城跡巡り 安城市

桜井城(愛知県安城市桜井町) 桜井松平家居城

2020年5月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

松平家惣領となった「安祥松平家」に匹敵する所領を持ち、松平家惣領への夢を捨てきれなかった桜井松平家「松平信定」が居城とした城になります。

城郭情報

城名桜井城
所在地愛知県安城市桜井町城河原
築城年大永七年以前
築城主小浦氏か?
城形式平城
遺構曲輪一部
規模
備考

訪問日:2019年10月14日

沿革・詳細

 松平家の惣領格になっていた安祥松平家初代「松平親忠」の息子「松平親房」に桜井の地を与え、「桜井城」を居城としていました。桜井の地を本貫としたことから「桜井松平家」と称される松平庶家となっていきます。しかし親房には嫡子がおらず、兄「松平長親」の次男(三男説もあり)の「松平信定」を養子に向かえいます。桜井松平家二代目となった松平信定は森山崩れにて松平清康が没した後、松平家全体を巻き込んだ騒動を引き起こし、松平家が衰退する要因を作ってしまう事になります。

松平家家系図

太字は松平家惣領を指します。
赤色マーカーは安祥松平家を示しています。

松平親氏┳広親(酒井氏)
    ┗泰親┳信広(松平郷松平家)
       ┗信光┳親長(岩津松平家)
          ┣守家(竹谷松平家)
          ┣親忠┳乗元(大給松平家)
          ┃  ┣長親信忠清康広忠家康
          ┃  ┃  ┃  ┗信孝(三木松平家)
          ┃  ┃  ┣親盛(福釜松平家)
          ┃  ┃  ┣信定(桜井松平家)
          ┃  ┃  ┣義春(東条松平家)
          ┃  ┃  ┗利長(藤井松平家)
          ┃  ┣親房(桜井松平家)
          ┃  ┣存牛(知恩院二十五世)
          ┃  ┣親光(鴛鴨松平家)
          ┃  ┣長家(安城松平家)
          ┃  ┣張忠(矢田松平家)
          ┃  ┗乗清(滝脇松平家)
          ┣与副(形原松平家)
          ┣光重(大草松平家)
          ┣忠景┳元心(五井松平家)
          ┃  ┗忠定(深溝松平家)
          ┣光親(能見松平家)
          ┗親則(長沢松平家)

 初代桜井松平家の親房には庶子がおらず甥の信定を養子に向かえたと前述しました。ただこの時、信定の兄になる安祥松平家二代「松平長親」の嫡子「信忠」は非常に暗愚強情な人物であっとされ、対して「信定」は「武勇・情愛・慈悲」を兼ね備えていたとされます。能力の劣る信忠を家臣団で支えるべきとする派と信忠を廃嫡し、信定に家督を譲るべきであるとする派とで松平家中は二つに割れていたといいます。
 この松平家内の混乱を終息させるために、大永三年(1523年)松平家一門と家臣団が協議し、主君「信忠」に協議内容を奏上します。

POINT

 大永三年の松平家一門と家臣団による協議結果を奏上したのが「酒井将監忠尚」になります。酒井家は松平家初代「松平親氏」の庶子から繋がる家系とされ、松平家臣団の中でも別格といっていい一族になります。ただ、酒井忠尚はその能力、自らの家臣団の力を過信してしまったのか、度々松平惣領家と対立をしています。それでもその血筋の為なのか許され、松平広忠の時代には「上野上村城/紹介記事」の城主となっています。今川家支配の時はおとなしかったようですが、徳川家康が今川家から独立すると、三河一向一揆と時同じくして徳川家康に反旗を翻しています。上野上村城が落とされると忠尚は駿河国に逃げたと言われています。

松平家騒乱期のキーパーソンの一人といっても過言じゃないと思います。

 信忠は協議内容に従うことにし、安祥松平家の家督は嫡子「松平清康」へ継承し、信忠自身は隠居する事になります。隠居先は三河国幡豆郡大浜郷にあった「称名寺」になります。この称名寺は三河新四国霊場七十七、七十八番札所である「東照山称名寺/紹介記事」です。

 本来、信忠信定のどちらを主君とするかという論争だったはずが、なぜか家督を信忠の嫡子「清康」に継承させるという結果になっています。後に清康が示したずば抜けたその能力を大永三年時点で分って清康に家督を継承させたならまさに神の眼なんですが、そんなわけもなく、信忠、信定のどちらを選んだとしても分断状態となった一門、家臣団がまた一枚岩に戻る事が難しく、折衷案に近い形で、信忠の嫡子に家督を継がせることで家内を統一する事を優先させた結果なわけです。が、その清康が家督を継いで僅か五年で三河を統一し、尾張にまで領土を拡大していく中、家督を継げなかった叔父「松平信定」との確執が深まっていくのは運命の悪戯なんですかね。

