岩津城(愛知県岡崎市岩津町)岩津松平氏居城

城郭情報

城名岩津城
所在地愛知県岡崎市岩津町東山
築城年不明
築城主松平信光
城形式山城
遺構曲輪、土橋空堀、土塁
規模150m×200mか
備考岡崎市指定史跡

訪問日:2019年8月3日

沿革・詳細

松平泰親の岩津進出

 松平氏二代目松平泰親が岩津郷を何時頃手中に収めたのかは不明なわけですが、岩津町に鎮座する若一神社には松平泰親が応永三十三年(1426年)に若一神社を建立した時の棟札が所蔵されており、応永三十三年(1426年)には岩津郷は松平氏の勢力圏に組み込まれていた事が判明しています。

 松平氏が岩津に進出する以前は、岩津郷の領主「岩津大善」(中根大善とする資料も存在します。)が治める地でした。この岩津を松平泰親は何時頃どのような手段で手に入れたのか・・・大久保彦左衛門忠教著「三河物語」では、「松平之郷中を出させ給ひて、岩津に城を取せ給ひて・・・」と簡素に書いてあるだけその時期や手法は書かれていません。
 が、「三州八代記古伝集」には、「松平郷から矢作にかけての山道に山賊が出て、この裏には岩津城主岩津大善が関与していると見た泰親は八月十五日の満月の夜に攻め込み、大善は切腹し、泰親は岩津に本拠を移した。」と記されています。

 松平氏は元々武士の一族ではなく、有徳人と言われる庄屋とか商屋といった出身であり、親氏や泰親の代には、武力で勢力を広げるというより土地を購入して勢力を広げていったと考えられており、勢力を広げていく中で自衛手段として少しずつ武装化を進めていたとは思いますが、他の勢力を武力で攻め込むほどの武装化が進んでいたのかは少し疑問かなと思っています。

 三河国は鎌倉時代より三河守護として足利氏が所領化しており、特に地頭職も兼ねていた碧海郡、額田郡については将軍家の直轄地として足利将軍家の手を離れる事は無かったとされます。加茂郡にある松平郷から額田郡岩津に進出する松平氏が武力を行使する場合、将軍家が納得するだけの理由が必要なわけで、「山賊を裏で操っている・・・かも?」だけで武力行使して将軍家が納得すると思います?下手をすると直轄地を犯す逆賊として討伐軍が送られかねません。

 室町幕府は所領問題などを契機とする武力行使は厳重に禁止しており、ましてや、先に述べたように将軍家直轄地での武力行使となると三河守護、奉公衆または額田郡政所などにより問題とされ、書面などに記されているはずですが、現在そういった資料は見当たらない所からも武力行使の線は非常に低いと考えられます。

 仮に武力行使で岩津郷を奪取する可能性があるとするならば、幕府の意向にそって松平泰親が岩津大善を討伐したとするならば可能かと思いますが、そこまでの武装化が親氏、泰親の代だけで可能だったのかは考慮に入れる必要があるかなと思います。

松平郷譜代といえる親氏、泰親の代の家臣

  • 酒井氏・・碧海郡または幡豆郡出身の豪商または庄屋出身と伝わる。
  • 大久保氏・南朝武将宇都宮泰藤の末裔と伝わる。
  • 林氏・・・信州林城主小笠原清宗の次男林光政を祖とする。
  • 成瀬氏・・二条良基と足助重範の娘の間に生まれた成瀬基久を祖とする。

その他に、菅沼氏、平岩氏、天野氏の名を挙げられることもあります。

 上記にあげた大久保一党、林一党、成瀬一党が当時どれだけの与力を持っていたのかは不明ですが、やっぱり街道沿いの治安維持などが主たる任務だったはずで、幕府の命による討伐遂行はかなり厳しいのではないかと思う訳です。

 松平氏の出身、当時の社会状況などを考えると、「松平泰親は岩津郷を岩津大善と呼ばれる領主から売買で買い取り、領地化を進める為、岩津大善が居していた館に松平郷から移り住み、その守護神として若一神社を勧請創建した。」と考える事ができるかなと思います。岩津郷を買収した時期は、若一神社が創建された応永三十三年(1426年)よりは先になりますが、長くて5年ほど前じゃないかと思っています。

松平信光による岩津城築城

 松平郷などの山間部とは異なり、岩津郷は岡崎平野の北側に位置し、南には広大な平野が広がっています。そして岩津郷を手中に収めた松平氏は自らの所領を守るために急速に武装化=武家化していったものと思われます。

 この頃家臣として仕えた武将に「本多助時」がいます。本多平八郎系とも呼ばれ、徳川四天王のひとり「本多忠勝」の祖先になります。本多氏には平八郎系以外にも彦八郎系、作左衛門系、弥八郎系、三弥左衛門系と呼ばれる一族がおり、本多重次や本田正信など家康の重臣を輩出しています。本多氏は一族が一度に松平氏の家臣となったわけではなく、それぞれの家が徐々に松平氏に仕えるようになっていったようで、一番最初に松平氏に仕えた平八郎系が本多氏の宗家という位置づけになっています。

