神社紹介
神社名 | 岡崎天満宮 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市中町北野一番地 |
御祭神 | 道臣命、菅原道真 |
旧社格 | 郷社 |
創 建 | 建保五年(1217年) |
神名帳 | ー |
境内社 | 稲荷社、御嶽社 |
例祭日 | 九月二十五日 |
御朱印 | 〇 |
H P | 〇(公式HP) |
参拝日:2020年11月25日
御由緒
鎌倉時代の健保五年(1217年)、現在のNTT西日本岡崎ビルが建つ辺りに、「築山稲荷大明神/紹介記事」が勧請され、この築山稲荷を奉斎する為、「瑞生山総持寺/紹介記事」が創建されています。この総持寺の鬼門守護として、道臣命を勧請して創建されたのが岡崎天満宮になります。
その後、江戸時代の元禄三年(1690年)に菅原道真を勧請したのは、江戸湯島天神の別当職であった「信祐」という者が、岡崎城下伝馬町にて宿泊している時に霊夢を見て、菅原道真公を勧請合祀し、社名を天満宮と改称しています。
【由緒】
社伝に建保五年(1217年)八月二十三日、本間三郎重光が道臣命を勧請して弓弦天神社と称した。元禄三年(1690年)菅原信祐が道真公を合祀して天満宮と改称した。明治五年九月十八日、郷社に列し、岡崎天満宮と改称した。同三十五年二月十五日菅公一千年記念に拝殿を改築する。昭和八年九月二十五日御大典記念に本殿幣殿を造営した。同十五年二月二十五日、皇紀二千六百年記念に社務所を改築する。同二十年七月十九日戦災をうけ全建物を焼失。翌二十一年九月二十五日、社殿を再建する。同二十五年八月三十日、幣殿、社務所を再建した。同三十五年斎館を造営する。同四十五年、拝殿を再建した。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
霊場を行く
おかまいり「岡崎十二社スタンプラリー」の五番札所となっている岡崎天満宮になります。当サイトで紹介した「築山稲荷大明神/紹介記事」と「瑞生山総持寺/紹介記事」とは岡崎市立甲山中学校を挟んで東西に位置すると思えば、何となく位置関係が分かるかと思います。岡崎天満宮は、真宗大谷派の三河別院の北側に鎮座しているので、三河別院が一つの目印になりますかね。
岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。
参拝記
真宗大谷派三河別院の東側の市道を北に進むと変則の交差点に突き当たります。その交差点から左斜め前方を望むと、石鳥居が見えるはずです。この石鳥居が据えられている場所が岡崎天満宮の境内になります。駐車場はその鳥居の脇に用意されているので車で向かう方も安心して参拝する事ができます。
境内入口
岡崎天満宮の境内入口は少し変則的な造りになっていて、一枚目は正面からの境内入口、そして二枚目の写真は、二の鳥居から西に参道が曲がって一の鳥居が据えられている境内入口になります。
一の鳥居が二基あって、それぞれの参道が合流して二の鳥居→石段→境内って形になっています。
そして、こちらが扁額が掲げられた明神鳥居の二の鳥居になります。ここ岡崎天満宮の鳥居は、笠木の部分の反り具合が非常に特徴的だと思います。
社殿
太平洋戦争の岡崎空襲によって焼失されその後再建された。入母屋造瓦葺平入の唐破風の向拝が設けられた拝殿を有する社殿になります。
おかまいりスタンプ台
おかまいりのスタンプ入れは、境内に設置された岡崎観光協会による案内板のすぐ脇に設置されていました。朱色のポストは非常に目立ちます。
御朱印
ここ岡崎天満宮では、岡崎天満宮の御朱印の他に、岡崎天満宮の宮司さんが兼務していらっしゃる「八柱神社」・「若宮八幡宮/紹介記事」・「白山社/紹介記事」の三社の御朱印を頂くことが出来ますので、御朱印を集められている方は、こちら三社を参拝してから岡崎天満宮を参拝される事をお勧めします。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 岡崎天満宮 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市中町北野一番地 |
最寄駅 | 名鉄バス「西中町バス停」徒歩5分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。
築山稲荷大明神/総持寺/恵比寿神社/徳王稲荷社金刀比羅社などの由緒にその名が登場する「本間三郎重光」その実在性はよくわかりませんが、これだけの社寺の由緒にその名前を登場させている事から、この地に所領をもっていたとする本間一族はかなり力をもっていたのではないかと想像させてくれます。