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桜井城の沿革

 松平家に嵐を呼び寄せる「桜井松平家」の居城「桜井城」は、元々この地の豪族である「小浦喜平次忠重」が築いた城だと伝えられています。
 応仁元年(1467年)京都にて応仁の乱が起こると、松平宗家三代目「松平信光」は東軍に属し、西軍に属した「和田氏」の所領「志貴野下条」に攻め込み、文明三年(1471年)、桜井城の北側にある和田氏の居城「安祥城」を一説には力攻めではなく計略を用いて攻め落とします。信光は三男である「松平親忠」を安祥城主に据え、安祥松平家と呼ばれる分家を起こします。 

 松平親忠、その嫡男「松平長親」は安祥松平家の所領を拡張する為に、矢作川に沿って南下政策をとり、「碧海郡志貴野荘全体の掌握」が基本拡張路線だった様です。しかしこの安祥松平家の拡張路線が後に松平家を窮地に陥れる「永正三河の乱」(当サイトでは第三次井田野合戦と表しています。」の引き金になってしまった様ですが・・・。

 松平軍の南下政策の圧力により、時期は不明ですが、少なくとも、親忠が死去する。文亀元年(1501年)までには「桜井城」の小浦喜平次忠重は松平親忠に臣従する事になります。「小浦忠重の元に、自らの子「親房」を養子に出し、桜井松平家と呼ばれる分家を起こさせたとも言われています。しかし、親房に嫡子がいなかったために、長親の次男(三男)である「信定」を親房の養子とした。」という説もあります。この説が真実だったとしたら、自らの息子を養子に出すくらいですので、桜井城の小浦忠重はかなり大きな領地を持つ豪族だったのだろうと思われます。さらに、この小浦氏臣従の時期とほぼ同じくして、「小川城」の石川氏、「岩根城」の加藤氏も松平家に臣従する事になります。

第三次井田野合戦

 岩津城の南、現在の「成道山大樹寺/紹介記事」が建つ一体は「井田野」と呼ばれ、松平氏が伸張していく中で何度も戦いを繰り広げた場所になります。

 永正三年(1506年)、駿河国の「今川氏親」は、先陣を「伊勢宗瑞(北条早雲)」とする松平討伐軍(1万以上の大軍と言われています)を松平宗家の居城である岩津城に向けて進軍させます。松平家が今川家と敵対行動を取っていたからとも、吉良家からの要請があったからとも、さらには三河守護細川家を狙ったものだったとも言われているこの今川家の進軍ですが、どんな理由であれ、この戦いにおいて松平宗家である「岩津松平家」は滅んでしまい、この戦いで中心的な動きを行った「松平長親」の安祥松平家が惣領的な立場になっていく事になります。

 そして、松平長親は今川軍の侵攻を防ぎ切った後、家督を嫡子「信忠」に譲り隠居してしまいます。そして冒頭で書いたように、信忠の惣領としての資格を問われ、安祥松平家のみならず松平家一門を巻き込んだ騒動に発展していく訳です。
 この時すでに「桜井城」城主となっていた「松平信定」にしてみれば、当然自らが本家である安祥松平家の当主になると思い込んでいた所に、ふたを開けてみれば、甥である清康が家督を継ぎ、自分はその甥の家臣になってしまう訳ですから、この措置を知った時の失望感は半端なかったのではないでしょうか。
 そして、信定は表面上は清康に従っている様に見せて、徐々に反目する動きをする様になっていきます。清康の基本路線は、美濃斎藤家、甲斐武田家と組み織田家、今川家と戦い三河の支配を確立する事にあったと考えられます。こういった清康の路線の中、松平信定は織田信秀の妹を娶り、血縁関係となり、森山の地に「守山城/紹介記事」を築城しています。
 享禄三年(1530年)、清康は「熊谷実長」の居城「宇利城」に攻め込みます。この戦いにおいて「信定は、宇利城大手口の寄せ手として、次兄の福釜松平家親盛と共に戦うが、劣勢となった親盛に援軍を送らず、結果として親盛の父子を死なせてしまった。」といいます。そして、この一連の動きを本陣で目撃していた清康の逆鱗に触れ、合戦後、部下たちの目の前で叱責されたといいます。
 天文四年(1535年)、守山に進軍した松平清康は、守山城下の陣中において家臣により切り殺されていまします(守山崩れ)。この時、松平信定は桜井城から上野上村城までは清康の軍勢と共に進軍しますが、上野上村城に入城後はそこから動かなかったといいます。主君が配下に切り殺されるという事態になり、総崩れとなった松平軍は雪崩を打ったように森山の地から撤退します。この混乱の時に、上野城に居た信定は清康が安祥松平家の本城とした「岡崎城」に入城し、清康嫡男「松平広忠」を岡崎城から放逐し、自らが松平家惣領になる事を画策します。
 しかし、広忠放逐から凡そ二年後の天文六年(1537年)、今川義元の庇護を受け、松平広忠が岡崎城に戻ってきます。松平一門の多くが広忠支持となり不利を悟った信定は広忠に帰順しています。しかしその一年後の天文七年(1538年)十一月二十七日に「松平信定」は病没します。