 二代松平泰親は没年は不明ですが、応永三十三年(1426年)以降に亡くなると、松平郷は松平信広が継承し、松平信光が岩津郷を中心とした岩津松平氏として松平宗家の立場になっていきます。 

そして、武家化していく中、岩津郷を松平氏の新たな拠点とするべく防衛拠点として岩津城の築城していく事になります。岩津城の築城と並行して周辺の開発も行われ、一族や家臣などが居する居館を砦の様な様式で建設し「岩津七城」とよばれる付城を構える様になります。また、岩津城の南方の弥勒谷と呼ばれる北西南の三方が山に囲まれた場所に松平氏の新たな菩提寺として「弥勒山信光明寺」を建立します。この信光明寺周辺に松平信光の館が設けられたと思われます。

 松平信光は岩津の開発と並行して室町幕府への接近を行い、「政所執事伊勢貞親」に仕えていく事になります。そして、寛正六年(1465年)に三河各地の国人衆は反幕府を掲げて起こした「額田郡一揆」が発生し、松平信光は伊勢氏からの要請によって一揆鎮圧のために松平氏としてはほぼ初めてであろう軍事行動により首謀者の一人「大庭次郎左衛門」と討ち取っています。そして、一揆鎮圧後の論功行賞によって、深溝・形原・竹谷・五井・長澤などの地を与えられ、急激に松平氏が成長してく切っ掛けとなっています。

岩津城を巡る戦い

 急激に勢力を伸ばすという事は、周囲の国人衆などに脅威を与える事にも繋がる訳で、この信光の勢力拡大が逆に他勢力から侵攻を受ける事になります。

第一次井田野合戦

 額田郡一揆鎮圧から二年後の応仁元年(1467年)、尾張の品野、三河の伊保の軍勢が岩津城の南方に位置する井田野に進軍してきますが、松平信光の三男「松平親忠」が五百騎の軍勢で迎え撃ち、一夜と半日の激闘で潰走させたという「第一次井田野合戦」がおこります。
 この戦いでの戦死者を弔うために松平親忠が建立したというのが「千人塚/紹介記事」になります。

第二次井田野合戦

 明応二年(1493年)十月二十日、碧海郡上野城の「阿部孫次郎」・加茂郡の挙母城「中條出羽守」・寺部城「鈴木日向守」・伊保城「三宅加賀守」・八草城「那須宗左衛門」の連合軍三千騎が松平領に向けて進軍し、井田野に布陣し岩津城と対陣するが、安祥城より松平親忠の援軍が南側より攻め込み、岩津城の城兵と挟撃する事で敵兵を打ち破っています。

第三次井田野合戦

 「柳営秘鑑」では文亀元年(1501年)、「徳川実記」などでは永正三年(1508年)、駿河・遠江守護である「今川氏親」が三河国への侵攻を開始します。氏親は伊勢新九郎(北条早雲)を総大将とする軍勢を三河に向けて進軍させ、牧野古白の居城「今橋城」を攻め落としています。そして、今川軍は敵対関係にあったと言われる松平氏の制圧に向けて軍勢を西三河に進めます。
 一説では一万とも言われる今川軍が松平氏の本城である岩津城の南方の井田野に布陣し、岩津城に向けて攻勢をかけます。この戦いで、岩津城下は兵火に罹り、信光明寺や大樹寺など松平氏所縁の寺院なども灰燼に帰しています。
 この戦いで岩津城が落城したかどうかは諸説ありますが、岩津城が落城したかしなかったかに関わらず、今川軍に対し劣勢ながら果敢に戦い、最終的には今川軍を撃退した形となった安祥松平氏の松平長親が松平一族の中での惣領的な立場になっていき、岩津城を城とする岩津松平氏の立場は宗家から庶家へと変貌していく事になります。

 これ以降も井田野では松平領に侵攻してくる勢力との間で戦いが勃発していますが、岩津城を狙った侵攻ではなかったと考えられます。第三次井田野合戦以降は、松平氏の本城といえば安祥松平氏の安祥城、そして清康が奪取した岡崎城へと移っていき、さらに岩津松平氏が断絶してその領地が清康の弟松平信孝が接収してしまったこともあり、岩津城は表舞台から静かに消えていく事になります。(なにやら今川軍を跳ね返した強固な防御力を恐れた今川義元が破却を命じたという説もあるそうですが・・)

 時代は下り、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧長久手の戦いにおいて、岩津城は歴史の表舞台に引っ張り上げられて、大規模な改修が行われたと言われています。結局、この戦いでは戦場となる事はなく和睦が成立すると再び岩津城は表舞台から消えていっています。

