大給城(愛知県豊田市大内町) 大給松平家本城

城郭情報

城名大給城
所在地愛知県豊田市大内町城下地内
築城年十五世紀末
築城主長坂新左衛門
城形式山城
遺構堀切、曲輪、石塁、櫓台
規模250m×250m
備考国指定史跡

訪問日:2019年6月26日

沿革・詳細

 数ある愛知県にある城址の中でも大給城が持つ特異性は非常に際立っており、その甲斐もあってか非常に知名度が高いものとなっています。試しにGoogle先生に「大給城」を尋ねてみると、非常に多くの大給城の紹介記事がヒットします。実際現地に行ってみると、最初は普通の山城だなという印象なんですが、主郭部分に近づいていくと徐々に「巨石」をそのまま縄張りに組み込んでいるという他では中々見る事ができない姿を見せ始めてくれます。この巨石がゴロゴロしている城跡に惹かれて多くの方が登城されているみたいです。さらに、この「巨石」を素手で登るボルダリングをされる方々にも非常に有名な場所となっているようです。

 大給城は、大給郷を治めていた土豪「長坂新左衛門」が居館として築いたのが始まりとされていますが、築城年については分かっていません。元々大給城は、長坂氏館の詰城として築城されたのではないかと考えられます。

 長坂氏がいつ頃からこの大給の地を治めるようになったのか、松平親氏との関係はどういったものだったのか、史料が残っていない為、長坂氏については不明な点だらけだったりします。

 大給城が歴史の表舞台に登場するのは、岩津松平家初代「松平信光」が武力にて長坂新左衛門の居館を攻め落とし大給周辺を支配してからになります。信光は攻め落とした大給の地を三男「松平親忠」に与えています。私戦が禁じられていた室町幕府の統治がしっかりと行われていた時代、信光はどうして武力によって大給の地を手に入れる事ができたのか。この辺りが「松平村史」に記されていたので紹介します。

 長坂大炊之助の居城にして其ノ子孫長坂新左衛門一族北給ノ岩下庄左衛門(山下と言ふものあり。)中垣内宇野安左衛門等謀りて乱をなす。近郊の豪族従うもの多し、三河の守護職細川勝久之を平ぐる能はず。此ノ時松平信光岩津城にあり。攻めて圓川に戦い大いに之を破り、新左衛門等多く討死す。城堕ち信光の有となり其ノ子親忠の二男乗元をして守らしむ。乗元の長男乗正、城を修理し更に堅城となす。

昭和十一年発刊 松平村誌より

 ここを読んでも信光が大給の地を攻め込んだ年代はわかりません。そこで、いつ頃のことなのかと思い、記載されている三河守護「細川勝久」を調べてみる事にしました。すると、歴代三河守護の中に細川勝久という名前は登場してこず、なにやら三河国宝飯郡の方に自らの所領があった(らしい)という事がわかりました。年代をある程度絞れそうな情報すらあてにならないとは・・・。

 細川氏が三河守護職となったのは何時からなのか。当サイトでも以前紹介していますが、室町幕府が開幕して政権が安定してからは一色氏が三河守護職を歴任してきていましたが、永享十二年(1440年)一色氏当主「一色義貫」が一説には強大となった一色氏を恐れた将軍家の関与があったのではと言われていますが、武田信栄により討ち取られてしまうと、三河守護職は武田信栄に加担していた「細川持常」に与えられています。その後、文明十年(1478年)まで細川氏の三河守護職の時代が続いているので、信光が大給城を攻め込んだのは永享十二年ー文明十年(1440年-1478年)の間になるかと思います。

