城跡巡り 安城市

山崎城(愛知県安城市山崎町) 松平信孝居城

2020年7月17日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城名山崎城
所在地愛知県安城市山崎町城跡三十六番地
築城年天文十二年(1543年)
築城主織田信秀または松平信孝
城形式平城
遺構堀、土塁
規模東西100m南北90m
備考安城市指定史跡 昭和40年10月1日

訪問日:2020年6月29日

沿革詳細

 天文九年(1540年)六月六日に「安祥城/紹介記事」を攻め落とした「織田信秀」が安祥城の支城として築城したのが今回紹介する「山崎城」となります。城主として当時松平家惣領だった「松平広忠」の叔父にあたる「松平信孝」が入城しています。

松平信孝とは?

 松平信孝は、安祥松平家三代「松平信忠」の次男であり、三ツ木城を居城としていたので「三木松平家」の祖と言われている武将です。兄「松平清康」が森山崩れで戦死後、桜井松平家の松平信定が岡崎城を占領して松平家の惣領としての立場になりますが、岡崎城を追放された兄清康の嫡男「広忠」へ援助を行いつつ岡崎城帰還に向けて尽力したと伝えられ、広忠が岡崎城に帰還するとその後見人としての立場につく事になります。急激に松平家内での力を得ていく信孝に対し先代清康の代から松平家に仕えていた家臣達は力を付けていく信孝を危惧し、(前述のように惣領の城である岡崎城を庶家である桜井松平家の松平信定が占領するといった事例の再発を恐れたといいます。当時の桜井松平家の所領は安祥松平家に匹敵するほどだったと言われ、惣領の意に添わず織田家との婚姻関係を結ぶなど独自の動きをしていました。)天文十二年(1543年)信孝が広忠の代参として駿府の今川義元の元を訪れている間に、信孝居城だった三ツ木城を簒奪し信孝を追放する事になります。この状況の信孝は今川義元に調停を申し入れますが退けられ、松平家内に居場所を失った信孝は松平家を後にし当時敵対関係にあった織田信秀の元に向かい、信秀は信孝を安祥城の支城として築いていた山崎城の城主に任じています。

何事ぞや。我、広忠へ対してご無沙汰の心、毛頭更になし。

 「三河物語」に書かれている松平家からの追放の際、信孝が放った言葉だそうです。

 三ツ木城簒奪は反対する広忠に対し家臣団が言わば強引に進めたとも言われ、主君徳川家康に対し犬の忠実だとも言われた三河武士の姿とは異なる一面を見せています。これは三河一向一揆を鎮圧するまでの松平家は各地域に所領を持つ豪族達を取りまとめている立場に近かったと言われ、領地の支配体制を一新する事ができた三河一向一揆後の松平家の体制とは異なっていた事が要因なのかなと思います。

 松平信孝に関する記事を書いてみました。三木松平家と呼ばれる松平庶家の祖になります。是非一度読んでみて下さい。

 天文十七年(1548年)六月、松平信孝は織田信秀の許しを得て単独で岡崎城に対し出陣しています。その数は五百余の軍勢だったとされています。ただ、この一月ほど前に織田信秀は尾張から岡崎城を攻め落とすべく出陣し、松平広忠は今川義元の援軍を得て三河国小豆坂にて両軍が激突し織田信秀は敗北してしまっています。わずか一月後に再び岡崎城に攻め込む信孝は何か勝機が見えていたんでしょうか。
 信孝は矢作川を渡河し、岡崎城の南「耳取縄手」の地で松平広忠軍を激突しています。戦況はどちらが優勢だったのかは不明ですが、信孝は広忠軍の流れ矢にわき腹を討たれ討ち死にしてしまっています。信孝の首の前で広忠は涙を流し信孝の死を悔やんだと言われています。

 信孝討死後、織田信秀から山崎城主として誰が任ぜられたのかは不明なのですが、天文十八年、松平・今川連合軍に安祥城が攻め落とされると、山崎城は廃城となっています。

広島市中央図書館に所蔵されている「諸国古城之図」には山崎城の縄張り図が載っています。この縄張り図を見ると、安祥城の支城として築城された城にしては二重の土塁などを有していたりするなどかなり大掛かりな城郭だったことが見て取れます。

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歴史探訪

 碧海台地の東端に築かれた山崎城はまさに岡崎城に対する織田側の最前線基地としての役割を持っていたと考えられます。矢作川の渡河地点となる「渡河原」を眼下に収める場所であり、織田勢が矢作川を渡河し矢作川左岸に「上和田砦」を築くとその後詰めの城として機能していたはずです。

 しかし、天文十八年の松平・今川軍の攻勢は、織田家が想定した防衛ラインを迂回するように岡崎の南、荒川城、西条城と、織田家に与していた西条吉良家をまず攻め落とし、そこから藤井城・木戸城を経由して、桜井城、安祥城へと攻め込んでいったようで、最後は安祥城防衛戦に使われる事もなく、松平・今川連合軍により安祥城は攻め落とされています。

訪問記

 そこに山崎城があったとアピールするかのような住所「安城市山崎町城跡」に今回紹介する「山崎城」址があります。現在、山崎城の主郭部分は「神明社」が鎮座してしています。

 山崎城址の南側は主郭部分に鎮座する「神明社」の境内入口となっています。この境内入口脇に一段高くなりなにやら銅像が据えられている部分があるのですが、もしかしたらこの一段高くなっている場所は土塁跡なのでは?との事。

 その一段高くなっている部分がこちら・・・高くなっているんですがよくわからないですね・・・。一番高くなっている所に据えられている銅像は「水上傳三郎翁」と書かれています。安城といえば明治用水が開通して「日本のデンマーク」と呼ばれる農業振興地域と変わっていきます。その日本のデンマークと呼ばれるまでになった安城の農業の先駆者が銅像を作成して顕彰されている「水上傳三郎」という人物なんだとか。

話がそれました。土塁跡としてわかりにくいので、再びストリートビューを

裏側?からみると確かに土塁っぽく見えますが、真偽の程は?

堀跡

 山崎城址の北側(神明社の本殿裏)に回り込むと、そこに山崎城の堀跡が現在でも残っています。元々の堀の深さと比べれば当然浅くなっていると思うのですが、こうして周囲が宅地化された中、堀跡が残っている城址は珍しいのでは?

 上記写真の左側が主郭部分、右は城外になります。解りにくいですが、右側より左側の主郭部分にあたる方が一段高くなっています。この高くなっている場所は堀の内側に設けられた土塁跡だそうで、神明社の本殿もこの土塁跡の上に鎮座しています。

 堀址の脇に安城市教育委員会による現地説明板が設置されていました。安城市はこうした案内板、説明板が非常に充実しているので、あまり事前知識を持たないまま史跡巡りをしている自分にとってありがたいですね。ほかの自治体もこんな感じで史跡などに案内板、説明板を拡充してほしいなと切に希望します。

地図で所在地を確認

城郭名山崎城
所在地愛知県安城市山崎城城跡三十六番地
最寄駅あんくるバス1号安祥線「山崎バス停」徒歩7分

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