"桶狭間の戦い"の地へ

永禄三年五月十九日(西暦1560年6月12日)、織田信長が迫りくる今川義元の大軍を奇襲戦によって今川義元の首を取り今川軍を打ち破ったとして、「日本三大奇襲戦」の一つとして非常に有名な「桶狭間の戦い」があります。

この戦いについては、様々な書籍は発売されていますし、大河ドラマなどでも何度でも演じられているので、戦いの流れなどについては当サイトでわざわざ述べる必要はないかなと思います。ただ、最近の研究では、従来から言われてきており、前述でもしていますような織田信長による「奇襲戦」という戦いは否定されつつあり、「織田信長軍と今川義元の本隊との正面衝突による戦い」だったとされつつあるようですが。

そんな何となくイメージが変わりつつある「桶狭間の戦い」ですが、当サイトでのメイン企画である「愛知県霊場巡り」の中で巡拝してきた「知多四国霊場」の札所になっている寺院に「桶狭間の戦い」に何らかの関りがある寺院があり、特に八十七番札所である「鷲頭山長寿寺」を納経した際に、長寿寺のすぐ隣にある「鷲津砦址」と歩いて数分の場所にある「丸根砦」とという桶狭間の戦いに非常に所縁のある砦跡を巡っていた事もあり、今回名古屋市緑区豊明市の二市に渡る「桶狭間古戦場の地」を散策してみる事にしました。

桶狭間の戦いに関するホームページの紹介

まずは、散策に先立って、名古屋市や豊明市などの桶狭間の戦いについてのホームページなどを調べて、桶狭間古戦場にどういった史蹟があるのかを見ていきたいと思います。

名古屋市運営のホームページ

https://nobunaga-kouro.nagoya/

http://www.nagoya-info.jp/nobunaga/okehazama/

NPO法人桶狭間古戦場保存会運営のホームページ

http://okehazama.net/

豊明市運営のホームページ

https://www.city.toyoake.lg.jp/2001.htm

豊明市観光協会運営のホームページ

http://toyoake-okehazama.com/

それぞれのホームぺージを見ていくと、名古屋市緑区と豊明市共に「我が市こそ本当の桶狭間古戦場地」であるとアピールしています。地図などを見てみると、名古屋市と豊明市にかけて広がる丘陵地帯全体が桶狭間古戦場にあたるのではないかと思う訳ですが、どうも両市ともこだわっているのが、古戦場の地としている場所は「今川義元」の本陣が置かれた場所であり、織田信長の家来である「毛利良勝」によって今川義元が打ち取られた場所であるとしている点のようです。

桶狭間古戦場 史跡

桶狭間の戦いは、桶狭間の古戦場跡だけではなく、沓掛城、鳴海城、大高城の三城も大きく関わっている戦いになります。それぞれの城を見ていくと、何故「今川義元」が鎌倉街道をそのまま進まず、大高城、鳴海城方面に軍を進めたのかが見えてくるのかもしれませんね。

沓掛城

豊明市沓掛町にあった城。
城主である「近藤景春」は沓掛近藤氏九代目であり、この地を古くから治める豪族になります。景春は当初岡崎城主"松平広忠"の傘下だったようです。真偽は解りませんが、松平七代目"松平清康"の時代に急激に勢力を拡張した時に松平家に従属したのではと考えています。森山崩れで清康が討ち死にすると、松平家は内部抗争などもあり弱体化し、近藤景春は徐々に勢力を伸ばしてきた織田信秀に従属する事にします。この辺りの主替えは、自らの領地を守る為の弱小豪族では当たり前の行動ですね。

その後、織田信秀死去し家督を織田信長が継ぐと、その能力を疑っていた鳴海城主「山口教継」は織田家から離反し、今川家に従属する事になります。近藤景春と山口教継との間でどういった話が行われたのかは分かりませんが、近藤景春も織田家から今川氏へと再び主替えを行っています。

今川氏に付いた近藤景春ですが、今川義元は沓掛城主として自らの家臣である「浅井政敏」を送り込んできます。浅井政敏の指揮の元、沓掛城の縄張りは拡張されたとされています。

今川義元 西方(尾張)に向けて出陣

永禄三年(1560)五月十日に第一陣である松平元康出陣を皮切りに、二万五千とも四万五千とも言われる大群が順次駿府城を出陣していきます。そして、五月十二日、いよいよ今川義元率いる本隊が駿府城を出陣していきます。現在ではその真偽性が疑われてはいますが、"上洛"の為とされる西方への出陣となります。

