松平信孝(十八松平:三木松平家祖)

松平信孝とは?

 安祥松平家三代「松平信忠」の次男として生を受けます。兄である信忠嫡子は安祥松平家四代「松平清康」になります。生年月日は不明。父信忠が家臣団からの圧力もあり、嫡男である清康に家督を譲ると時を同じくして、合歓木の地を信孝に与えたとする資料があります。

清康は永正八年(1511年)に生まれ、大永三年(1523年)に家督を継いでいます。これから想像するに領地を受領できる歳でもあるとすると信孝は1511年から16年の間くらいに生まれたのではないかな?と思うのですが・・・。

森山崩れ

 天文四年(1535年)尾張国の「守山城/紹介記事」近くにおいて「森山崩れ」と呼ばれる松平清康が家臣「阿部正豊」に切り殺される事件が発生し、三河を統一し尾張にその勢力を伸ばしつつった松平軍はあっという間に総崩れとなり、尾張守護代であった織田信秀はすぐさま追撃を開始し松平軍を追って井田野の地に布陣したとする資料も存在します。この織田軍を迎え撃たんと出陣したのが松平信孝、そして松平康孝だといいます。(松平康孝は松平信忠の三男であり、清康・信孝の弟になります。康孝は三木郷と浅井郷を与えられ三木城を築いていました。)この時は、八千とも言われる織田軍をその十分の一、八百の兵で迎え撃ったとも。

松平信定の岡崎城占拠と広忠の岡崎城脱出

 この時、松平家中でも惣領となる安祥松平家に匹敵する領地を有していたのが「桜井城/紹介記事」を居城としていた桜井松平家二代「松平信定」です。信定は惣領家が今川家と友好関係を築いていく中、織田信秀と婚姻関係を結ぶなど松平家中でも独自勢力と言ってもいい動きを行っていました。清康の守山出兵に関しても上野上村城までは従軍していたようですが、そこからは信定軍は進軍していません。
 その後、清康嫡男「松平広忠」が家督を継ぐがまだ元服前だったこともあり、後見役となっただろう清康の家臣だった武将達との意見が合わず、信定は岡崎城を占領するという行動にでます。この時、信定の父であり、広忠の曾祖父でもある安祥松平家二代「松平長親」は健在だったのですが、長親は信定を溺愛していたとも言われ、松平家中を混乱に陥れる行動ともとれる信定の岡崎城占領についても黙認しており、安祥松平家臣団も受け入れるしかなかったのではないかと思います。
 結局、松平広忠はこのままでは命の保証がない事は解っていたはずなので、側近である阿部大蔵定吉らと共に岡崎城を脱出し伊勢国神戸(現在の鈴鹿市)に逃げ延びています。ここから、東条吉良家吉良持広の庇護と吉良家繋がりで今川義元の援助を受け、天文六年(1537年)、広忠は三河に再入国を果たします。

松平広忠、岡崎城帰還

 松平信定が岡崎城を占領していた時の岡崎城代が「松平信孝」であったとされ、ひそかに広忠に援助をしていたと言われ、上記の通りに広忠が今川家の後援を受けて三河国に再入国した時は、岡崎城の城門の鍵を婦人に預け「大久保新八郎(忠俊)が来たらこの鍵を彼に渡してくれ。」と言い残して、有馬温泉に湯治と称し岡崎城を離れていたといいます。
 広忠が岡崎城に入城したと同時に安祥松平家の家督を継いだとされ、この時、広忠の曾祖父「松平長親」の仲介もあって松平信定の行動を許したといいます。が、信定そしてその嫡子である「」を始めとする桜井松平家は基本安祥松平家とは反目するような行動を取っていて、松平家惣領に従うのは、広忠の嫡男「徳川家康」が三河一向一揆を鎮圧して以降になります。

