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成道山 大樹寺(岡崎市鴨田町) 三河新四国霊場 二十一,二十二番札所

2019年7月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 大樹寺の山門から岡崎城の天守閣が見えるという岡崎城と大樹寺を直線で結ぶ「ビスタライン」と呼び、岡崎市の観光資源となっています。大樹寺は井田野合戦で戦死した兵士たちの菩提を弔うために建立された寺院であり、松平八代の菩提寺になっています。

寺院情報

寺院名成道山 大樹寺
所在地岡崎市鴨田町広元5-1
御本尊一光千体阿弥陀如来、如意輪観世音菩薩
宗 派浄土宗
創 建文明七年(1475年)二月二十二日
札 所三河新四国霊場 二十一,二十二番札所
三河観音霊場 三番札所
岡崎三十六地蔵 二十三番札所
御朱印
H P〇/web

参拝日:2019年5月29日
再訪日:2020年11月18日

由緒・沿革

 大樹寺の寺伝によると、大樹寺の創建は文明七年(1475年)、開基は安祥松平家初代「松平親忠」、開山は「勢誉愚底上人」となります。

 松平親忠は、松平家三代目「松平信光」の三男として生まれています。当初は岩津城近くに所領をもっていましたが、信光が文明三年(1471年)に落とした「安祥城/紹介記事」を与えれ「安祥松平家」を起こしています。
 松平宗家は岩津城を本城とする「岩津松平家」となっており、松平親忠が起こした安祥松平家は庶家としての立場になります。ただ、この頃の松平家は宗家と庶家との合議制で動いていたはずで、親忠を始めとする兄弟たちは通常時は基本的に岩津城下に居を構えていたようです。
 安祥松平家から松平清康、徳川家康が生まれて為、後に安祥松平家が松平家惣領の立場なったと大久保彦左衛門が江戸時代に書いた「三河物語」にも書かれています。

 なぜ、松平親忠は岩津城の南に「大樹寺」を創建したのか。大樹寺の寺伝「大樹寺格式」に載っているのですが、応仁元年(1467年)八月二十三日に「尾張の品野」と「三河の伊保」の勢力が松平家の本城である「岩津城」に目指して矢作川沿いに南下し、渡河地点である大門から井田野に軍を進めます。この時、井田野に布陣していた「松平親忠」率いる松平軍と激突し、松平軍が撃退した戦いがありました。この戦いを「第一次井田野合戦」と呼びます。
 この戦いでは多くの戦死者が出て、疫病が流行した為、松平親忠は、三河の地を訪れていた「勢誉愚底上人」に帰依し、井田野の地にて一宇(長親山西光寺/紹介記事)を建立し七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって弔っています。その後、文明七年(1475年)親忠公は、「勢誉愚底上人」を開山として大樹寺を建立しています。

 応仁元年(1467年)八月二十三日 井田野の合戦で多くの戦死者が出て、悪疫が流行したので 松平親忠公は 勢誉愚底上人に帰依して 七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。その後、文明七年(1475年)親忠公は、熱心な念仏者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
 それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として一千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも、岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
 親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
 松平第九代の家康公は、十九歳の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念仏の教えの尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念仏者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土、欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。 家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
 家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」はたくさんるが、この寺にも署名された「名号」がおさめられている。
 松平御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
 西方に見ゆる多宝塔は天文四年(1535年)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。本堂と大方丈は安政二年(1855年)に焼失したが、安政四年、十三代将軍家定公の時に再建された。
大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉爲恭の描いたもので、百四十六面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。

