寺院情報
寺院名 | 大慈山岩屋寺 |
所在地 | 愛知県知多郡南知多町山海間草百九番地 |
御本尊 | 千手観世音菩薩立像 |
宗 派 | 尾張高野山宗 |
創 建 | 霊亀元年(715年) |
札 所 | 知多四国霊場 四十三番札所 島崎廿一大師 二十一番札所 知多西国霊場 一番札所 南知多観音霊場 二十五番札所 尾張観音霊場 七番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | 〇 |
前札所 | 霊場名 | 次札所 |
---|---|---|
四二番:瑞岸山天龍寺 | 知多四国霊場 | 番 外:岩屋山奥之院 |
二十番:瑞岸山天龍寺 | 島崎二一大師 | ー |
ー | 知多西国観音 | 二 番:岩屋山奥之院 |
二四番:端岸山天龍寺 | 南知多観音 | ニ六番:長泉山龍江寺 |
六 番:竜渓山洞雲院 | 尾張観音霊場 | 八 番:鶴林山大御堂寺 |
参拝日:2018年10月3日
大慈山 岩屋寺公式ホームページのご紹介
https://www.iwayaji.jp/
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
山海村字間草に在り。境内七百貳拾七坪、天台宗(書かれた明治時代は天台宗でしたが、昭和二十六年に天台宗から独立し尾張高野山宗を開宗しています。)東春日井郡野田村密蔵院末たり、或いは千眼光寺とも称す。霊亀元年十一月の創建たり。元正天皇の勅願に因り行基菩薩之を開基とす。弘法大師曾て此の地に来たり。清浄の蜜場を選び百日の護摩を修し観音を厳穴に崇す。即ち今の奥の院にして古所謂此地の女人結界是れなり。永享九年回禄し古記録等多く焼失し後再び慶長五年九鬼長門守堂宇を焼き諸宝を略奪す。以後爲めに大いに寺伝を失す。
往昔塔頭十二坊あり。中坊「永享元年再興」、谷坊「応永二十九年中興」、橋坊「永享五年中興」、南坊「応永二十一年中興」、杉坊「正長元年中興」、北坊、西坊、奥坊、栗坊、一乗坊、梅坊、千光坊と云う。後多く衰退して今存するもの僅かに中坊、谷坊、橋坊、杉坊の四頭のみ。
古寺領三百石あり。豊臣秀吉の時没収せられ、江戸幕府の時二十石を有セリ。
「尾張国知多郡誌」より
霊亀元年、僧行基により開創。七堂伽藍を備えた寺領に塔頭十二坊を構える壮大な勅願寺が知多半島の南端にあった。大同三年(808年)弘法大師が留錫、親鸞聖人は阿弥陀堂を本尊に納められ、大野城主佐治家からは国宝一切経五千四百六十三巻を奉納され、江戸時代には尾張藩の祈願所として御国印を頂戴した。
「知多四国めぐり」より
知多四国霊場を行く
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参拝記
知多西国霊場一番札所であり、南知多観音霊場の管理事務局を行っている岩屋寺になります。海沿いからはかなり入った山間に位置しています。その昔、弘法大師が百日の護摩修行を行い、親鸞聖人も訪れ、佐治氏からは現在国の重要文化財に指定されている「一切経五千四百六十三巻」の奉納されています。
駐車場は非常に広く用意されていまるので、安心して車で参拝に訪れることができます。
境内入口
境内入口は二カ所あります。県道沿いに用意されている入口上記写真の場所になるのですが、伽藍配置などを考えると近年作られた入口なのかなあと思うのですが・・・。
もう一ヶ所の入口は、石段にはなっておらず、スロープの様な入口になっています。スロープの出入り口となると何となく車の出入りの為の裏門的なイメージがあるのですが、こちらからだと本堂の正面から境内に入る向きになっているんですよね・・。どうなのかなあ。
手水舎・水盤
瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
屋根の形状が入母屋造となっている為か、かなり重心が高そうにみえますね。各柱に補強の支え柱が設けられていますね。
水盤は、幟でちょっと見えにくいですが、特徴的な形をしていますが、効率よく手水ができる様になっていますね。
本堂
寄棟造瓦葺平入の本堂になります。寝殿造の様に前面に軒が伸びており、独特な形状をしています。
本堂を横からみると、実はこの本堂二階建てになっていて、写真に写っている本堂は二階部分になります。
本堂を遠景で見て頂くとこんな感じです。
全体的にはコンクリート造りなんだろうとは思うのですが、正面から見るとそれを感じさせない造りになています。もしかしたら、二階部分は木造なのかもしれません。
中央に本尊である千手観世音菩薩立像が安置されていてその本尊の左側(さそく)に弘法大師像が安置されていました。岩屋寺の本堂の中は撮影禁止でしたので、大師像をご覧いただくことはできません。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
阿弥陀堂
本堂と正対するように建っている阿弥陀堂になります。
こちらの阿弥陀堂本尊を親鸞聖人が治めたとされています。
鎮守社と経蔵
向かって左側が鎮守社である稲盛神社になります。鳥居に掲げられている扁額には笠森稲荷と書かれているので、稲荷社になると思われます。
そして、写真の向かって右側に建っている多重塔の様な建物は、経蔵になります。
経蔵と解っていても、多重塔の様にしかみえませんが・・・。
経蔵とは、文字からわかると思いますが、経典や仏教に関する書物を収蔵する建物になります。この経蔵の中には、回転式の書架が据えれている輪蔵と呼ばれる物も存在します。
岩屋寺の経蔵の中にも回転式の書架が据えられていて、輪蔵と呼ばれる物になります。チベット仏教のマニ車と同じく、この回転する書架を一回転させると、中に納められている経典を読んだことになるとされています。
五百羅漢像
経蔵の横の山肌には、五百羅漢像が据えられています。
文政三年(1820年)に岩屋寺住職の豪潮律師によって開眼されましたそうです。今から200年前の石像なんですね。風化がすすんでいるようですが、まだまだ原型をとどめている様です。
三十三観音お砂踏み
西国三十三観音霊場の移し本尊が並んでいて、その前の砂地を踏むとお砂踏みができるようになっている様です。四国霊場のお砂踏みは結構見かける・・・(知多四国霊場を巡っているので当然と思いますが・・・)のですが、西国観音霊場のお砂踏みは初見だった気がします。
袴腰の鐘楼になります。二階の鐘をつく部分も壁が起こされていていますし、全体の造形もかなり重厚感のある鐘楼ではないかと思います。
御朱印
参拝を終えて
鎮守社と経蔵の前には、なにやらレンガが焦げている場所がありました。
参拝した時には、よくわからなかったのですが、毎月17日に行わえる大祭においてお炊き上げがされています。
岩屋寺のお炊き上げの風景です。こんな感じでお炊き上げするんですね。
次の目的地は
岩屋寺から奥の院の間に建っている「大慈山 中之院」に参拝していきます。
ここ中之院にはコンクリートの兵士像が安置されている事で有名な寺院です。