本多忠豊墓碑(愛知県安城市安城町) 本多忠勝祖父戦死の地

史跡名本多忠豊墓碑
所在地愛知県安城市安城町赤塚八十八番地
指 定安城市指定史跡 昭和38年10月1日指定

訪問日:2020年6月23日

由緒

 本多氏は太政大臣藤原兼通の子左大臣顕光十一代の後胤右馬允助秀が豊後国本多郷を本貫としたことから「本多性」を称したという。助秀の子助定は「足方尊氏」に仕え建武三年(1336年)志村某の凶徒を鎮定すべき命をうけ、その功により翌年尾張国横根・粟飯原の二郷の領地を得たといいます。そこからいつ三河の地に移動したのかは不明ですが、九州に下り勢力を盛り返した足方尊氏にこの時に仕え、足利家の勢力が強かった東海地方に領地を得て移り住んだ一族であるといえます。

 松平二代「松平泰親」の頃から松平家に仕えたとされ、松平家臣団の中でも一大勢力を誇った「本多氏」の宗家にあたると言われてるのが今回紹介する「本多忠豊」から「本多忠高」そして、「本多忠勝」に通じる血筋になります。

本多氏系図

助秀━助定━助政┳定通━定忠━定助┳助時助豊忠豊忠高忠勝
        ┃        ┃           ┗忠真
        ┃        ┗正時┳正助━正忠━忠俊━忠次
        ┃           ┗信正━重正━重次
        ┗定正━定吉┳正明━忠正━正定━俊正┳正信
              ┃           ┗正重
              ┗正経━秀清━清重━信重━広孝

 本多一族には、徳川四天王の一人「本多忠勝」、三河三奉行の一人「本多重次」、徳川家康の参謀「本多正信」などを輩出しています。
 前述の様に、松平泰親の代から松平家に仕え、親忠の代から安祥松平家の譜代となり「安祥七譜代」の一つに挙げられる家系になります。
※安城七譜代は酒井、大久保、本多、阿部、石川、青山、植村の七家を指します。

助時」の代に松平泰親に仕えたとされ、その後、信光、親忠に仕え戦功をあげ、子「助豊」は長親から清康に仕え、今川家との戦いで奮戦したといいます。そして今回紹介する「本多忠豊」は助豊の子であり清康から広忠に仕えた武将です。

 本多忠豊は本多助豊の嫡子として生まれる。生年月日については資料がなく不詳のようです。父助豊に続き松平清康に仕え享禄二年(1529年)の岩崎城、野呂城攻めに従軍したといいます。そして翌年の享禄三年(1530年)、宇理城攻めの際、敵兵が松平清康に迫った時にその前に進み清康をかばいながら奮戦したと言い、この時扇の指物を賜るといいます。清康が森山崩れにて死亡すると、岡崎城を追われた松平広忠の岡崎帰還に尽力したといいます。
 織田信秀が安祥城を攻め落とし、三河侵攻の圧力を強める中、天文十四年(1545年)、織田信秀が美濃攻めに失敗したという報を受けた広忠は、安祥城奪還の為に出陣しますが、織田信秀は尾張国からの援軍を巧みに隠しながら松平軍を迎え撃ちます。(この時織田軍は火縄銃を使用したとも言われますが、火縄銃の存在を知らなかった兵が多かった松平軍にはあまり効果が無かったとも言われてます。)松平軍は、安祥城の兵と援軍の兵に挟撃されてしまい壊滅してしまいます。この時、本多忠豊は主君「松平広忠」を逃がす為、殿を勤めつつ、最後は敵陣に突入して討死した。
 戦後、忠豊は三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬されたといいます。そいて江戸時代の寛政六年(1794年)岡崎城主である本多忠顕が忠豊が戦死した伝えられる場所に墓碑を建立し妙源寺から分骨し埋葬しています。

歴史探訪

 「安祥山大乗寺/紹介記事」の墓地にある「本多忠高墓碑」に続き、安祥城を巡る戦いの中で戦死した本多忠勝の祖父「本多忠豊」の墓碑になります。本多一族の血の忠誠によって松平家は存続したとも言っても過言ではないのかなと思いますし、その忠誠に対して亀の台座の上に石碑を設ける様式は徳川家の一族以外では中々認められない様式の墓碑の使用を認めています。

 こちらが安祥城の本丸跡にある安祥山大乗寺の墓所の一角にある「本田忠高の墓碑」になり、こちらも安城市の指定史跡になっています。

 安祥城址から住宅地の路地を北に進むこと300m程、まさに住宅地の一角にひっそりと隠れるように「本多忠豊の墓碑」が据えられています。安城市が設置した道標もあり、解りずらいながらも迷わずにたどり着くことができるのではないでしょうか。

 この狭い路地の先に住宅に隠れるように墓碑が据えられています。元々周囲には何もない又は田んぼや畑だった所だったはずで、後から宅地化されたはずなんですけどね。

 石造りの瑞垣と門に囲まれて据えられているこちらが「本多忠豊の墓碑」になります。

 こちらにも安城市教育委員会が設置した案内板が据えられていました。この案内板に書かれている古地図を見ると、安祥城から南側、古井町あたりまでの田んぼの広がる辺りは水辺というか湿地帯が広がる場所だったんでしょう。
 こうした地図も頭に入れながら散策すると当時の安祥城を巡る戦いがより一層リアルに感じられるのではないでしょうか。

地図で所在地を確認

史跡名本多忠豊墓碑
所在地愛知県安城市安城町赤塚八十八番地
最寄駅あんくるバス1号安祥線「歴史博物館バス停」徒歩4分
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