「境内案内板」より

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岩津村大字鴨田に在り。浄土宗京都知恩院の末なり。松安院と号し文明七年松平親忠の創立にして勢譽上人の開基に係れり。天文十九年勅願寺に充させられ寛永十八年重修せらる。安政二年祝融の災いにかかり堂宇伽藍悉く鳥有に帰し、再び改築せられたり。
 此寺郡内屈指の巨刹にして殊に徳川氏に對對し尤も由緒深く、且其の宝物古文書多数を蔵す。寺内に親忠初め代々の墳墓及び数十塔あり。
【寺伝】
 当国碧海郡宇称部之郷(現在の豊田市畝部町)福林寺に勢譽愚底上人と申しける知徳兼備の名僧あり。岡崎城祖松平親忠公、上人の知徳卓越せるを聞し召し、度々城内に招きて広開浄土の法門を尋ね給ひしより篤く仏法を信じ給ひて時々登城せしめ上人の法雨を士卒の上にまでそそがしめ給う。
 応仁元年秋八月、信濃の凶徒二萬余騎、岡崎勢五百余騎と本郡井田野に合戦す。不思議にも親忠公大徢を得凱歌を奏して岡崎城に帰り給う。蓋し是れ三宝尊信の故を以て神兵の衛護し給ひしならん後にいたり親忠公戦死の者を憐み給ひ死骸を集め塚を築きあつく霊魂をなぐさめ給えり。其の後九年を経て文明七年彼の亡魂当時戦場なりし井田野にありて日夜兵刄相接音凄まじく首塚叫喚嗚動する事鯨波の如くなれば聞く人驚嘆して往来を絶つに至る。この時にあたり村考野人亦疫病の患に罹罹ることに於て親忠公の悲優ひとかたならず哀憐し給いて亡霊得脱の廻願いと懇なりしと雖鳴動なほ止まず。疫病また盛なれば親忠公特に勢譽上人を招き亡霊得脱の廻願を請ひ給ひたれば、勢譽上人いそぎ井田野(今の西光寺)に仮の庵を結び親忠公より賜はりし山越の弥陀の書像を掲げ七日夜の別時を営ませ給いたれば、其の満願の日高至心に廻向し給ふに奇なるかな。叫喚嗚動も兵刄相接音も忽ち止み疫病亦頓に癒ゆとなん。其れより井田野を魂場野と今尚称せり。
 これを以て親忠公深く三宝の威神を感ぜられ信仰倍々肝に銘じその恩に報い徳を謝せんが為後土御門御宇文明七年二月二十二日勅許を得て諸堂を建立し多くの荘園を寄せられ勢譽上人を開山とす。上人自ら成道山松安院大樹寺と号し奉る蓋し此寺号等を付するは勢譽上人の卓見非凡の事を知るべし。是より先き開山勢譽上人は親忠公の信仰他に異なるを随喜し本宗の秘訣たる五重の奥義を結禄相承せらる公の歓喜喩ふるに物なく念仏為宗の現富両盆空しからざる事を決得。子孫一門を傳へて代々浄土宗たることを誓約しこの寺を菩提寺と定め前三代親氏公己来の廟所を模してこの寺に奉安せられ、尓来松平家八代の霊所は今尚当寺に現存せり。
 其の後、永正元年八月、勅命により勢譽上人は総本山知恩院二十三世の法統を継がせ給い。八カ年を経て再び当寺に隠退し永正十三年四月二十一日行年七十三化緑の薪盡きて遺骸を当寺に葬る。開山自作の尊像並びに本廟今尚之を存す。後柏原天皇勅して訓公大和尚と諡号あらせ給うこれに所以あるかな。

三河国額田郡誌」より

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歴史探訪

 大樹寺が創建されるきっかけとなった「井田野合戦」なんですが、この「井田野」の地はその後も何度も松平領に攻め込んでくる勢力と激突する地となっています。

第一次井田野合戦

 応仁元年(1467年)八月二十三日、尾張の品野と三河の伊保の勢力が矢作川沿いに南下し岩津城を攻め込みますが、松平親忠率いる軍勢と井田野で戦い、松平軍が撃退しています。
※ただし、この戦いは所説あり、実際に起こった戦いなのか、もしくは年代が違っているのではと言われています。

第二次井田野合戦

 明応二年(1493年)十月二日(十三日とも言われています)、碧海郡上野城の「阿部孫次郎」と、加茂郡の挙母城「中條出羽守」・寺部城「鈴木日向守」・伊保城「三宅加賀守」・八草城「那須宗左衛門」の土豪の軍が三千騎で岩津城を攻め込みますが、「松平親忠」率いる二千の軍勢によって撃退されています

