名所旧跡など

松平真乗墓所(愛知県岡崎市細川町)

2021年3月25日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 天正三年(1575年)二月、同じ松平一門であり家康の家臣であった滝脇松平家の「松平乗高」が大給城を急襲し、この戦いで、大給松平家四代「松平親乗」は尾張国に逃げ落ち、「大給郷」の詰城ともいえる「大給城」は灰燼に帰してしまった。この戦いは、織田氏と今川氏に翻弄された松平家動乱期最後の御家騒動とも言え、織田氏側に与した親乗によって、今川氏側に与していた祖父、父、兄を殺された乗高の敵討ちであった。

 松平親乗の嫡男「松平真乗」は早くから徳川家康に仕え幾多の戦いで軍功を挙げた武将だったようです。上記の通り父松平親乗は尾張国に逃げ落ちてしまった事もあり家督を継ぎ、時期は不明ですが大給松平家祖「松平乗元」の菩提寺「松本山松明院」を細川に移したとされる天正八年(又は天正十年)頃に大給松平家の本拠も細川にうつしています。しかし、細川に本拠をうつしてすぐの天正十年(1582年)に松平真乗は死去し、松明院に葬られています。

 松明院を訪れた時に真乗の墓所があるのかなとも思っていたのですが、どうも境内には無い様で、今は位牌しかのこっていないかもと思っていたのですが、昭和11年発刊の岩津町誌の中に「松平真乗墓(字城山の丘上にあり。)」と書いてある部分を発見し、もしかしたら現在も残っているかもと思い、細川町内を散策してみることにしました。

 岩津町誌に出てくる字城山という場所を訪れてみました。この字城山と書かれた地名は現在でも細川町字城山として残っています。その名前から想像できるかと思いますが、城が置かれていた山から名付けられて様で大給松平家の細川での居館(細川城山城と呼ばれている様です。)があった場所になるようです。

 現地に行くと、確かに丘の様な場所はあります。この丘のすぐ北側を通る道路は元々名古屋鉄道挙母線の線路跡転用した道路になります。この線路敷設工事の際に居館跡もかなり削られているのではないかと思う訳です。それでも主郭跡、土塁などが残ってはいますが、主目的である真乗の墓所はどう見ても見当たりません・・・。

細川城山城

 真っ直ぐ伸びる道路が旧名古屋鉄道挙母線の廃線跡になります。その道路のすぐ左手の丘上に登っていくような路の先が大給松平家の居館である細川城山城跡になります。

 この後も寺院などを見て回っていたのですが、結論から言えば岡崎市細川町徳林ある墓地と忠魂碑がある場所の一角にありました。我ながらよく見つけたなと自分をほめたくなってしまうくらい本当に分かりにくい場所に松平真乗の墓所はあります。墓所の一角に造られた忠魂碑から北側(奥の方)を見ると、木々が茂っていて一段高くなっている場所がある事に気がつきます。忠魂碑の前側に基壇の上に戦没者の方達の墓石が一列に並んでいて、この基壇の裏側にある余地から木々が茂る場所に向かって非常に分かりにくいですがよく観察しているとどうも参道らしきものが伸びている事に気付き、ここから奥に行けるんじゃないのか?と思い向かってみる事にしました。

 建築会社と戦没者の墓石の間を通って奥に見える森の中に進んでいきます。すると、水盤が置かれていて、この水盤をよく見ると、松平新蔵源・・・と彫られています。大給松平家の歴代当主の幼名または通称がが源次郎または源二郎ですので、当時の西尾藩主「松平乗寛」による寄進だろうとおもいます。

 石段があり、色飛びしてしまっていてわかりにくいですが、正面に墓石が一基据えられています。そして木々が生い茂っているので気付きにくいですが、この墓地が建つ場所で石垣が組まれて高台となっていて、周囲を土塀で囲んでいたまさに霊廟といった感じの造りになっています。

 墓石の前に石灯篭が一対据えられています。そして風化が激しいですが周囲を土塀が取り囲んでいた事がここからの写真で分るかと思います。この風化具合から、元々この場所に真乗の墓所はあったんだなとわかりますね。現在では徳林という字名ですが元々は城山だったのでしょうか?または岩津町誌が間違ってた?

 「天正十壬午歳 大給城主源真乗之墓 三月十四日」と彫られた墓石になります。江戸時代を通じて徳川家、松平家は源氏の末裔であるとされてきたので、氏である源としているのが特徴です。

 じつはこの墓石の彫り方なんですが・・・

 大給城址の近くにある大給松平家初代「松平乗元」の墓石と同じ彫り方になります。そして多少の差異はありますが、ほぼ同じ造りの墓石となっている事からも何となくわかる様に、文政五年から天保七年(1822-1836年)の期間において、西尾藩主(大給松平家本家)・奥殿藩主(大給松平家分家)が共同で寄進を行い、境内の拡張、堂宇の造営を行った時に大給城近くに造られた松平乗元の墓石と同時に松平真乗の墓石も作られたという事ですね。歴代の大給松平藩の当主の中で初代「乗元」、五代「真乗」の墓石があるのかはっきりせず、松明院の造営工事に合わせてそれぞれゆかりの地近くに建立されたということでしょうか。

 真乗の墓石の後ろ側に六基の・・・これも墓石というのかな?が据えられています。昭和三年に改葬されたと側面に彫られている辺り、元々は五輪塔などだったが風化により劣化が激しかったのでしょうね。しかし・・・この六基の墓に葬られている方々は真乗とどういった関係の方々なのかな。

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