伊賀八幡宮(愛知県岡崎市伊賀町)岡崎十二社

神社紹介

神社名伊賀八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市伊賀町東郷中八十六
御祭神応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現
旧社格県社
創 建文明二年(1470年)
神名帳
境内社牟久津社(祭神:大名持命)
讃岐社(祭神:大物主命)
若宮社(祭神:仁徳天皇)
伊勢社(祭神:天照大御神)
日宮社(祭神:日宮大神)
上総社(祭神:天日鷲命)
安藝社(祭神:市杵島姫命)
稲荷社(祭神:倉稲魂神)
例祭日十月第一日曜日
御朱印
H P/公式HP

参拝日:2020年11月18日

御由緒

 文明年中(1469-87年)、安祥松平家初代「松平親忠」が武運長久・子孫繁栄を祈願し氏神として八幡宮を勧請したのが伊賀八幡宮の創建であると伝えられています。
 「伊賀八幡宮は松平家の氏神として建立された。」とも伝えらていますが、自分が考えるには安祥松平家の氏神として建立されたのではないかと思っています。結果的に宗家たる立場であった岩津松平家が永正三年(1508年)の伊勢新九郎を総大将とする今川軍によって壊滅的は被害を受けるなどして没落、安祥松平家が惣領としての立場になっていき、更に徳川家康を輩出した事により気付けば松平宗家と認識されるようになった事が影響しているはずです。

 何といっても伊賀八幡宮を印象付けるのは寛永十三年(1636年)に徳川家光による造営工事にって朱塗り権現造の本殿とそれに付随する建造物になります。時の岡崎城主「本多伊勢盛忠利」を奉行として造営が行われ、現在では国の重要文化財に指定されています。

 江戸時代までは伊賀八幡宮の境内に鐘楼と観音堂がありました。岡崎市史では破却されたと書かれているのですが、鐘楼は売却され現在は西尾市吉良町にある浄土宗西山深草派の「北星山西福寺/紹介記事」に移築されています。そして、神仏習合時代では本地仏とされ奉安されていた観音像は参道入口に移築され現在は「補陀羅山観音堂/紹介記事」の本尊となっています。

 いつ頃描かれた伊賀八幡宮の境内図なのかは不明ですが、随神門の右側に鐘楼が描かれている所を見ると江戸時代の境内図なのではないかと思います。(鐘楼は明治四年に西福寺に移築されています。)
 権現造の拝殿・幣殿・本殿が一体となった社殿の後ろ側に入母屋造の建物が描かれています。現在この建物は伊賀八幡宮に存在していない事を考えると、この建物が本地佛となる観音像を奉安していた観音堂だったと思われます。

