大給松平家(十八松平家の一)

大給松平家とは?

 定説では、安祥松平家初代「松平親忠」の二男「松平乗元」が細川・大給の地を分与され分立した庶家になります。当初は細川に居館を構えていたようですが、永正三~七年(1506-10年)にかけて初代「乗元」、二代「乗正」が大給城を大規模改修を行い居館を大給に移したと伝えられています。

寛政重脩諸家譜で記されている関東移封までの大給松井平家の当主は下記の通り
・初代:加賀守乗元(1433-1534)
・二代:左近乗元(1482-1541)
・三代:源次郎乗勝(1496-1524)
・四代:左近親乗(1515-1577)
・五代:左近真乗(1546-1582)
・六代:和泉守家乗(1575-1614)

 実は、この寛政重脩諸家譜に記されている初代乗元の生年が大給松平家の成り立ちを謎めいた存在にしている部分でもあります。
 最初に述べていますが、定説では乗元は親忠の二男であり永享五年(1433年)に生誕したとされています。が、親であるはずの親忠は永享十年(1438年)前後に生誕していると考えられており、年代を考えれば親子というより兄弟の関係になるはずです。

 実は、この親忠・乗元兄弟説は大久保彦左衛門忠教が記した「三河物語」に記されています。

和泉守信光・・・中略・・・岩津之城おば御惣領に渡させ給ふなり。おぎう(大給)の城おば次男源次郎殿にゆずりなり。その後・・・後略・・・。

三河物語

 当時、松平一門で源次郎の通称を使用していたのは乗元であることから三河物語に記されている源次郎は乗元を指しているとされています。そして略していますが三男である親忠に安城を与えたと続いていきます。

 しかし、三河物語から後年に編纂された徳川家・松平家の歴史書では、信光の二男という立場から親忠の二男という立場に変えられています。

親忠君に御子九人あり。・・・中略・・・御二男は松平源次郎乗元、後に加賀守と称す。三河国大給を領せらる。依て大給の松平と称す。・・・後略・・・

改正三河後風土記

 改正三河後風土記の「親忠君御子付榊原氏由緒並井田郷軍対珠寺建立の事」の中に親忠の子についての記載があり、ここで次男松平源次郎乗元としっかりと書かれています。

 この立場の移り変わりは何を意味しているのでしょうか。江戸幕府の歴史編纂が進んだことで大久保彦左衛門が間違った認識をしていた個所を訂正したという事もあるでしょうが、こうした系図においてあやふやな部分がある人物について仮冒されている可能性が高いとも言われていたりします。ということは大給松平家についてなにか故意的な書き換えが行われたということなのでしょうか・・・。

大給松平家は松平一族なのか?

 突拍子もない表題をつけてしまいましたが、実はなぜ足助に大給松平家の菩提寺があるのかという疑問に対する回答になる可能性がある伝承があって、それは昭和十七年発刊の大田亮著「姓氏家系大辞典」の中に「大給氏」についての記述の中に載っています。

大給
 三河国加茂郡大給より出づ。寛正系図に「加賀守乗元(源次郎、後和泉守、左近とも目とも伝ふ。二葉松)は親忠君の二男なり。加茂郡大給に住せしにより、大給の松平と称す。」と。
 然るに一説に
 「もと荻生氏にして、物部弓削蓮季定、頼朝の時加茂郡荻生庄の地頭となる。十一世孫荻生季統、松平信光と戦いて敗れる。孫乗元、親忠の婿となる。」と伝ふ。

姓氏家系大辞典. 第1巻

 大田亮氏によると、定説としては伝えられている様に「安祥松平家初代「松平親忠」の子である乗元に大給を与え、乗元の系図を大給松平家とする。」としています。しかし、他説として挙げている内容が中々物議を呼びそうな内容になっています。
 これに読む限り、大給の地は元々「荻生」と呼ばれていていたとし、物部弓削蓮の血を引く一族の出身であるとしています。荻生庄を本貫とした事から「荻生」性を称したのでしょう。

 三河国は物部一族の拠点の一つだったと言われ、初代三河国造に任ぜられた「知波夜命」物部氏出身だと伝えられいます。知波夜命から繋がる国造宗家は知立神社の神官であった「氷見家」に繋がると言われていますが、三河国加茂郡に国造一族の末裔が住んでいてもおかしい事はまったくないかなとも思えます。