第三次井田野合戦

 永正三年(1508年)、駿河国の「今川氏親」が松平領に攻め込んできます。先陣は後の北条早雲となる「伊勢宗瑞」です。今川軍は東三河の牧野氏を攻め落とした後、鎌倉街道を西進して岡崎に軍を進め、井田野周辺に布陣したと言われています。岩津城攻めの最中、大樹寺は今川軍によって徹底的に破却されたとも言われています。

第四次井田野合戦

 天文二年(1533年)十二月、松平家七代「松平清康」が、三河に侵入した信濃兵を井田野で撃破。

第五次井田野合戦

 天文四年(1535年)十二月五日に松平清康が尾張の織田弾正忠信秀を攻める最中に守山の陣中で急死した(森山崩れ)為、織田信秀が三千騎を率いて三河に押し寄せ、大樹寺のある井田野に軍勢を進めた。そこで松平方の軍勢とぶつかり合戦となった。清康の子の「松平広忠」はまだ10歳のため、広忠の伯父の三木蔵人信孝・松平十郎三郎康考兄弟が12日に兵八百を率いて井田野で食い止め撃退した。

 第三次井田野合戦では、岩津城を包囲する今川軍によって大樹寺は徹底的に破壊されたといわれており、その後大樹寺は再興されますが、当然ながら再興以前の史料は無く、再興後記された「大樹寺格式」(永正十年(1513年)七月十日付)という寺院運営の規式を大樹寺開山勢誉愚底、当代の住持並びに道閲(松平長親)・道忠(松平信忠)と連署して定めた中に、大樹寺創建の由来も書かれていますが、事後に書かれた書物でもある事から脚色されているのではと言われています。

 第一次井田野合戦についての記述は「大樹寺格式」にのみ登場しており、その他の歴史書には登場してこない戦いになります。その為、明応二年に起こった第二次井田野合戦と年号を間違えたのではとも言われているそうです。まあ、由緒板と額田郡誌だけを見ただけでも、井田野の合戦で書かれている事が異なっており、額田郡誌にいたっては、第一次井田野合戦と第四次井田野合戦とが混じったような感じになっています。

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改正三河風土記を追う

 当ブログでは、江戸時代の歴史書である「改正三河後風土記」を通じて松平家の歴史、所縁の場所を巡っています。

 徳川家康とその先祖の「松平八代」について記載されている歴史書であり、その中の 第五巻、「親忠君御子付榊原氏由緒並井田郷軍大樹寺建立の事」の項に大樹寺建立の事が書かれていますので紹介させて頂きます。

・・(前略)・・明応二年十月二十日、三州上野城主「阿部満五郎」、挙母城主「中條出羽守」、寺部城主「鈴木日向守」伊保城主「三宅加賀守」、八草城「那須宗左衛門」等会議し、親忠君の岩津の城を襲わんとて、三千余騎にて出陣す。

親忠君是を聞し召し、三州井田の郷まで出張し給ふ。相従ふ輩には、御伯父松平平太郎左衛門信弘の長子「松平太郎左衛門長勝」、先手として「松平遠江守益親」・「松平出雲守家久」・「松平筑前守家弘」・「松平備中守久親」・御兄「松平左京亮守家」・御弟「松平三郎光直」・形原の「松平佐渡守与副」・岡崎の「松平大膳亮光重」・「松平八郎左衛門光英」・「松平弥三郎元芳」・能見の「松平次郎右衛門光親」・「松平美作守家勝」・「松平修理亮親正」、御子には「岩津太郎親長」・「松平源次郎乗元」を始として、「松平二郎三郎長親」君も御出馬あり。是に従う面々、「岡崎弾定左衛門信貞」・「酒井左衛門尉氏忠」、「酒井与四郎家次」・「本多八郎正時」、「本多平八郎助時」・「林藤助光友」・「菅沼進三郎定直」・「榊原七郎右衛門清長」・其子「榊原孫十郎長政」、其他国人等都合その勢百四十余人なり。

阿部・鈴木・三宅・中条・那須等かけ合、互いに勇を励み、井田郷に於いて終日戦い暮しけり。時に「榊原孫十郎長政」、わづか十二歳、父清長と共に高名す。酉の刻に及んで敵終に敗走すれば、味方勝ちに乗じて散々に追討し、敵の首五十余級を得たり。味方にも「松平太郎左衛門長勝」等討ち死にす。扨井田郷に棹結渡し、敵の首どもを懸並べて勝鬨を行う。

