城郭情報
城名 | 守山城 |
所在地 | 名古屋市守山区市場四番地二十二号 |
築城年 | 不詳(大永年中とも) |
築城主 | 不詳(松平信定か?) |
城形式 | 丘城 |
遺構 | 空堀、土塁 |
規模 | 不明 |
備考 | 岡崎城主「松平清康」討ち死の地 |
訪問日:2019年1月29日
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沿革・詳細
守山城が誰が何時頃築城したのかという史料は残っておらず、詳しい事は解っていない様です。守山城を扱っている書籍、またはネット上の情報を見ていると、ここまで築城主として色々な武将の名前が出てくる所も珍しいのでは?と思ってしまう状況だったります。それだけ守山の地は、織田家、松平家、今川家にとってそれぞれの勢力争いの中で重要な場所だったという事がわかってきます。
誰が守山城を築城したのか?
書籍、ネットで集めた守山城を築城したと言われる人物を見ていきます。
- 那古野城主「今川氏豊」が支城として築城
- 那古野城が築城された際、それに対応するために「松平信定」が築城
- 那古野城が築城された際、それに対応するために「織田信定」が築城
- 尾張侵攻の拠点とする為に「松平清康」が築城
築城時期は、大永年間(1521-1527年)の間とみられるようで、そうなると上記4番の清康築城説は消える事になりますね。松平清康が家督を継いだのは大永三年(1523年)の事で、そこから数年は三河統一に邁進しています。
あまり知られていない事かもしれませんが、織田信長が居城としていた「那古野城」は元々今川家によって築城された城になります。今川義元が尾張に向けて大軍を動かしたのも、この那古野城奪還が目的だったとも言われています。那古野城が織田信秀によって落城するのと同時に守山城も信秀の手に落ちたと言われているのが1番の説です。
2番の説は、松平信定が親今川なのか親織田なのかでガラッと見方が変わってくる説になります。親今川説は、松平信定の正室が織田信秀の妹であることを考えるとまず考えられないのかなとおもうのですが、こちらの場合、那古野城が落城後、信秀によって攻め落とされたという事になります。
が、親織田説になると、後に起こる守山崩れに至るまでの考え方がガラッと変わってくるような気がします。対那古野城戦線を織田信秀と松平信定は共同戦線を張っていた事になり、そんな中で、松平信定は織田信秀の妹を娶り、信秀の弟「織田信光」に自らの娘を嫁がせ、強固な血縁関係を結んでいく事になったんだと思います。まだこの頃は、松平清康の織田家と対決していた訳でもないですし、むしろ今川家との戦いが行われている中だったので問題になる事もなかったのではないでしょうか。
大永六年(1526年)、連歌師の「柴屋軒宗長」がこの城を訪れ連歌の会を開催したと『宗長手記』に書かれていてこの中で初めて「守山」の名が登場するそうです。
「 尾張の国守山松平与一館千句・・(中略)・・新地の知行、彼是祝言にや」
松平信定が新たに守山を所領した祝言の連歌だったようで、森山の地を松平信定が領していた事がわかります。
この説で一番問題なのは、松平信定が娘婿となる「織田信光」を何時頃守山城主として据えたのかという点ですかね。
3番の説は、今川家の那古野城を囲むように織田信定(信秀の父、信長の祖父)が築城したという説になります。ただ、大永年間において、織田信定は勝幡城と築城し、津島を支配下に納めた時期と重なり、津島と那古野を挟んで反対にある守山に築城できるほどの勢力は拡張できていなかったと思われます。
上記の説を考察していくと、大永年間に桜井松平家「松平信定」が森山の地に「守山城」を築城し、大永六年に領有祝賀の連歌の歌会が行われた。 というのが守山城築城の流れではないかと当サイトではさせて頂きます。