 松平信孝はまだ幼少だった松平広忠の後見人としての立場になり、徐々に松平家中において力を付けていく事なります。

広忠後見人として

 天文七年十一月、桜井城主「松平信定」死去、そのわずかの地には青野城主「松平義春」死去と松平一門の有力者が次々の亡くなり、信孝の「広忠の後見人」としての地位が日に日に強まっていく事になります。この頃までに信孝は岩津松平家の旧領を併合したされています。

 そして、天文九年(1540年)六月、織田信秀が安祥城を攻め落し、城代「松平長家」が討ち死にするという事態に陥ります。(安祥城を失うという事は、安祥松平家の主な地盤を失い、その支配力が低下するということに繋がります。それでもこの時は岡崎城・山中城などの主要な拠点を支配しており松平家一門の中では一番所領は大きかったようですね。)
 そんな中、天文十一年(1541年)、信孝の弟で三木城を居城としていた「松平康孝」が死去します。康孝には跡継ぎがおらず、康孝の所領である三木と浅井は信孝が継承する事となり、信孝は居城を合歓木城から三ツ木城に移します。この時、信孝を祖とする松平庶家は三木松平家が発祥する事になります。

 信孝は弟「松平康孝」の所領を合併する事により、合歓木、三木、浅井、岩津を納めるようになり、実は惣領安祥松平家の所領よりも大きくなってしまったといいます。どうも広忠自身は信孝が領地を引き継ぎ安祥松平家より領地が大きくなることについては肯定的な立場だったとされますが、庶家が力を持つと安祥松平家の松平信定の様に惣領の立場を乗っ取ろうと画策するのではないかという不安を岡崎城の家臣団は持ったようです。そこで家臣団は、広忠に詰め寄り、天文十二年の正月に広忠の名代として信孝を駿河国駿府城の今川義元の元に年頭の挨拶に向かわせている間に信孝の所領を没収するという手段にでます。

何事ぞや。我、広忠へ対してご無沙汰の心、毛頭更になし。

 駿河国から戻ってきた信孝が直面したのは所領を没収され言わば松平家から追放処分を受けたともいえる自らの立場でした。信孝はすぐに今川義元に仲裁を願いますが、義元も広忠側に付いてしまった為、信孝は「松平家も今川家も信用ならん。今に見ておれ・・・。」という事なのでしょう、天文十二月八月、松平家と敵対関係というよりまさに戦争状態になっている織田信秀に与する道を選ぶことになります。

山崎城主として

 織田信秀の元に奔った松平信定ですが、信秀が安祥城を手に入れてから安祥城の北東に位置する山崎郷に安祥城の支城として築いていた「山崎城/紹介記事」の城主として任じられて入城しています。
 元々安祥松平家の本拠であった矢作川西岸ですが、天文十三年の段階では安祥城は織田信秀の長子「織田信広」を城主として、山崎城に松平信孝、桜井城に松平清定、上野上村城の酒井将監忠尚と松平家の中枢を担っていた武将やその嫡子などが織田家側に与しており、松平家の分裂も引き起こしていました。

 その後の信孝は岡崎城の松平広忠の軍勢と度々衝突しているようです。

天文十四年松平広忠、安祥城に攻め込むが織田軍の反撃を受けて撤退
この時松平軍の殿を勤めた本多忠豊が討ち死にする。(本多忠豊墓碑/紹介記事
天文十六年松平広忠と松平信孝が矢作川右岸の渡河原にて激突(渡河原合戦)
広忠軍破れ、殿を勤めた五井松平家「松平忠次」と「鳥居忠宗」が討死にする。
天文十七年
三月
松平信孝、織田信秀軍と共に小豆坂にて今川軍と激突(小豆坂合戦)
天文十七年
六月
松平信孝、矢作川を渡河し岡崎城へと攻め入る。
松平広忠軍と耳取縄手にて激突し、「松平信孝」矢を射掛けられ討死する。