是より後は西三河の国人ども、大半親忠君の御手に属しければ、御武威ますます盛なり。ここに又井田郷にては此戦に討ち死にせし敵味方の幽魂ども、時ならず呼叫ぶ声喧すしく、其怪異尤多かりしかば、親忠君是を憐れみ給ひ、三州額田郡鴨田という所に、浄土寺を造営ありて、大勢の骸骨を埋め、山の如く築きて「千人塚」と名付けらる。又其寺をば「大樹寺」と号せられ、勢譽愚底を以て開山とす。依て上人親忠君に申され、十月十夜に念仏施行ありしかば、夫よりかの呼叫ぶ声しづまりけるとぞ。かかる怪異ありければ、井田野といひしを改めて、魂場野と申しけるよりなし。扨親忠君は明応六年丁巳七月二十日御隠居有て、御子長親君に御家督を譲りたまひて剃髪し、西忠と号し給へり。

 この「改正三河後風土記」では、大樹寺建立の契機となったのは、明応二年(1493年)十月二日(十三日とも言われています)に勃発した第二次井田野合戦であるとしています。当時の松平家の惣領は岩津城を治めていた岩津松平家であり、松平家とは矢作川と支流巴川の対岸に位置する上野城、挙母城、寺部城、伊保城、八草城の各城主が連合軍を起こし松平家に対し進軍先は、松平家の惣領である岩津城という事になるわけです。

 この頃の岩津松平家は「松平親長」になります。この親長については、史料によって信光の長男であるとされたり、いや親忠の長男であるとされたり、出生がハッキリとはしていません。参考にしている「改訂改正三河後風土記」では、親忠の長男である説を採用しているようで、「岩津太郎親長」と書かれていますね。松平親長は伊勢貞親のいる京都に出仕をしており、基本的に岩津城には在城する事はほとんどなかったとされています。

岩津城の地勢を見ると、北側は、岩津城から松平郷に通じる松平家の領地が広がり、西には矢作川、東側は山と、連合軍が岩津城と相対するように布陣できるのは、岩津城の南側しかないことがわかります。そこで、連合軍は現在の日名から大門あたりで矢作川を渡河して、岩津城と相対する様に青木川南側に布陣したと考えられます。

 そして、親忠は安祥城から軍勢を率いて(一説には岡崎城を経由して)連合軍が布陣する井田野に向かい南方から突撃したとされます。親忠は連合軍を岩津城の城兵との挟撃することにより打ち破り勝利に導いています。この合戦の勝利により、安祥城の松平忠親は惣領だが、京都に出仕しており不在がちな岩津松平家の名代としての地位を確かなものにしたと言われています。

ただ、この第二次井田野合戦が起きた時には大樹寺は既に創建されていたと言われています。第三次井田野合戦で今川方の後の北条早雲に大樹寺は破壊されています。この時が永正三年(1508年)ですので、それより以前に創建された事には間違いないのですが、はっきりと分からないといった所が実情ではないでしょうか。

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霊場をいく

三河新四国霊場

三河新四国霊場を札所順に巡っていると、豊田市四郷町にある十九,二十番札所「水月山 雲龍寺」から次の札所である二十一,二十二番札所「成道山 大樹寺」まで道なりで20kmも移動する事になります。三河新四国霊場の中でも札所間の移動距離は一番長いのではないでしょうか。

岡崎三十六地蔵霊場

 二十二番札所「清浄山九品院/紹介記事」を参拝後、西に進み二十三番札所となる「成道山大樹寺」を目指します。三河新四国霊場を遍路した時は大樹寺→九品院という札所順だったのですが、今回はその逆打となる感じですね。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

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浄土宗は赤地に白抜きのスタンプ!