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天文四年十二月五日(1535年12月29日)早朝、三河を統一した松平宗家七代で岡崎城主「松平清康」が尾張に攻め込むために守山に布陣した陣中のにおいて、家臣「阿部正豊」に切り殺される事件が発生します。これが世に言う「森山崩れ」です。この守山崩れによって松平軍は壊滅し、織田軍による追撃を受けながらも岡崎城に敗走したとされます。この時、松平清康の遺骸は岡崎城下の丸山で荼毘に付され埋葬された(後に「隨念寺」が建立されています。)とされていますが、大河内小見という者が森山の陣から清康の遺骸をひそかに持ち出し、幡豆郡の長縄城下にある「観音寺」の近くに仮葬したという場所に「松平清康公仮葬地之碑/紹介記事」が建ってます。
森山崩れの後、尾張出兵時兵を出さなかった桜井松平家「松平信定」は岡崎城に入り、清康の嫡子「松平広忠」を岡崎城から追放し、自らが松平家惣領の座を狙ったとされますが、吉良氏と今川氏の後押しを受けた松平広忠に対し、有力な松平一族は広忠派となり、広忠は岡崎城再入城を果たします。不利を悟った松平信定は広忠に帰順したといいます。
松平家の家系図を確認
松平信定は、松平宗家六代目「松平信忠」の弟であり、七代目「松平清康」の叔父にあたります。信忠、信貞の父である宗家五代目「松平長親」は早くから隠居していましたが、三男である松平信定を非常に溺愛していたとも言われています。松平一族と家臣団によって信忠から清康への禅譲が決議されたのも長親が信定を溺愛していたのも原因のひとつに挙げられています。
松平長親⑤ ┳ 松平信忠⑥ ━ 松平清康⑦
┣ 松平親盛(福釜松平家祖)
┣ 松平信定(桜井松平家祖)
┣ 松平義春(東条松平家祖)
┗ 松平利長(藤井松平家祖)
信忠から清康に惣領が譲られる際、幼少時の清康に対して、自らが惣領にふさわしいと信定は思っていたのかもしれませんね。嫡子がいるにもかかわらず、弟を溺愛するとお家騒動になりやすいというのは日本の歴史を見ていっても多い事例ですよね。
信定は叔父である松平親房に養子に出され、親房の所領である桜井(現:安城市桜井)に「桜井城/紹介記事」を築き、「桜井松平家」の祖となっています。
松平清康の侵攻を食い止めた織田家も一枚岩ではなく、織田信長によって尾張統一がなされるまで、織田家の争いが続いていきます。守山城主「織田信光」は織田信秀の嫡子「織田信長」と共謀して、天文二十四年(1555年)清州城主「織田信友」を殺害し清州城を奪取し、信長に渡した後、那古野城主となりますが、弘治元年(1555年)11月26日に不慮の死(一説に暗殺)を遂げています。
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織田信光が那古野城に移った後、守山城には信光の弟(信長の叔父)である「織田信次」が入城しています。弘治元年(1555年)6月26日、龍泉寺近くの庄内川に信次は家臣を引き連れて川狩り行って所、1人の若者が馬に乗って通りかかったが、城主の近くを馬から降りずに通り過ぎるという無礼な態度に信次の家臣「洲賀才蔵」はその若者を弓で射殺しました。若者を確認すると、織田信長の弟・「織田秀孝」であり、それを確認した織田信次は守山城に戻らず逐電してしまいます。当主であった信長は、「単騎で信次の領内を通行していた秀孝自身にも咎はある。」として信次の罪を許していますが、信長の実弟で末森城主「織田信勝(信行)」は報復として守山城に兵を派遣し、城下を焼き払っています。その後、守山城主として信長の弟「織田信時」が入城しますが、家臣「角田新五」の謀反によって切腹して自害し、その後放浪中だった「織田信次」が戻り、再び守山城主となります。
織田信次は、長嶋一向一揆との戦いの中、天正二年(1574年)に討ち死にしてしまい、城主を失った守山城もそのまま廃城となったと言われています。(廃城時期については所説あり。)
守山城は、浅井長政に嫁いだ「お市の方」とその娘「茶々、初、江」が小谷城が落城し浅井家が滅亡した後、織田信次に預けられ一年間を過ごした場所になった事がわかってきたそうです。
織田家の家系図を確認
織田信定 ┳ 織田信秀 ┳ 織田信長
┃ ┣ 織田信行
┃ ┣ 織田秀孝
┃ ┗ お市の方
┣ 織田信光
┗ 織田信次
今回出てきた織田家の家系図はこんな感じです。
