岡崎十二社 岡崎市

龍城神社(愛知県岡崎市康生町)岡崎十二社

2021年12月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名龍城神社
鎮座地愛知県岡崎市康生町五六一番地
御祭神徳川家康
本多忠勝
天神地祇
護国英霊
旧社格縣社
創 建寛永年代(1624-43年)
神名帳
境内社
例大祭四月十七日
御朱印
H Phttp://home1.catvmics.ne.jp/~tatuki/

参拝日:2020年11月25日

御由緒

 龍城神社の創建は、寛永年代(1624-43年)に時の岡崎藩主「本多忠利」が日光東照宮より東照宮(徳川家康)の分霊の受け、岡崎城の鎮守社として創建されたのが創始であるとしています。

本多忠利とは?

 本多忠利は、松平広忠・家康に仕えた「本多広孝」の曾孫に当たる武将になります。本多広孝は家康の父「松平広忠」の代から松平家・徳川家に仕えた武将で、元々は岡崎市土井町周辺を基盤していたようです。桶狭間の戦いの後、徳川家康が岡崎城に戻ってくると、重臣として仕え、吉良氏の居城「東条城/紹介記事」と巡る戦い(藤波畷の戦い/紹介記事)で吉良方の宿将「富永伴五郎」を討取るなどの軍功をあげ、東条城落城後は、富永伴五郎の旧領であった幡豆郡室周辺を与えられています。三河一向一揆の戦いにおいても、自らの基盤でった土井を拠点に土呂・針崎の一向宗と抗戦しています。
 さらに、今川家が治める東三河への進行戦においても、田原城を攻め落とすなどの軍功をあげ、家康から恩賞として田原城が与えられ、徳川家臣団の中でもかなり早い城持ち武将となっています。

 関ケ原の合戦後、岡崎城主を本多広孝の嫡子「本多康重」に任せたのも、家康の広孝への信頼が厚かった証左なのかもしれません。

 時は下り、明和六年(1769年)石見国浜田藩である本多忠粛が岡崎藩に移封となり、以後明治維新まで本多氏が岡崎藩主と務めていきます。この本多忠粛の本多氏は、本多氏でも平八郎家とよばれる血統で、徳川四天王である「本多忠勝」を輩出している血統になります。同じ「本多」でも平八郎家が本多氏の主家とも言える立場だったようですね。

 いつの時代からかは不明ですが、本多忠勝もいつしか神位を与えれ「映世明神」と称されていたようです。大名本多平八郎家の祖でもある訳ですから、その御魂を藩主を務めていた城の本丸部分などで鎮守として祀っていたのでしょう。そして、明和六年に岡崎藩主に移封となった時も、浜田藩から岡崎藩に映世明神を遷座、岡崎城内に祀っていたようです。

 明治維新を迎え、明治六年岡崎城は廃城となります。天守以下の建物が破却され、岡崎城の主郭部分は岡崎公園として再開発が行われます。そして天守台の隣に長年岡崎城の鎮守として祀られていた東照宮と映世神社は合祀の上、社を造営し鎮座しています。

御祭神は?

龍城神社の御祭神は

  • 徳川家康
  • 本多忠勝
  • 天神地祇
  • 護国英霊

であるとしています。

東照宮は寛永年代(1624-43年)の創祀で、映世明神は明和七年(1770年)本多忠肅が石州浜田より岡崎城に移る時、本丸内に祀った。明治九年一月、東照宮と映世神社を合併して現在の地に移した。社名を龍城神社と定め、同十四年十月二十二日、社名を東照宮に復旧したが、同四十五年四月二十六日、龍城神社に復称した。大正二年十二月、社殿建造落成し、同三年四月八日、県社に昇格する。昭和二十三年二月、不慮の火災により社殿を焼失する。同二十五年、東照宮霊殿を移築し、本殿とする。同三十七年七月、全市、旧領、三河出身者の奉賛と日光東照宮より神木の寄進をうけ、同三十七年四月三日、社殿。斎館を造営、同年氏が四月五日、天神地祇並びに全市旧領の護国英霊を配祀する。同四十八年までに社務所、参集所を造営、神域を整備した。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

霊場をめぐる

 岡崎十二社巡りも最後となる岡崎城の天守横に鎮座している「龍城神社」への参拝となります。岡崎城に行く事が主で岡崎公園を訪れた事は何度もあるのですが、龍城神社への参拝が主で岡崎公園を訪れたのは初めてです。

岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
 かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています 。

参拝記

 御由緒にも書いていますが、現在は岡崎公園として整備されている岡崎城本丸部分に天守閣と並ぶ様に鎮座しています。市町村が整備を進めている旧城郭の公園に小さな社の神社が鎮座しているという事はあるでしょうけど、今から紹介しますがここまで立派な社殿や授与所を有する神社が鎮座している所は正直珍しいんじゃないのかなと思います。実際本丸部分のどこまでが神社の境内地なのか・・・本丸全部が境内地ではないとおもうのですが・・・。

 生まれつき岡崎市民である私にとって、岡崎城と龍城神社はある意味1セットという感覚なので、何ら不思議に思わないんですが、岡崎市外の方がこの写真を見ると違和感を感じるんですかね。

鳥居・社号標

 大正二年建立の旧社格「縣社」が彫られた社号標と、明神鳥居になります。

手水舎

 木道銅板葺き四本柱タイプの手水舎になります。ここまで転びが設けられていない垂直柱の手水舎も珍しいですね。

狛犬

 大正二年生まれの狛犬一対です。

境内一望

 入母屋造銅板葺平入の唐破風が設けられたコンクリート造り社殿になります。拝殿には御祈祷を受けられている家族ずれの方達が坐していたので、引きの写真での紹介です。

地図で鎮座地を確認

神社名龍城神社
鎮座地愛知県岡崎市康生町五六一番地
最寄駅名古屋鉄道名古屋本線「東岡崎駅」徒歩15分

 龍城神社が鎮座している「岡崎公園」は昭和二年に新愛知新聞社(現:中日新聞)が読書の方達からの投票によって愛知県の新しい十名所を決定しようという企画を行って、一新聞社の企画ながら、現代では考えられない様な盛り上がりを見せていたようで、各市町村をあげて投票が行われていたようです。そんな企画で投票数第一位になったのが、愛知県岡崎市にある「岡崎公園」でした。その得票数は令和の現在の岡崎市民と比べても3倍弱となる「1,044,354票」を集めているわけですか、ここからも当時の熱狂ぶりを伺い知る事ができる訳です。

是非、こちらの記事も参照してみて下さい。

令和三年十二月からの企画として、愛知県新十名所として投票順位が発表されている五十七ヶ所を順次紹介していこうとおもっていますので、こちらの企画もどうぞよろしく。

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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