賞(め)で正五位下、天神の神階(しんかい)(神様の位)を授け給いしより世に柱津天神と奉稱す。

watatumi_okazaki12社号標は立派なんですが、社殿(社)はちょっと寂しい感じですね。

watatumi_okazaki11綿積神社の社殿脇に腰掛石なる物が

叙上の如く命(柱津天神)は此の地(柱)に館を構え、折り[反復記号]の御休息の石として用いられしと、郷人(さとびと)天神様の腰掛石とぞ傳え今に及ぶ。

神垣に千年萬歳残るらん/名も世に腰掛の石


この神社に限らず、式内社や国内神明帳に指定された神社でも時代の流れで他の神社の境内社になっていたり、合祀されている場合が数多くあります。明治時代に行われた神仏分離政策や神社合祀政策によってかなりの神社が取り壊されています。20万社あったと言われる神社数が明治末期には13万社まで減っています。
古い神社故、氏子が少なかったりした式内社もかなり廃棄されたと聞いております。


watatumi_okazaki14社殿裏には、昭和天皇即位記念の碑が。元からここにあったのだろうか・・・。

watatumi_okazaki13境内裏側にある趣のある常夜燈になります。
区画整理によってここに移動されたそうで、元々は3差路に建っていたそうです。

watatumi_okazaki15神明風作りの為、鬼瓦も懸魚もこの神社にはありませんので、社殿全体を見て頂きます。

地図で鎮座地を確認

神社名綿積神社
鎮座地岡崎市柱二丁目十番地一号
最寄駅JR東海 東海道本線「岡崎駅」徒歩4分

-岡崎市
-, ,