 出来損ないと言われた兄に対し、優秀と評判の弟。親からの愛情も強く受け、何時しか自分が跡取りにふさわしいと思うようになり、周囲の反応によりこの思いはより一層強くなっていく。兄に変わり自らが当主になれると思っていたら、次期当主は出来損ないと見下していた兄の嫡子が継ぐことに。当主への思いが建ち切れない為、甥に対し反抗的な態度をとり続けます。不慮の事故で当主である甥が亡くなると、自分の思いが抑えきれなくなり、甥の息子を追い出し当主の地位を簒奪します。しかし、力ずくで奪った当主の地位を家臣たちは認める事がなく、追い出した甥の息子に当主の地位を返還し、自分の所領に戻り、失意のうちに死んでいった。

 信定の一生を簡潔の纏めてみると、どこぞの物語にありそうな話の内容になってしまいました。

 この後も、松平家は苦難時期は続き、天文九年(1540年)、遂に織田信秀軍により安祥城が陥落してしまいます。これにより、安祥松平家が発祥して以降、拡張してきた矢作川右岸の所領を治めていた各城主たちが雪崩を打つ様に織田家に下っていきます。

織田家に下った主な武将

桜井城主  :松平清定(松平信定嫡子)
山中城主  :松平重弘
佐々木城主 :松平忠倫
上野上村城主:重臣の酒井忠尚

 桜井松平家としては、二代目松平清定の時についてに松平宗家を裏切りって織田家側に与してしまいます。その後、安祥城を奪還した時期に松平家に帰順したのでしょう。しかしこれでおとなしくなったわけでもなく、続く三代目「松平家次」の時、三河一向一揆が起こり、桜井松平家は一向宗側に付いていますが、一揆後再び帰順を許され桜井城を居城とし続けます。これでやっと松平家惣領に従順となり、家康の関東移封に伴い、桜井松平家は武蔵国松山へ移る事になり、桜井城は廃城となります。

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広島市図書館所蔵「諸国古城之図」より

 城郭の周囲を沼地の様な地形が囲んでいる様に見えます。雨季などは湖の中に浮かぶ水城の様な外観になったのでしょうか。こういった様式で作られた城郭は、くぼ地のような地形の所に作られる事とが多く、城跡周辺の造成工事によってあっという間に城郭跡が消失してしまい、遺構がまったくのこっていない事が多々あるようです。

歴史探訪

 清康が築いた松平家最大の領地を僅か数年で岡崎城周辺を納めるだけの一豪族にまで衰退してしまった不運の主君「松平広忠」。まさに松平家のお膝元である「岡崎」に住んでいる割にこの辺りはごちゃごちゃしていてよく理解していなかったのですが、関連する史跡を訪ねてながら勉強していきたいと思います。

 前述している「酒井将監忠尚」が居城していた「上野上村城」に続き、今回は、松平家混迷期の原因の一人といっても過言ではない「松平信定」が居城していた「桜井城」を尋ねます。

 安城市桜井地区は、名鉄西尾線「桜井駅」は高架化されて今まで線路で分断されていた桜井の街を一体化するように区画整理事業が進んでいます。大型商業施設も経ち、安城市南部の中心地として飛躍的に発展している場所になります。
 県道44号岡崎西尾線沿いにある城山公園が「桜井城跡」になります。駐車場も用意されてはいるのですが、2~3台分しかなく車で訪れる場合は注意が必要ですね。

訪問記

 県道44号線の西側に石垣で一段高くなっている公園が桜井城址となる「城山公園」です。また公園の南側(ストリートビューでは奥側)には「桜井靖霊神社」が鎮座しています。Joshin電気が一つの目印とするとわかりやすいかもしれませんね。

 城跡であるとアピールしている様な「冠木門」になります。この門があるだけでグッと城跡としての雰囲気を高めてくれます。薬医門や四脚門は建てようとすると費用が大変ですが、この冠木門でしたらお値打ちに建てられて城跡としての価値も高まるというある種マストアイテムではないでしょうか。

 公園に何らかの遺構が残っているわけでありません。ただ、桜井城の主郭跡を再利用?して公園化しているそうです。

 公園の一部には、主郭を囲んでいた土塁跡ではないかと言われている一段高くなった場所があります。ただ、周囲の地形が変わってしまっている為明確に土塁跡といえなようです。

 この一段高くなった場所に「桜井城址」と彫られた石柱が建てられています。
 この石柱が建っている場所は白山公園の南西側に位置し、この石柱の西側には桜井松平家の墓所があります。(なぜか墓所の写真が残っていないので、また後日訪問して紹介させて頂きます。

代わりにストリートビューで

墓所の向かって右側の一段高くなっている場所に桜井城址の石柱が建っています。

地図で所在地を確認

城郭名桜井城
所在地愛知県安城市桜井町城阿原地内
最寄駅名古屋鉄道西尾線「桜井駅」徒歩9分

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