 伊賀八幡宮は伊賀町字南郷中1番、同二十七番、東郷中八十六番に鎮座。境内二千九百二十七坪四合一勺を有す。文明年中松平親忠の創立である。
 社記に曰ふ、後土御門天皇の文明年中(或は伝ふ文明二年)三河国井賀の郷に伊賀八幡宮は初めて鎮座があった。三河前四代松平右京亮親忠の勧請しまつりたるものである。
 親忠の父なる和泉守信光は岩津城に住み、安祥城を攻めて之を陥れ五男光重を岡崎城に在る西郷弾正左衛門尉頼嗣の女に養婿たらしめ勇を遠近に振うた。
 親忠に及んで、安祥城に移り岩津岡崎の中間に在る井賀の地を卜し、我が氏神として武運長久子孫繁栄を祈願せん為め、八幡宮を齋き祀り伊賀八幡宮と号した。之より所の名をも伊賀と改めた。
五代長親、六代信忠、又常に崇敬を怠らず、七代清康に至りて岡崎城に移り南征北伐三河の一統に努めたれば更に社殿を造営し弓箭を献じ出陣毎に必ず祈願を籠めた。
 ・・・中略・・・
 清康の子広忠時に歳漸く十歳、更に内訌のあるありて岡崎家人の憂惧言ふばかりなり。さりとて代々の所領を敵の馬蹄に委し何の面目あるべきと総勢僅かに八百余人、岡崎城を出て、常例のままに伊賀八幡宮の社前に丹誠を致して祈願し、やがて井田の原に駆け出て激戦數合折しも不思議なる哉伊賀八幡宮の社頭俄に鳴動し一の鳥居一間ばかり北に動き、白羽の箭敵中に降ること雨の如く。敵の軍勢を向くべくもあらで散々に敗北し、尾張の国へ逃げ帰った。
 この戦いの最中に蘆毛の馬に跨りたる武者一騎。其の様凡人と思はれざるが味方の真っ先駆けて敵中に攻め入るを見たと、之より伊賀の郷にては蘆毛の馬を乗ることを忌んだ。この不思議な事實は大久保彦左衛門のしるsる三河物語にも家忠日記にも、其他三河松平氏の歴史記録にも悉く載せている。
 この時の城羽の神矢は永く子孫まで神威を崇仰せしめん為として広忠より二箭を神社へ奉納した。
 ・・・中略・・・
 慶長五年、関ヶ原合戦の時、社殿鳴動し、物の具の音夥しく聞え、一の鳥居西の方に歩み寄る。家康神威を畏み、慶長七年社領二百二十八石を加増し、後陽成天皇の御神号宸筆を奉納し、同十六年に至り社殿の建造を命じた。
 元和元年大阪陣の時、一の鳥居また西の方に動き、家康霊夢を蒙れるを以て神官柴田刑部少輔正勝を召して更に社領二百十一石を進献し本殿屋根葺替の料として金百両を奉った。
 寛永十一年三代家光将軍上洛の際、松平伊豆守信綱を代参として社参せしめ寛永十三年社領百石を加増して都合五百四十石とし、岡崎城主本多伊勢盛忠利を奉行として社殿造営を行はしめ併せて相殿に東照宮を勧請せしめた。
 ・・・中略・・・
 明治五年十月十二日村社に列せられ、同二十九年五月郷社に昇格し、同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正六年二月一日県社に昇格した。

 もと、境内には本地仏薬師堂、並びに鐘楼があったが、神仏分離の時破却した。 

大正四年発刊「(旧)岡崎市史」第七巻より

おかまいり「岡崎十二社」をめぐる

 岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
 かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。

 スマホで撮影したんですが、正面から撮影したように加工しますか?と聞かれたので「はい」を選んだら、スタンプ以外はブラック処理さました。こんな機能がついていたんですな・・・。

参拝記

 社殿から真っ直ぐ南に参道が伸びていて、県道56号線と接続する場所に朱塗りの一の鳥居が建っています。この鳥居の建っているすぐ脇に伊賀八幡宮の本地仏の観音像が移された「補陀羅山観音堂/紹介記事」が建っています。こちらの観音像と共にこの観音堂に移された地蔵尊は岡崎三十六地蔵二十番札所の札所本尊になっています。

一の鳥居

 県道56号線を国道1号線方面から北上していくと伊賀川手前に非常に目立つ鳥居が立っています。鳥居をくぐった先に二の鳥居が据えられているので車で潜り抜ける事は出来ませんが、大きさ的には普通に車で通り抜ける事が楽勝できてしまうくらいの大きさですね。

社号標

 元々は旧社格である「縣社」が合わせて彫られていた社号標になりますが、戦後GHQの政策により国家神道が破棄され社格制度も廃止された為、多くの神社は社格部分をコンクリートで埋めるなどして対応してきたので、現在でも神社を参拝していくと結構な確率で社格部分がコンクリートで埋められた社号標に出会う事ができるのですが、ここ伊賀八幡宮ではコンクリートで埋めた後、三つ葉葵の徳川家の家紋を社格部分に重ねて掲げています。

二の鳥居

 2020年2月ごろから徐々に広まり始めた新型コロナウィルス。GW頃には全国非常事態が宣言され「コロナ禍」と呼ばれる様になりましたね。これ以降様々なイベントや行事が中止・延期を余儀なくされ神社関係でいえば例大祭などで社殿で例大祭の神事は行うが、それ以外の御神輿や夜店屋台の営業中止など当たり前だった神社のお祭りの風景が一変してしまっています。
 そんな2020年に、伊賀八幡宮では二の鳥居の建て替え工事が行われた様です。それまでは朱塗り木造の両部鳥居が立っていた記憶がありますが、石造両部鳥居に造り替えられています。なぜ、この鳥居の紹介でコロナ禍についても書いたのかといえば・・・