駿府城から鎌倉街道を西に進み、駿河国、遠江国、三河国と順調に兵を進めていきます。駿府城を出立してから四日後には、岡崎城まで一気に進軍しています。

五月十六日 岡崎城着
五月十七日 池鯉鮒城着
五月十八日 沓掛城着

尾張国に近づくにつれ行軍のペースが落ちて、岡崎城から二日を要して尾張国にある沓掛城に入城しています。沓掛城では今川義元は軍議を開き、明日に向けての作戦を決めています。
・松平元康・・丸根砦攻撃、大高城への兵糧入れ
・朝比奈泰朝・鷲津砦攻撃
・阿部元信・・鳴海城の守備
・鵜殿長照・・大高城の守備
・浅井政敏・・沓掛城の守備
そして、義元の本隊は、大高城を囲む砦を制圧した後に鳴海城、もしくは大高城に入城する予定だったようです。

松平元康は、軍議が終了するやいなや、大高城に向けて軍を進めたと思われます。そしてあの名高い大高城兵糧入れを成功させています。そして一説では五月十九日の午前三時頃、朝比奈軍と共に丸根砦、鷲津砦への攻撃を開始しています。

そして、五月十九日の午前、今川義元の本隊が運命の桶狭間の地に向けて出発します。

[ad]

「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち取られたという一報が沓掛城に届くと、城主であった「浅井政敏」は沓掛城を放棄し三河国方面に撤退してしまいます。この辺りからも今川義元という要を失ってしまった今川軍は命令系統が損失し、まさに崩壊してしまっていたのでしょう。
空城となっていた沓掛城には、前城主である「近藤景春」が混乱に乗じて戻りますが、五月二十一日、桶狭間での今川軍への掃討作戦を終えたであろう織田信長軍に攻め込まれます。近藤景春も必死に城を守ったと思われますが、最後は沓掛城を脱し逃走をはかりますが、沓掛城の北側にある「天神山」で討死したと言われています。現在、天神山の山頂には近藤景春の墓石があります。

桶狭間の戦いでの論功行賞で、沓掛城は「簗田政綱」が拝領しています。(簗田政綱は沓掛城を拝領しながらも沓掛城に入城せず、沓掛城周辺は荒廃していたという説もあります。)そして、簗田政綱が加賀国への転任後は、「織田信照」、「川口宗勝」と城主が変わり、川口宗勝が関ヶ原の合戦の際西軍に属した為、戦後捕らえられ、伊達政宗預かりとなり、沓掛城は接収され廃城となっています。

沓掛城周辺の史跡等

普照山慈光寺

簗田政綱が沓掛城を拝領した後に、簗田政綱の家臣である「槇野浄馬」が桶狭間の合戦での戦死者を弔うために建立した庚申堂が起源とされる寺院になります。

平野山聖應寺

簗田正綱ゆかりの寺院。境内には築田正綱のものと伝えられる墓石があります。そして、正綱の長子である簗田広正が現在の曹洞宗に改宗させています。

高圃城(薬師ヶ根城)

沓掛城の支城。
今川氏から沓掛城主として「浅井政敏」が駿府より派遣されたため、元の城主である「近藤景春」が移った城です。

沓掛諏訪神社

沓掛城内に鎮守社として鎮座していた神社になります。沓掛城廃城後もこの地域の鎮守社として祀られ、宝永二年(1705年)に、現在の鎮座地に遷座されたそうです。

玉松山祐福寺

沓掛城主だった近藤氏の本家筋になる小野田氏が建立した浄土宗の寺院。今川義元が沓掛城に入城した際、宿坊となったと伝えられているそうです。

鳴海城

名古屋市緑区鳴海にあった城。
織田信秀の配下「山口教継」が城主を勤めていた城。元々山口氏は、現在の笠寺周辺を治めていた豪族だったようです。何時頃か織田信秀の配下となり、今川氏との間の尾張・三河で起こった戦(小豆坂の戦いなど)で戦功をあげ、信秀の信任を得て「鳴海城」を拝領したようです。

織田氏の三河侵攻の拠点だった「安祥城」を天文十八年(1549年)に今川氏に奪われ、さらに織田信秀が天文二十年(1551年)に死去し、家督を継いだ「織田信長」とその弟「織田信行」との間で織田家の跡目争いが勃発します。そんな状況を見ていた「山口教継」は、天文二十一年(1552年)織田信長を見限り、今川義元側に付くことを決断します。