参拝記

国道248号線「大樹寺三丁目」交差点を東側に進むと、石畳敷きの坂道が続き、右手に大樹寺小学校、そして左手にひときわ目立つ楼門が見えてきます。この山門が大樹寺になります。

・駐車場は、楼門の東側、瑞垣が切れた場所から境内に入ると用意されています。

楼門

本堂正面に立つ重層門の楼門になります。楼門の左右には「山廊」と呼ばれる二階に上がる為の階段に通じる平屋の建物が建てられています。比較的大きな楼門に付随している建物になるそうです。

正面から撮影すると、どうしても角度的に横に間延びした感じがしてしまいますが、斜めから撮影すると、楼門の高さがわかって頂けるかと思います。

実は、楼門南側にある大樹寺小学校の南側に、大樹寺の総門があり、小学校の校庭を横切る形で本来は参道がこの楼門に通じていました。現在でも、小学校の正面玄関越しに総門を見る事ができます。
(総門はまた後日追記させて頂きます。)

この、楼門から総門を望むと、更にその先に岡崎城の天守が見えるんです。これが現在「ビスタライン」と呼ばれる物でして、岡崎市の条例でこのビスタライン上では背の高い建物は建てることが禁止されているほど、この景観を大切にしています。

岡崎市のホームページでビスタラインを確認

https://www.city.okazaki.lg.jp/1100/1184/1169/p006107.html

石柱

楼門脇には、「徳川家菩提所成道山大樹寺」と彫られた石柱が据えられています。 なぜ大樹寺が徳川家の菩提寺とされたのか・・・。
得川家康が遺言として
久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」
と側近に伝えたと言います。


要約すると

1. 駿府城の近くの久能山に埋葬すること。
2. 葬儀は江戸の増上寺で行うこと。
3. 位牌は三河の大樹寺に置くこと。
4. 1周忌を過ぎた後、日光に"小さい"堂を建てて、祀ること。

この遺言に従い、大樹寺には徳川家康の位牌が安置される事になります。その後、歴代将軍も家康に準じて大樹寺に位牌を安置した為、初代家康~十四代家茂までの位牌が大樹寺に安置されています。

 楼門から本堂に通じる参道。
参道脇は排水路が設けられており、こういった参道も比較的大規模な寺院、神社で見かける様式かなと思います。

手水舎

山門などと比べると小さく感じてしまう瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。水盤は比較的新しい感じがします。

本堂

入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。浄土宗の本堂らしく周囲に高覧のある濡れ縁が設けられています。
三河新四国霊場の札所の中でも屈指の大きさを誇る本堂かと思います。

本尊の阿弥陀如来像になります。

三河新四国霊場の札所になる弘法大師像は、本堂の左側に設けられています。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

本尊向かって右手には、三河観音霊場の札所本尊である「如意輪観音」が奉安されています。
その観音様の手前に置かれているのが「輪蔵」になります。当サイトでも、各寺院の紹介記事の中で「輪蔵庫」の紹介をしていることがあります。その「輪蔵庫」の中に置かれているのが「輪蔵」になるわけです。

輪蔵とは?


経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架を設け、そこに大蔵経を収納した形式のものである(回転式書架)。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典全巻を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている

マニ車にも通ずるものを感じますがこの輪蔵、今でも回すことがあるのでしょうか・・・。

岡崎三十六地蔵

 江戸幕府三代将軍徳川家光の乳母として有名な春日局の念持佛が岡崎三十六地蔵霊場の札所本尊となっているようです。

 本堂内ということもあって、スタンプは非常に押しやすかったです。

開山堂

本堂脇に立っている宝形造瓦葺の開山堂になります。

開山堂をそのまま訳するなら、大樹寺開山である勢譽愚底上人を奉安している御堂になるはず・・・なんですが、現地にある説明板には

桁行3間 、梁間3間、宝形造、桟瓦葺。内部のひとつの空間とし、背面に半間幅の箱仏壇を設けています。天井は格天井で床は畳敷・屋根頂には露盤、宝珠を上げています。建立年は不明ですが、木鼻などの絵様や彫刻などから、江戸時代前半頃の建立と考えられています。

と書かれているだけで、詳細は不明です・・・。

松平家八代墓所

由緒にも出ていますが、松平親忠がこの大樹寺を創建する一つの目的が、松平家の菩提寺を建立することでした。親忠は安祥松平初代だったのですが、松平宗家である岩津松平家の力が急速に低下し、安祥松平家が宗家となっていった為、結果的に松平宗家の菩提寺という形になっています。