 もう一冊、松平八代の事について記載されている書物「松平八代記古伝集」を見てみましょう。

・・(前略)・・大給の長坂新左衛門、保久の山下庄左衛門尉各小城を構え其付近の村を押領し、境を接する信光の遺恨ふかく、岩津岡崎の兵を集め弟松平弾正左衛門尉を先陣として大給に向けて出陣した。長坂新左衛門、山下庄左衛門は共に出陣し円川にて布陣した。敵味方入り乱れ東西に討破り、南北に追い詰めようと戦ううちに負傷死人の数が多く、信光軍は四五町ほど後退した所、長坂・山下軍が深追いした所、信光は伏兵を林の中に置いており、本体と伏兵の挟撃により長坂・山下軍は敗走した。信光軍の追撃により山下新左衛門、山下庄左衛門は打ちとられた。その後、信光は大給城を陥落させ、翌日には保久にむけて八平弾左衛門を派兵し、保久城を陥落させ、火をかけ灰塵とした。信光は、大給城に守備兵を残し岩津に引き上げ、その後、信光は大給城は次男源治郎に譲った。・・・(後略)・・

松平八代古伝集より意訳

 こちらも年代は記されておらず、はっきりとしたことは分かりませんが、長坂氏は保久を治める「山下氏」との繋がりがあった事が書かれています。

 山下庄左衛門尉は室町幕府の奉公衆に名を連ねている山下氏の一族であると見られており、室町幕府が平穏な時では、松平信光と山下庄左衛門が戦う事なぞ考えられない事になります。この辺りから考えると、応仁の乱で東軍に属した松平信光と西軍に属した山下庄左衛門尉・長坂新左衛門とが激突したと考えるのが一番しっくりきます。そうなると、信光が大給城を手に入れたのは応仁元年ー文明九年(1467年ー1477年)の十一年の間のどこかになるということになります。

 この事から、松平信光が大給城の長坂新左衛門を攻めたのは応仁元年ー文明十年(1467-1478年)の十二年間の間になるのかなと思います。

 一番最後に出てくる大給城を次男源治郎に譲ったという部分についてですが、現在の通説では大給城を奪取した信光は三男「松平親忠」に与えたとしています。しかし、親忠の幼名は竹千代または竹若丸であったとされています。では源治郎とは誰なのか?井田野、大給、安祥と信光から与えられた親忠は大給は長子である「松平乗元」に与えています。この乗元の幼名が源治郎という事から、記されている源治郎は松平乗元を指している事だと思います。
※江戸時代から伝えられている系図では、親忠の嫡子が「親長」、次男が「乗元」とされていますが、当サイトでは、親長は信光の嫡子であるという説で色々な記事を書いてきているので、親忠の長子が「乗元」になると考えています。

 松平親忠の長子である乗元は信光が無くなった後、親忠の領地を分割する形で大給と細川の地を分与され大給松平家が起こります。当初は細川に築かれた細川城山城に居城としていたようで、大給城に居城を移すのは二代乗正と共に永正三~七年(1506-10年)に行った大給城の大改修工事を行ってからだと伝えられています。

 親忠は乗元に松平家の北部の守りを任せる為に細川と大給の地を与えたと考えています。第二次井田野合戦で松平領に侵攻してきた寺部城の鈴木氏、挙母城の中条氏などを抑える役割を親忠から与えられた乗元は寺部城や挙母城を眼下に見る事ができる大給城を防衛拠点とする為に改修して居城としたのでしょう。

 安祥松平家を中心として順調に勢力を拡大してきた松平家ですが、安祥松平家四代「松平清康」が天文四年十二月五日(1535年12月29日)に尾張国守山の地で家臣に惨殺されるという「森山崩れ」で死去すると、松平家は今川氏との関係を重視する安祥松平(惣領)派と織田氏との関係を重視する桜井松平派の二派に分裂し内部抗争に突入します。守山崩れ当時の大給松平家の当主は四代「松平親乗」であり、室は安祥松平家当主「松平信定」の娘であるそうで、その関係から親乗は桜井松平家に与し、周囲の安祥松平派の一族と抗争していく事になります。
 特に、滝脇松平家とは壮絶な抗争となっており、弘治二年(1556年)に滝脇松平家の居城である滝脇館を襲い、初代「乗清」、二代「乗遠」、更に乗遠の嫡子「正乗」を討取っています。これは「三河忿劇」とも呼ばれる今川氏による三河国統治に対する国人たちの一斉蜂起に乗じて松平親乗も挙兵して安祥松平派の滝脇松平家を攻め込んだ訳ですが、この戦いが大給城を廃城へと誘う切っ掛けになっていきます。