今川方についた山口教継は、「大高城」、「沓掛城」を相次いで調略を用いて今川方に寝返らせます。しかし、外様である山口教継を対織田家の最前線を任せるには不安を感じていた今川義元により鳴海城主は「岡部元信」に変更されます。しばらくして、山口教継は一説には信長の計略とも言われていますが、信長との内通を疑われ切腹させられています。

織田信長は、弟「信行」との間の跡目争いに決着をつけ、徐々に旧山口教継の領地であった「寺部城」、「桜中村城」などを次々を落としていきます。そして「鳴海城」が織田家と今川家による領土争いの最前線となってしまいます。

そして、信長は鳴海城を兵糧攻め&孤立化させる為、「丹下砦」、「善照寺砦」、「中嶋砦」を構築しています。今川義元が大軍を自ら率いて尾張国に進出してきたのも、この孤立化した鳴海城を救出し、尾張国への進出を確かなものにする為だという学説もあります。親の信秀の時代から長年抗争を繰り広げていた織田家との戦いに決着をつけるべく進軍したといっても過言ではないのではないでしょうか。

[ad]

桶狭間の戦い」において今川義元が討ち取られ、今川本隊が総崩れになり敗走しているなか、鳴海城主「岡部元信」の元にも義元討ち死にの報が届きます。ここで確認しておかねばならないのが、今川義元が討たれ総崩れになってしまったのは、駿府から義元自らが率いてきた義元本隊の軍勢であり、鳴海城の軍勢は全くの無傷であり、最前線であった事もありかなりの軍勢が健在だったと考えられ、織田信長との交渉により、鳴海城を明け渡す代わりに戦わずに撤退をしたようです。

岡部元信が鳴海城を開城するまでには他説もあるようで、鳴海城をなかなか落とせない信長は、「主君であった今川義元の首を今川方に返す」という条件で鳴海城の開城を迫ります。岡部元信はこの条件を飲んだ為、信長は須ヶ口で晒し首となっていた義元の首を丁寧に棺に入れ岡部元信に引き渡します。義元の首を受け取った岡部元信は棺を輿に乗せて鳴海城を出立し、織田軍の軍勢の中を戦わずに進んでいき三河方面に軍を進めたと言います。
色々Google先生で検索していると、こちらの説をとっていらっしゃるサイトが多いようですね。Wikipediaでもこちらの説が記載されていました。


また、今川義元の首についても、「信長公記」では、義元の首級は、首実検の後、「十人の僧衆を仕立てて義元の首を同朋に持たせて駿河に送り返した。」とあります。そして、「清州から南にある「須ヶ口」から熱田神宮に向かう街道に義元塚を築かせ、弔いの為に千部経を読ませ卒塔婆を建てた。」と続いています。

西尾市にある「東向寺」にはこんな寺伝が残っている様です。
織田信長との交渉により主君義元の首級を取り戻した岡部元信は、義元の首が入った棺を輿に乗せて鳴海城を後にしたと言われています。そして退却の中、刈谷城を攻め落とし「水野信近」を打ち取り、吉良経由で駿府に戻るところでした。しかし、初夏に差し掛かっている機構の中、首級のいたみが激しくなり、途中縁故ある東向寺に立ち寄って、塚を築き、首を埋葬した。この時、2名の武将が当地に留まって墓守となったが、そのうちの1名は名を今村某といい、今村家は当寺の大檀那として昭和まで続いた。

真偽は解りませんが、東向寺には「今川義元の首塚」があります。この首塚もある意味桶狭間関連の史跡と呼べるかもしれません。

織田方に戻ってきた鳴海城は、織田家筆頭家臣でもあり、鳴海城を包囲するために築かれた「善照寺砦」を守備してきた「佐久間信盛」が拝領しています。その後、天正年間に廃城となったと言われています。