向かって右から初代「松平親氏」から続き、一番左側には松平九代「徳川家康」の墓石があるのですが、元々は家康の墓は無く、松平八代の墓とされている通り、八代目「松平広忠」の墓までが奉安されていました。家康の墓は昭和40年代に作られた物の様ですね。

わざわざ書かなくてもよいかとおもいますが、松平八代とは、

松平家初代 松平親氏(生没年不詳)
松平家二代 松平泰親(生没年不詳)
松平家三代 松平信光(1404-1488)
松平家四代 松平親忠(1431-1501)
松平家五代 松平長親(1473-1544)
松平家六代 松平信忠(1486-1531)
松平家七代 松平清康(1511-1535)
松平家八代 松平広忠(1526-1549)

となっています。

五代長親の時、今川家が岩津城を攻めた第三次井田野合戦がありましたが、それいがいは基本松平家は七代清康の時代まで勢力を拡大し続けていたと考えられます。ただ、若き当主である松平清康が森山崩れで死亡すると、松平家は内部抗争が起き、急激に力が衰えていき、清康死亡の十五年後には今川家に合併されてしまう事になります。桶狭間の合戦後、家康が今川家から独立を果たしているのであまり言われないのですが、一度は滅んだと言ってもよいかと思います。

岩津松平家供養塔

松平八代の墓所の脇に、「岩津松平家供養塔」と彫られた五輪塔を模した石柱があり、その奥に歴代の大樹寺住職の墓石が並んでいます。永正三年(1508年)に北条早雲率いる今川軍が岩津城を取り囲んだ第三次井田野合戦については前述していますが、もしかしたらこの時、岩津城は落城している可能性もあるようです。実際この前後から岩津松平家が史料に登場してこなくなるんだとか。この供養塔は岩津城落城の際に亡くなった方達の供養塔なのかもしれませんね。

多宝塔

松平七代目「松平清康」によって天文四年(1535年)に建立された国の重要文化財である「多宝塔」になります。

個人的に、木組の感じがたまらなく好きです。

愛知県庁文化財ナビ愛知

http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0007.html

鐘楼

袴腰が設けられた鐘楼になります。
こちらの鐘楼は楼門や総門と同じく県の文化財に指定されています。寛永十八年(1641年)建造らしいです。

楠木正成・正行像

境内の一角にある楠木正成・正行親子の石造になります。息子である正行像の頭部はコンクリートで補修されていますね。

この楠木正成像なんですが、どうやら正成が、足利尊氏の軍に敗れて自刃した時に誓った言葉「七生報国」に由来して、全国各地につくられたと言われています。ここ大樹寺の楠木正成像は、息子である正行との別れの場面を模したと言われており。皇紀二千六百年記念として作られた像になります。
七生報国」とは「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国(南朝天皇家)に報いん」という意味であり、それが転じて戦中期の国威高揚の為に使われており、戦争遺蹟とも言われる石像になります。

本来石像通しが正対しているはずの様で、ここ大樹寺の正成像は他の場所から移設されたかもしれません。ちなみに、愛知県下にはこういった楠木正成像が八体確認されている様です。

東門

薬医門の東門になります。こちらから大樹寺の塔頭であった回向院に向かう事ができますよ。
こちらの薬医門も愛知県の指定文化財になります。

元々は、この薬医門より東側に高麗門が立っていたそうなのですが、現在は東浦町の方に移築されています。

愛知県庁 文化財ナビ愛知

http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kensitei/0080_4.html

御朱印

参拝を終えて

楼門の脇に据えられた避雷針の元になります。屋根側に付けられている避雷針はよく見かけますが、こうして地面側の装置を見かける事は早々ないですからね。

雑誌・マンガに加えて旅行雑誌の定番"るるぶ"も月額500円(税抜)で読み放題!

やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名成道山 大樹寺
所在地成道閣(大樹寺)
最寄駅名鉄バス「大樹寺バス停」徒歩7分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

次の目的地は?

三河新四国霊場を行く

三河新四国霊場二十三,二十四番札所荒井山 九品院」を目指します。

ちょっと寄り道

酒井左衛門尉家菩提寺である元大樹寺塔頭の「回向院」に向かいます。

-三河新四国八十八ヶ所, 三河観音三十三ヶ所, 岡崎三十六地蔵, 岡崎市
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