 天文十七年の耳取縄手の戦いにおいて討ち取られた信孝の首は広忠の元に届けられたとされ、広忠は信孝の首を見て、泣き崩れたといいます。

どうして信孝殿を生け捕りにしてくれなかったのだ・・・・。信孝殿に恨みはなかった。いや、むしろ私が信孝殿を追い出してしまい、敵にしてしまったことなので、皆が言うような桜井の信定が敵になったのとは違う・・。

 信孝が討ち死にした耳取縄手の地には信孝を供養する宝篋印塔が設けられ、遺骸は遺骸は上和田の浄珠院に葬られたと言われています。(その後、宝篋印塔も浄珠院に移され、現在でも浄珠院の一角に信孝を供養した宝篋印塔を見る事ができます。)

松平信孝の居城

・合歓木城・・遺構存在せず。
・三木城・・・遺構存在せず。
・山崎城・・・安城市指定史跡、遺構:堀・土塁

三木松平家家系図

松平信忠┳清康━広忠(安祥松平家)
    ┣信孝重忠忠清(断絶)
    ┃     ┗忠利━重利┳忠義━忠政━忠高━忠朋━忠方━忠敷━忠章
    ┃           ┣元脇
    ┃           ┗忠政┳忠矩┳忠久
    ┃              ┗常友┗忠昆━忠壽━忠恕
    ┗康孝

 重忠は松平家への帰順が許されたようで、徳川家康に仕え、江戸幕府開幕後は「大番」に任ぜられ江戸城に詰めていた様です。しかし、三木松平家の系譜は、三代忠清の代にて無嫡子の為断絶となっています。しかし、三木松平家の分家という形で忠清の弟忠利系がやはり江戸幕府の「大番」に歴代任ぜられて江戸城に詰めていたようです。

菩提寺、墓所

城護山観音寺

 岡崎市下三ツ木町にある浄土宗西山深草派の「城護山観音寺」は、三木城を築城した「三木織部正信乗」が創建した寺院とされています。その後三木城には松平康孝が入城し、天文十一年(1541年)に康孝が死去すると兄である信孝がその遺領を吸収し、合歓木城から三木城に居城を移しています。「六ッ美村誌」によると信孝の嫡子「松平十郎九郎信康」が出家剃髪し「教信」と号し開山したと書かれています。開山当初の寺名は城護山松林寺だったそうです。(ただ、三木松平の家系図には信孝の子に信康という名は登場してこないので真偽の程は不明です。)
 ここ観音寺には、岡崎市の指定文化財となっている松平信孝が使用していたと伝えられる「熊毛兜」が所蔵されているそうです。

供養塔

 境内には、供養塔が一基据えられていました。
 その脇に据えられている墓誌には、
 「開山教信上人 安祥城主松平長親公 三ツ木城主 三木織部正信乗公・松平蔵人信孝公」
と刻まれています。これを見ただけでは誰の供養塔なのかよくわからないのですが、三木城主として観音寺の創建などに関わってきた三木織部正信乗と松平蔵人信孝の供養塔と考えるのが妥当かなと思います。

清光山 浄珠院

 岡崎市上和田町には、松平信孝が兄清康・甥広忠と共に深く帰依し寄進を行ってきたとされる浄土宗西山深草派「清光山浄珠院」があります。天文十七年(1548年)に耳取縄手の戦いにおいて信孝は討ち死にしてしまいます。生前からの約束により、遺骸を当院にて埋葬し石碑及び位牌が現存しているそうです。。

信孝墓碑

 風化が進んでいる宝篋印塔の墓石になります。
 脇に据えられている墓誌には、
 「三ツ木城主松平信孝公の墓 法名 清光院殿忠岳心照大居士 天文十七申年四月十五日妙大寺村ニテ討死 岡崎市教育委員会」
と刻まれています。説明板ではなく墓誌風に説明板をわざわざ石材で作っている辺りが石工の街岡崎って感じですね。