鳴海城周辺の史跡等

丹下砦

鳴海城を包囲するために永禄二年に築かれた三砦の一つ。水野家の「水野帯刀忠光」が客将として配属されています。

善照寺砦

鳴海城を包囲するために永禄二年に築かれた三砦の一つ。 織田家家老筆頭格「佐久間信盛」が配属されています。

中嶋砦

鳴海城を包囲するために永禄二年に築かれた三砦の一つ。水野家の「梶川高秀」が客将として配属されています。

桜中村城

山口教継が信長の戦いの際、鳴海城は息子に任せて、こちらを本城としています。信長が奪還後は、そのまま廃城となった様です。

寺部城

山口教継と同じ山口一門に属しつつも、今川方への寝返りをせず、織田方に忠誠をつくした「山口重俊」の居城。

星崎城

花井三河守正勝」の居城。山口教継に従い、今川方に寝返った為、信長により攻め落とされ「岡田直教」が城主となる。

成海神社

延喜式にも記載され、日本武尊を主祭神とする神社。鳴海城の築城の際、現在の鎮座地に遷座されています。

東福院

鳴海城の材木を使用した山門がある真言宗智山派の寺院。

大高城

名古屋市緑区大高町にあった城。

詳細は不明ですが、緒川城を本城とする水野家の支城であり、水野一族のは水野為善近守-大善忠守が城主だったとされます。鳴海城主だった山口教継が今川方に寝返った上、調略により大高城を落とし今川方の武将が城主として任ぜられています。

永禄二年(1559年)、大高城を囲むように織田方が砦を築き始めると、城主として「朝比奈輝勝」が入城しています。そしてその後、「鵜殿長照」が包囲網を突破して援軍として大高城に入城しそのまま城主っています。

しかし、その後織田氏による包囲網がより厳しくなり、兵糧が尽きかけ、大高城に生える草木までもを食べて飢えをしのいでいたと言われています。

そんな兵糧に苦しんでいた最中の永禄三年五月十八日深夜、今川義元の西方軍の第一陣「松平元康」が大高城の包囲網を突破して兵糧入れを成功させます。これが夜に名高い「松平元康の大高城兵糧入れ」になります。
元康はわずかな休憩の後、丸根砦を攻め込むため大高城を出陣しています。そして、丸根城を攻め落とし、砦主であった「佐久間大学」を打ち取っています。丸根砦制圧の一報が義元の元に届けられると、義元は大いに喜び、元康を大高城主に任じています。

桶狭間において今川義元が討ち死にした一報は大高城を守っていた「松平元康」の元にも届けられます。(一説には、元康の叔父にあたる「水野信元」が甥を助けるために、岡崎まで配下を付けて落延びさせたといいます。)空城になった大高城にはいち早く「水野信元」が兵を送り取り戻しています。

ただ、その後大高城はどうなったのか資料が乏しくよくわかっていない様ですが、玄和二年(1616年)尾張藩家老の志水家が、大高城址に館を設けてから代々住むようになったそうです。
この志水家により知多四国霊場八十七番「鷲頭山長寿寺が再建される事になります。

大高城周辺の史跡等

鷲津砦

大高城を包囲するために永禄二年に築かれた四砦の一つ。「織田秀敏、「飯尾定宗、「飯尾尚清が配属されるが、朝比奈泰朝に攻め落とされる。

丸根砦

大高城を包囲するために永禄二年に築かれた四砦の一つ。 「佐久間大学」が配属されるが、松平元康によって攻め落とされる。

正光寺砦

大高城を包囲するために永禄二年に築かれた四砦の一つであるが、信長公記には登場せず実在したのか確証が得られていない砦。

氷上砦

大高城を包囲するために永禄二年に築かれた四砦の一つであるが、信長公記には登場せず実在したのか確証が得られていない砦。

大高山春江院

大高城主だった「水野大善忠守」によって父である近守の菩提を弔うために弘治二年(1556年)建立された曹洞宗の寺院。

氷上姉子神社

熱田神宮の境外摂社。
氷上砦は、氷上姉子神社の境内にある氷上山に築かれたと言われています。

八幡社

大高町町屋川に鎮座する八幡社。元々大高城の鎮守として勧請された。町屋川の八幡社は領民が参拝できるようにと分祀された八幡社になります。

今川義元最後の地はどちらの桶狭間?