 2020年の緊急事態宣言までに至った新型コロナウィルスという疫病退散のシンボルとして一躍脚光を浴びた「アマビエ」様の石像が鳥居前に置かれているんです。様々な場所でアマビエ様を見かけますが、神社や寺院でも疫病退散の祈願に登場したり、御朱印、護符なのに描かれるなど2020年から2021年、たぶん一番日本国民の目に留まる事になった妖怪ではないでしょうか。

 鳥居の建て替え工事が進む中で突如襲った「コロナ禍」の鎮静を祈願して急遽作成される事になったんでしょうね。このアマビエ像、何十年後に昔新型コロナウィルスが蔓延したという歴史的資料になるのかもしれませんね。

 パソコン内を検索したら2009年に撮影した伊賀八幡宮二の鳥居の写真を発見しました。写真を見比べると、鳥居だけでなく参道も併せて造営工事が行われたことがわかります。ただ、そういえば「徳川氏累代祈願所」の石碑はどこに移設されたのかな・・・。

伊賀川渡河橋「神橋」

 一級河川である「伊賀川」に架けられた「神橋」になります。明治時代に伊賀川の改修工事が行われていて、元々は真っ直ぐ西に向かっていて(広幡小学校の北側辺りを流れそのまま国道248号線をこえていたといいます。)、洪水などが頻発した事からこの神橋辺りから改修工事が行われ、南に流れる様に付け替えてが行われて現在の伊賀川の流れになっています。

 伊賀八幡宮の参道として伊賀川を渡河する為に架けられた神橋ですが、平成20年に発生した岡崎ゲリラ豪雨で伊賀川流域に水害が発生した事から川の改修工事が行われ、この時に架け替えられています。かなり川幅が拡幅された感じで、新しい神橋は以前より大きくなだらかな橋にかわった感じがします。

 ほぼ同じ場所から社殿方面を望んでみます。かなり橋の傾斜が緩やかになったのがわかって頂けるかなと思います。

三の鳥居

 神橋を渡りいよいよ伊賀八幡宮の境内に入ります。一の鳥居辺りからうっすらと見えていた境内入口に立っている三の鳥居になります。この三の鳥居から国の重要文化財に指定されている寛永十三年(1636年)に徳川家光の命によって行われた造営工事で建立された建築物が登場してきます。
 この鳥居も寛永十三年建立になり、国の重要文化財となっています。

神橋

 蓮が植えられている池の中心には石造の神橋(太鼓橋)が架けられています。この神橋も寛永十三年(1636年)に建立され、国の重要文化財となっています。

 7月から9月にかけては池に植えられている蓮の花が咲き誇り、岡崎の観光名所の一つとなっています。

随神門

 寛永十三年(1636年)建立の八脚楼門造りの随神門です。左右に設けられた「間」の部分には随神様が据えられています。(伊賀八幡宮のHPによると、随神様が据えられている随神門は愛知県では伊賀八幡宮だけとしています。)

 「間」の部分に随神が据えられていると随神門、仁王像が据えられていると仁王門、何も据えられていないと楼門と呼び方が変わります。

手水舎

 木造銅板葺四本柱タイプの手水舎になります。水盤と井戸が並んでいますが、井戸部分は露天となっている辺りが他ではあまり見かけに様式かなとおもいます。

参拝所

 随神門と社殿の間に参拝所が設けられています。日中はここから参拝する事になるのですが、毎日開門される六時から八時半の間は開門されて拝殿前まで進むことができ、参拝する事ができるそうです。

社殿

 寛永十三年(1636年)建立の拝殿・幣殿・本殿一体となっている社殿になります。「家光の時代に建立された神社といえば朱塗りの社殿」というのは伊賀八幡宮、そして六所神社を有している岡崎市民の共通したイメージではないかと思います。

参拝を終えて

神社名伊賀八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市伊賀町東郷中八十六
最寄駅名鉄バス「八幡社前バス停」徒歩2分

地図で鎮座地を確認

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である”天照大御神”とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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