 松平親乗はその行動を見ると基本的に「反惣領家」としての行動を一環として取っている事に気が付きます。桶狭間の戦いまでは親今川家の惣領家に対し織田氏と通じ、桶狭間の戦いにより惣領家が今川氏から独立し織田氏と同盟を結ぶと今川氏と通じていた様で、永禄三年(1560年)から六年(1563年)の間、親乗は大給城を放逐され、松平信乗という人物が大給城主となっています。その後親乗は帰参が許され再び大給城主となったようです。

 武田軍による美濃、三河への侵略の圧力が最大値となりつつあった天正三年(1575年)二月、滝脇松平家三代「松平乗高」が大給城を夜襲、火を放ち大給城は灰燼に帰し、松平親乗は大給城を捨て尾張国に逃げ落ちています。

 大給松平家五代「松平真乗」は焼け落ちた大給城から居城を細川に移したとも言われていますが、真乗の嫡子で大給松平家六代となる「松平家乗」は大給にて生まれたとも言われている事から、大給にある居館は焼け落ちたが大給城の一部は何とか残ったのかもしれません。城の麓にあるはずの居館に手を付けず、城だけを攻めて火をつけるとは正直考えられないですし・・・。

 この滝脇松平家の松平乗高による大給城襲撃について、主君である徳川家康は特に乗高を咎める様な事はおこなっていないようです。滝脇松平家が襲撃を受けた時、家康は十三歳になっていて、遠く駿府の地にいてもこの戦いの事は耳に入っていたはずで、その後の親乗の行動に何か思う事があって言わば敵討ちという形になる大給城襲撃については家康が認めていたとも考えられますね。

 家康の関東移封に伴い、大給松平家六代「松平家乗」も上野国那波郡に移動し、大給城は廃城となっています。関ヶ原の合戦後、家乗の弟「松平真次」は先祖ゆかりの大給の地を知行地として臨み、六千石の旗本として大給に陣屋を構えています。後に加増を受け一万六千石の大名となり藩庁を奥殿に移し奥殿藩となっていくのですが、大給城を復活させたとは史料に出てこないので、大給に藩庁があった時代はどこに陣屋を築いていたのでしょうか。

訪問記

 国道301号線を走ると大給城跡への看板が設置されており、ここから国道を離れて市道を進んでいきます。この先は残念ながらストリートビューが撮影されておらず、この分岐が一つの目印にしてください。大給城の登城口から200mほど手前に駐車場が設けられています。この駐車場に車を停めて歩いて登城口に向かいます。

 正直な所、まあまあ知名度がある城址の登城口にしては非常に質素な感じがします。駐車場から歩いていくと直前まで登城口がわからなくて、こっちであっているのか?と思いながら歩いて行った記憶があります。

 この階段を進んで山の中にある大給城跡に向けて歩いていきます。大給城が現役だった時もここが登城口だったのでしょうか?というかこの登城口を横切る市道がいつ頃開通した時に造られた感じがしますが・・・。

大給城の登城口はどこに?

 広島県立図書館所蔵の「諸国古城之図」の中に大給城が縄張りが描かれている物がありました。この図を見ると、大給城へと通じる道は何本かあるようですが、現在の市道から通じる道が一番メインの登城口であるように思えます。
 現在は切り通されて市道が横切る様に造られていますが、ここから近年登城口が作られたのかなと思っていたのですが、どうやら元々はもっと南に向けて道が繋がっていたようです。この図を見てると、やはり通常時は大給松平家の行政機関は山の麓の集落近くに造られており、大給城は詰城だったんだろうなと思えてきます。