第一陣「松平元康」、第二陣「朝比奈泰朝」が沓掛城を深夜出立した後、永禄三年五月十九日、いよいよ今川義元率いる本隊が沓掛城を出立します。前日までの自らの領地の行軍と一転して、今日からは織田の勢力圏に攻め込んでいく訳ですので、これまでとは異なり、今川本隊も戦に供えて散開した陣形を取っていたはずです。義元率いる本隊が桶狭間に差し掛かるころには、松平元康の丸根砦制圧、朝比奈泰朝の鷲津砦制圧の知らせが届き、義元はかなり上機嫌だったことが伺い知れます。

織田の勢力圏に攻め込んでいる本隊とはいえ、義元がいる本陣は本隊の後方に位置する場所にあったはずで、普通で考えれば敵兵が現れる場所ではなかったのではないかと思う訳です。

地元の人々から酒の差し入れがあり、その酒を飲んでいる最中に信長軍の奇襲を受け、義元は討ち死にしたと言われていますが、問題が義元がどんな場所に本陣を置いたかなんです。

自分が小さかった頃には、「三方が山に囲まれた谷の様な所に本陣を置き、雨音で気配を消すことができた信長軍が山を一斉に駆け下りて義元本陣に攻め込んだ。」とされていました。まさに奇襲戦の戦いですよね。

ただ、これが色々な史料を発見されたり、見直しを行っていく内に、現在の主流のとらえ方では、ガラッと様子が変わっている様なのです。

おけはざま山」に本陣を構えた今川義元に対し、雹交じりの雨の中、中島砦から一気に義元本隊の側面に進軍した織田軍は、雨が止むと同時に一気に「おけはざま山」を駆け上り今川義元がいる本陣に突撃を行った。

 従来言われていた谷の様な地形ではなく、今川義元は「おけはざま山」という周囲では一番高い丘に本陣を構えていたとされます。大将がいる本陣は基本周囲より高い丘に置かれるのが通常ですので、こちらの説のが説得力はあるかと思います。
 で、対する織田信長率いる軍勢は、中島砦を出ると、雹交じりの雨の中、一気に駆け抜け今川義元の本陣がある「おけはざま山」の北側に布陣したとされます。この信長が布陣した場所は、義元本隊前軍「松井宗信」「井伊直盛」らの後方に位置し、まさに今川義元本隊の側面を突いた形になります。
 そして雹交じりの雨があがると、織田軍は一気に坂を駆け上がり、おけはざま山の山頂に布陣している義元本陣に対して一斉突撃をかけたようです。よく今川義元軍二万五千とか三万五千とかいわれていますが、義元の周囲にそんなにいる訳ではなく、義元本隊は多くて五千人規模だったと思われ、さらに本陣に配属している兵数は千五百から二千程度ではなかったかと思います。信長が率いている軍勢も二千程度と言われているので、まさに二千人vs二千人のガチンコの戦いが繰り広げられた事になりますね。
 ただ、方や攻め込む気十二分でやってきた織田軍に対し、まさかここに織田軍が現れるなんて100%思っていない義元軍・・・どちらが勝つなんて結果を見るまでもないですよね。そして、後方にある本陣方面で戦いの音を聞いた前軍である「松井宗信」「井伊直盛」らは、急遽軍勢を反転させ本陣方面に向かいますが、浮足立っている今川軍は待ち伏せをしている織田軍に適うことなく、 「松井宗信」「井伊直盛」の両将も打ち取られてしまいます。その後、織田軍はまだ電光石火の如く桶狭間を後にし清州城に戻ったと言います。

 現在、愛知県豊明市と愛知県名古屋市の両市が「我が市こと桶狭間古戦場の地」であると表明して、様々な活動を行っています。
 豊明市は昭和十三年に当時の文部省より「桶狭間古戦場伝説地」の指定を受けており、今川義元の本陣跡とされる場所は数多くあれど、ここが唯一国指定史跡であるとしています。ただ、桶狭間古戦場伝説地は、従来から唱えられていた奇襲戦に基づいているはずで、実際現地に建ってみると、谷の様な場所になっています。
 対する名古屋市の桶狭間古戦場の地としている場所は、おけはざま山と呼ばれる山に今川義元の本陣があり、その周囲で激戦が行われたとしており、義元本陣跡近くに「桶狭間古戦場公園」が整備されています。

あなたは奇襲戦と正面戦のどちらの桶狭間の合戦を支持しますか?