 当時は、土地の所有者である「領主」とその領主から領地の経営と納税を担っていた階層を「名主」と分かれていました。中々わかりにくいですが、厳密には異なりますが「名主=庄屋」とイメージするのが一番想像しやすいのかなと思います。
 当サイトで紹介している大給城の記事の中で説明していますが、松平信光と戦ったと伝えられている大給城主「長坂新左衛門」は大給の地の名主だったはずです。室町時代中期になってくると、この「名主」職について金銭で売買されており、大給城のやり取りについても松平信光が長坂新左衛門から名主職を買い取ったと考えるのが当時の状況を考えると妥当だろうと思っています。

 その後の松平信光を祖とする岩津松平家の勢力拡大が著しい事もあり、荻生氏は松平家と血縁関係を持つこと(「姓氏家系大辞典」では乗元は松平親忠の婿となった。)で、大給(荻生)松平家となっていったとしています。この辺りは、家康の母「於大の方」と再婚相手である久松俊勝との間に生まれた異父弟に松平姓と葵紋を授け「久松松平家」として松平一門に准じた待遇を与えた徳川家康に通じるものがあるなと思います。

 荻生氏としては三河国の中で急速に存在感を示してきている松平家と通じる事でお家の安泰を図った訳で、松平清康が森山崩れによって殺害されて以降の松平家の混乱期などにおいて時には織田家や今川家に通じて松平家惣領である広忠や家康に対して敵対行動を取っていたのも荻生氏を存続させる為の行動だったと見ると非常に理解しやすいなと感じてしまいます。

系図に記すとこんな感じでしょうか

荻生季統 ━ 荻生 某 ━ 松平乗元
     ┏ 松平親長    ┣ 松平乗正
     ┣ 松平守家 ┏  女
松平信光 ╋ 松平親忠 ┻ 松平長親
     ┣ 松平与副
     ┣ 松平光重
     ┣ 松平忠景
     ┣ 松平光親
     ┗ 松平親則

 大給松平家四代「松平親乗」が当主と務めていた時はまさに松平家一門にとって激動の時期と重なっています。安祥松平家四代「松平清康」は破竹の勢いで三河国をほぼ統一し、尾張国へと進行を始めますが、そんな最中の天文四年(1535年)に守山の地で家臣に惨殺される森山崩れが起こってしまいます。松平家惣領たる清康が突如死亡してしまうという緊急事態に際して、まだ幼少であった松平広忠に変わり、清康の叔父になる桜井松平家の松平信定が岡崎城に入城し松平家の惣領の座を狙っていた様ですが、想定以上に安祥松平家の家臣団の抵抗があり、後に今川家の後押しをえて広忠が岡崎城に再入城を果たすと広忠は岡崎城を出て桜井城に戻っていきます。この辺りは織田家を通じている桜井松平家と今川家と通じている安祥松平家というお互いの後ろ盾の関係もあるのでしょう。

 話を戻して、大給松平家の松平親乗の室は先ほど登場した桜井松平家の松平信定の娘になります。この事から、桜井松平家と同様に親織田家として安祥松平家とは敵対するような行動を取る様になっていきます。

天文十年頃(1545年)、親乗は突如松平太郎左衛門家の所領であり松平家発祥の地でもある松平郷に攻め入っています。これには松平広忠が松平太郎左衛門家の親長らからの要請を受け、大給松平家の所領である細川に向けて出陣したと言われていますが、結局松平郷は大給松平家に押領されています。
その後も織田家の後押しを受けていたのか、三河支配を強める今川家とそれに協力する安祥松平家に対して敵対行動を行っていきますが、天文二十一年(1552年)青野松平家の松平忠茂に居城の大給城を攻められています。(一説には直接今川義元より要請を受けての行動だとも。)
 この頃になると、安祥城、上野城、刈谷城は今川家の手に落ち、織田家の勢力は尾張国と三河国の国境まで後退していくことになり、織田家と通じていた松平一門も今川家の傘下に組み入れられていく事になります。