 石段を登り大給城に向けて森の中を切り開かれた道をどんどん進んでいきます。山城と聞いていたので、山登りも覚悟していたのですが、比較的平坦な道が続きます。
 道なりに進むとT字の分岐路に行き当たります。左に進むと大給城、右に進むと石造の瑞垣に囲まれた松平乗元の墓所があるようです。

松平乗元墓所

 大給松平家初代となる「松平乗元」は文安三年(1446年)に生れ、天文六年(1537年)に没しています。九十一歳という当時でもまれにみる長寿だったことがわかりますね。
 この大給城址に建つ松平乗元の墓所は文政天保(1818-1845年)の頃に乗元の子孫によって乗元ゆかりの地にという事でここ大給城址に建立されたそうです。
 乗元の菩提寺は元々大給城下にあった松明院になるのですが、沿革の中でも述べている滝脇松平家との抗争の中で大給城が灰燼と帰した後に細川に居館を移した時に大給松平家の菩提寺となる松明院も細川に移されています。その後、文政五年から天保七年(1822-1836年)の期間において、西尾藩主(大給松平家本家)・奥殿藩主(大給松平家分家)が共同で寄進を行い、境内の拡張、堂宇の造営を行っています。
 もう見えてきましたね。この松明院の造営の時に乗元の墓所が建立された訳ですね。

 さて、分岐前戻って次は左手の大給城址方面に向けて進んでいこうと思います。これまたほぼ平坦な道を進んでいくと、案内看板が設置されている場所が見えてきます。どうやら大給城の東側の堀があった場所にたどり着いたようです。

 見て分かりますかね・・・。真ん中が堀に設けられた土橋となっていて、その左右は急激に落ち込んでいて堀跡になっています。この土橋は、先ほど紹介した乗元の墓を建立する時に造られたのかな?

 この場所に設置されている案内板になります。大給城の説明と縄張り図が同時に書かれていて非常に分かりやすい説明板ですね。ここから主郭をめざしていくのですが、その手前の縄張り図に2と書かれている曲輪を経由して進んでいくみたいなのですが、少し迂回して主郭の南側を進んで行こうと思います。

 進んでいくと、松平東照宮、高月院、松平城と共に松平氏遺跡として国の指定史跡となった事を示す石碑が据えられていました。この四ヶ所の遺跡の中で大給城だけが松平宗家関連の遺跡ではない点は注意が必要です。

 「堀切」と説明板が設置されていました。写真の右側が大給城側になっていて、外側と比べても高くなっていますね。この場所には櫓が気付かれていて大給城東側からの防御点になっていたようです。

 主郭の南側を歩いていくと、大給城を特徴づける巨石が城郭を構成する一部に使われている光景を見る事ができます。自然を利用した城郭はそのスケールの大きさに圧倒されます。

  主郭の方を見上げていると、巨石の上に石垣が組まれているという場所を見つけました。こういった場所に石垣を組もうと思った発想がすごいですね。

 主郭部分にたどり着きました。ここには大給城址の石碑がこれまた巨石の上に設置されています。前述したようになぜ松平家の北部の守りの拠点として大給城を改修したのかがここ主郭から西側を望むとその理由がみえてきます。

 この場所から、寺部城、挙母城方面を見渡すことができきます。この場所に城郭を構える事で、鈴木氏や中条氏は簡単に岩津城へ出陣する事ができなくなるわけですね。

 しかし、何度見てもこの巨石を利用した城郭は惹かれるものがありますね。城郭を紹介されているサイトなどを見させて頂いても、大給城は非常に評価の高い城址になっていて一度は訪問する事をお勧めしているサイトも数多く見受けられました。巨石と城址という愛知県ではあまり見かけない組み合わせが非常に魅力的な城址であるのは間違いないので豊田市の松平近くまで来た時は寄ってみても損はないと思います。

地図で所在地を確認

城郭名大給城
所在地愛知県豊田市大内町城下地内
最寄駅豊田市コミュニティーバス「大給口バス停」徒歩20分
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