桶狭間古戦場の史跡

名古屋市

桶狭間古戦場公園

今川義元が討ち取られた伝承地の作られた史跡公園。公園内には今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板の他に、義元と信長の銅像などがあります。

高根山

義元本隊の前軍「松井宗信」「井伊直盛」が布陣していた場所になります。前方には鳴海城とそれを囲む砦が一望する事が出来ます。

釜ヶ谷

織田信長が今川義元の本陣脇に進軍し、雹交じりの雨が止むのを待っていた場所と言われています。雨が止むやいなや、本陣に向けて突撃を仕掛けたそうです。

桶狭間神明社

義元の家臣「瀬名氏俊」が、神明社を訪れ、戦勝祈願した時に奉納した酒桶が現在も残っています。

瀬名氏俊陣地址

今川義元本隊の先発隊として、おけはざま山に本陣を設営する為に、「瀬名氏俊」が布陣していた場所。本陣設営後は大高城に向かった為、桶狭間の戦いには参加していません。

長福寺

桶狭間の戦いの後、織田信長が首実検をした場所。義元の首を確認した義元の茶坊主「林阿弥」は主君義元や戦死者の菩提を弔う為、後日長福寺を訪れ、現在の長福寺の本尊になる阿弥陀如来像を治めたそうです。

豊明市

桶狭間古戦場伝説地

昭和十三年、文部省が認定した「桶狭間古戦場伝説地」の碑が建っています。義元が討ち取られたという場所になり、義元の墓があります。

戦人塚

曹源寺の住職が桶狭間の戦いの戦死者を弔うために現在までの450年以上にわたって供養を続けている塚です。

他の地域にある桶狭間の戦いの史跡

清州城

桶狭間の戦いが起こった時の織田信長の居城。
桶狭間の戦いのとき、今川方が鷲津砦、丸根砦への攻撃を始めたという一報を聞いた織田信長が、敦盛を舞い、立ったまま茶づけを食べ、鎧を着装し、僅か五騎の手勢を引き連れて熱田神宮に向かって出陣したんだとか。

須ヶ口の今川塚

桶狭間の戦いの後、清州城の南にある須ヶ口の地に、今川義元を弔うために、千日経と共に卒塔婆を据えたという塚になります。元々あった場所から移転され、現在では「大桂山正覚寺」にあります。

今川義元の胴塚

愛知県豊川市にある牛頭山大聖寺には、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の本隊が戦地よりなんとか運び出した主君「今川義元」の遺骸(胴体)を埋葬したという胴塚があります。
五月十九日という初夏の頃なので、気温も高く遺体の損傷(腐敗)の進行が進んでしまい、駿府迄届ける事が出来ず、やむを得ずこの地に埋葬したそうです。しかし、ここに埋葬した事がわかってしまうと、撤退した後に織田方や敵対する豪族などに掘り起こされてしまう可能性がある為、自分たちだけがわかる目印という事で、手水の水盤を横にして埋葬した場所の上に置いたそうです。
桶狭間の合戦から三年後には、今川氏真が訪れ、三回忌を執り行ったんだとか。

今川義元の首塚

愛知県西尾市にある石峰山東向寺には、鳴海城の開城の引き換えに今川義元の首を受け取った「岡部元信」がこの地にその主君「今川義元の首」を埋葬したという首塚があります。
一般的には、岡部元信は義元の首を駿府まで持ち帰り、天沢寺(明治二十四年廃寺:現在跡地には冨春院が建立されています。)に墓を作り埋葬したとされています。しかし、胴塚の所でも述べていますが、桶狭間の戦いのあった頃は初夏であり気温が高くなっており遺体の損傷が早く進む時期になってきています。さらに、鳴海城を明け渡して首を受け取り、更に帰路の途中で刈谷城を攻め落としている訳で、この時点でかなりな日数が経過しているはずなんです。さすがに死化粧が施されているとはいえ損傷というより腐敗しているのではないでしょうか。

桶狭間の戦いのそのあと

元々「桶狭間の戦い」が行われた場所が一般的に認識では織田信長の領地で行われたとお思いの方が多いのかな?と思うのですが、実は大高から桶狭間の地は織田家ではなく水野家の領地でした。その為、桶狭間の戦いの後、速やかに大高城を占領したのは水野家であり、今川軍を追討しながら「重原城」「池鯉鮒城」を落としているのも水野家になります。

水野家は織田家についているといっても臣下になっているわけではなく、織水同盟と呼ばれるように独立勢力として存在しています。実際、織田信長と徳川家康の清州同盟が成立したのも水野家の橋渡しがあったからとも言われていますね。

[amazon asin="B004HYGC5M" kw="センゴク外伝 桶狭間戦記全5巻 セット (KCデラックス)"]

2020年1月17日