 これを示す様に、弘治元年(1555年)八月、今川義元は三河国から見て知多半島の向う側に位置する場所にある尾張国海部郡の蟹江城に軍勢を出陣させています。この蟹江城攻めの軍勢は松平軍が中心となって構成されていたようで、親乗もこの蟹江城攻めに出陣しています。
 弘治二年(1556年)には、滝脇松平家の滝脇城を攻め入り、松平乗清・乗遠親子を戦死させています。しかしこの時は滝脇の地の押領まではいかなかったようです。

 永禄三年(1560年)、今川義元が桶狭間にて討ち死にする桶狭間の戦いを経て、松平元康は岡崎城にて今川家からの独立を果たすことになります。松平一門が元康の下に集まっていく中、親乗はどうも今川氏真に与する動きを見せていたのかすぐに元康の麾下に加わっていません。このため、親乗は「二度岡崎へ逆心して駿河方に成、後に帰参候」と書かれています。親乗の後を継ぐ「真乗」は家康に対し幾度となく忠誠文を書いている事もいかに松平親乗が反安祥松平家の動きを取っていたのかが分かります。

 天正三年(1575年)、滝脇松平家松平乗遠の次男・乗高により大給城を夜襲され、親乗は大給を離れ一説には尾張国に逃げ落ちたと伝えられいます。松平村誌には尾張に逃げ落ちた後、密かに加茂郡足助郷に戻り、大給松平家の菩提寺である宝珠院がある中之御所に隠れ住んだが天正五年(1577年)に死去したと書かれています。

 松平家惣領たる安祥松平家に対抗心を持っていた親乗が大給城を離れ、大給松平家五代「松平真乗」が家督を継ぐと、徳川家康に忠誠を尽くす一族に変わっていき、その子六代「松平家乗」と共に徳川家の主たる戦に参戦し武功を重ねています。家康の関東移封に伴い大給・細川の地を離れて上野国那波郡内に一万石を拝領し、その後関ケ原の合戦・大坂の陣を経て、譜代大名となり、更に老中などを輩出する幕政の中核をなす一族になっていきます。色々因縁があった松平太郎左衛門家が440石の旗本、滝脇松平家600石の旗本と比べると大給松平家は西尾藩六万石を大きな差がついています。更に、分家筋も合わせると、一万石を超える「大名」を四家をだし、さらに旗本も数多く出しています。

・西尾藩六万石(大給松平宗家筋)
・府内藩二万二千石
・岩村藩三万石
・奥殿藩一万六千石

まとめると

 大給松平家初代「松平乗元」の出自は信光の子なのか、親忠の子なのか、はたまた親氏の娘婿なのかどうもはっきりしない大給松平家ですが、細川・大給を中心、加茂郡などにその勢力をのばしていったようです。四代「松平親乗」の時には、松平太郎左衛門家を急襲しその領地を押領、滝脇松平家とも抗争をするなど松平一門と争う事が多かったですが、その子「真乗」の代になると、徳川家康に仕え、数多くの戦で軍功を挙げ、江戸幕府が開幕すると老中などを輩出する幕政の中心を担う譜代大名のひとつになっていきます。

大給松平家系図

信 光
 ┃      【荻生氏】
親 忠        季 統
 ┣━━━━┓     ┃
親 長   娘  ┳  某
        乗 元
         ┣━━━━━┳━━━━┓
        乗 正※1 親 清  乗 次
         ┃
        乗 勝※1
         ┃
        親 乗※1
         ┃
        真 乗
         ┣━━━━┓
        家 乗  真 次
         ┃    ┠────┐
        乗 寿  乗 次  乗 真※1

※昭和十七年発刊の大田亮著「姓氏家系大辞典」を参照した系図
※1 足助 宝珠院に墓石あり

大給松平家 所縁の地

大給城

 初代「乗元」、二代「乗正」が行った大規模改修によって大給松平家の居城となった大給城です。当時の縄張りがそのまま残り、城内に巨石が存在する稀有な城址として非常に有名です。

松本山松明院

 乗元が大給城下にあった仏堂に寄進をし開山した松明院を五代「真乗」が細川地内に移した寺院になります。境内に大給松平家の墓石があるという情報もありますが、はっきりした事がわかりませんが、境外地に真乗の墓所が設けられています。

光明山宝珠院

 足助の中之御所にある浄土宗西山深草派の光明山宝珠院になります。一説では当寺を開山した應空慶聲上人は松平親乗の縁故の者とも、足助の地を治めていた足助氏又は鈴木氏に関係する者とも言われています。