歴史探訪

 まずは岩津城を築城したという松平信光の中心に松平一族の家系図を見ていこうと思います。初代親氏、二代泰親に関してはほぼ資料がなく存在していなかったのではないかとも言われていたのですが、前述した通り、若一神社の棟札に泰親の名を確認できたことから、少なくとも応永三十三年(1426年)には岩津に進出していた事が判明したわけです。

 今までの定説ですと、泰親の嫡男が信光だったとされていましたが、近年新しい資料が見つかったり分析が進んだことから、この定説について少し雲行きが怪しくなってきました。この辺りは、当サイト内特集「改訂三河風土記を追う」の中の譜代酒井氏についての記事の中でも少し述べておりますので参照して頂けたら幸いです。

 ここでは、今までの定説の系図と新たに発見された系図について比較していきたいと思います。

 画像は譜代酒井氏の記事で作成したものを転用していますが、特に注目すべき点は、今までの定説では泰親の子として信光が続いていましたが、新たな節では、親氏と泰親が兄弟であり、信光は親氏の子供であるとしている点です。こちらの説では、親氏が亡くなった時、子の信光はまだ幼少であった為、泰親が信光が元服するまでの間松平家の家督を継いだという事になっています。

 親子なのか、叔父と甥の関係なのかで松平氏の発祥の年代が20年から30年ほど違いが出てくるはずで、その影響なのか、親氏、泰親の没年に関しては多くの説があり、またかなり年代にばらつきが生じています。よく言われる松平氏と源氏を繋げる為に行われた意図的な系図の書き換えの影響もあるのかもしれませんね。

 松平氏の家督は本来でしたら嫡子の松平信広が継ぐはず。実際、松平信広は松平氏の本拠(本貫)ともいえる松平郷を所領としています。本来でしたら松平信広を始祖とする松平郷松平氏が宗家たる立場にあるはずなのですが、その後の松平信光の系統が非常に勢力を伸ばしていき、松平郷松平氏は庶家の立場となっていったんだと思います。
 そして、次男である松平信光は泰親が新たに獲得し居するようになった岩津郷に呼び寄せられ、言わば岩津松平氏として岩津郷を継いでいきます。松平郷と岩津郷が切り離されたこともあり、信光は自らの所領である岩津郷を新たな本拠とするべく開発を進め、岩津城を築城する事になっていきます。

訪問記

 岩津天満宮とは東名高速道路を挟んで反対側にある小高い山が岩津城址となっています。以前は非常に分かりにくい登城口だったんですが、自分が訪問した時には、今まで私有地で通れなかった所が整備され登城口となっていました。

 どうやらここから岩津城に向かう事ができる様です。ここから岩津城址の石碑があるという主郭に向かって進んでいこうと思います。

 途中には、四国八十八ヶ所の写し札所が何ヶ所か据えられていました。何時頃開創された霊場なのかは不明ですが、札所が置かれている場所を考えると、信光明寺と岩津城を中心とした中々広い地域を霊場としているようで、「岩津郷新四国霊場」と呼んでもいい感じです。各札所に鞘堂が整備されていたら日泰寺近くの覚王山新四国の様な感じだったんだろうと思う訳です。

 ただ、岩津城を紹介している記事や信光明寺を紹介している記事ではこの新四国霊場は紹介されておらず、なにやら忘れ去れてしまった霊場というより、あまり気にされていない様に感じてしまいます。岩津城を巡っているのに、新四国霊場の札所があるやん!とこっちに興奮して岩津城内で札所を探しまくっていた自分の立ち位置は非常に特殊だということなのでしょう・・・。

 進んでいくと、空堀を渡る土橋部分がのこっており、この橋を進んでいくと主郭部分に出る事ができます。

 主郭部分は木や竹の伐採が行われていて、なんとなく往時の広さを実感する事ができるようになっています。これも地元の「岩津松平氏輝きの600年」推進懇話会という市民団体が毎年岩津城の保存活動を行って頂いているからだと思います。

 主郭の一角に岩津城址の石碑が建っています。その昔自分が小学生の頃はもっとうっそうと茂った森の中といったイメージが頭の中に残っているのですが、やはりこうして整備されているとそのイメージは大きく変わっていきますね。

 主郭部分から今度は今までの岩津城の登城口だった方面に向かって歩いていきます。何となく岩津城の南からはいって北側に抜けたといったイメージでしょうか。こちらのが山城への登城口っぽい雰囲気にはなりますね。

  登城口から信光明寺にむかって歩いていく間に、非常に眺望が開けた場所にでます。ここからは第二次井田野合戦で岩津城に向けて軍勢を差し向けた上野城を望むことができます。ということは、かなり以前から岩津城では敵兵が領内に向けて侵攻している事がわかったはずで、それなりの防御態勢を整える事ができていたという事になりますね。

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城郭名岩津城
所在地愛知県岡崎市岩津町字東山地内
最寄駅名鉄バス「岩津天神口バス停」徒歩5分

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