織田信長の尾張統一については正直あまり語られない部分であり、ドラマなど見ても「尾張におおうつけがいる。→父信秀の葬儀で灰を投げつける→弟と対立する→端折っていきなり桶狭間の戦い」といった感じなんですよね。実は信長の尾張統一の方が少ない勢力で四方は敵だらけと言った感じで、信長がいかに勢力を伸ばしていくのかが面白いと思うので、ぜひともこの辺りはマンガなどでもいいので読んでほしい所です。
歴史探訪
歴史探訪の企画を始める切っ掛けとなったのは、由緒でも紹介していますが西尾市長縄町にある 「松平清康公仮葬地之碑/紹介記事」 に出会った事でした。当サイトでも紹介記事を書いたのが2018年5月の事ですので、もう2年も前の事になります。何時かは守山城を訪れたいと思っていたのですが、まさか訪問まで2年も月日が係るとは想像にもしていなかった訳ですが。
今回「守山城」を訪問した事により、一気に訪れてみたい場所が増えた感じがします。
松平清康関連
松平信定関連
織田家関連
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訪問記
大曽根から瀬戸街道とも言われる県道15号を東に向かって走っていくと、庄内川の支流である「矢田川」を渡河していきます。矢田川を渡河してすぐ堤防に場所で左折して住宅地を進んでいくと、曹洞宗「宝勝寺」が守山城址に建っているので、こちらに車を停めさせて頂くか、「宝勝寺」の裏手に守山城の石碑が建っていて数台分の駐車場があるようですのでそちらに車を停めて守山城を散策していく形になります。
守山城址
上記ストリートビューの小高い丘のようになっている場所に守山城の石碑が据えられています。(手前の駐車場は月極駐車場ですので駐車しないようにしてください。)この石碑が据えられている場所は土塁跡なのか、櫓跡なのかは城跡をかなり削られている為よくわからなくなっています。
2020年1月現在の守山城址の様子になります。全体の木々が選定されて、下草が刈られている&枯れている為、非常にさっぱりとした雰囲気となっています。この丘に登れるように官位的な階段が作られているので、そこを利用して丘を登る事ができます。
丘の上には、大正五年に愛知県によって「守山城跡」と彫られた石碑が据えられています。名古屋市の街中にあって、周囲が住宅地化してもこうして少ないながらも城郭跡が残っているのはとてもありがたい事ですね。
石碑のある場所から周囲を見渡してみます。僅か数メートルの高台なんですが、守山城址がある場所周囲も高台になっていて、予想以上に景色がいいですね。
守山城跡
平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。
築城年代、創建者ともに不詳。大永六年(1526年)連歌師宗長がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。
天文四年(1535年)徳川家康の祖父松平清康が大軍を率いてこの地に布陣、尾張後略を図ったが家臣に殺害された。
その後、織田信長の叔父信次、弟信時が城主となり、桶狭間の合戦後、廃城となったとされる。
名古屋市教育委員会
守山城址の本陣と思われる場所に現在は「玉峰山宝勝寺/紹介記事」が建てられています。詳しくは別記事で紹介しますが、この宝勝寺が建立された目的は「松平清康」を供養する為だとされています。
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地図で所在地を確認
城郭名 | 守山城 |
所在地 | 名古屋市守山区市場四番地二十二号 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 小牧線「矢田駅」徒歩9分 |
歴史探訪
「守山城」周辺の神社仏閣も巡っていこうと思います。
守山城跡に松平清康を供養するために建立したとされる「玉峰山宝勝寺」を参拝していきます。「松平清康」の位牌があるそうです。
守山城近くにある「守山白山古墳」の上に鎮座する「白山神社」を参拝していきます。守山城下に鎮座していた神社になります。