城跡巡り 知多半島全部盛り紀行

鳴海城(愛知県名古屋市緑区)成海神社の旧境内地

2020年10月6日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 ヤマトタケル所縁の場所として朱鳥元年(686年)に建立された成海神社を遷座させてまで築城された鳴海城の紹介になります。駿河の今川家から見れば、尾張国に作る事ができた橋頭堡ともいえる存在が鳴海城であり、家臣の岡部元信を配置し尾張国の織田信長に対して圧力を加えていきます。

城郭情報

城名鳴海城
所在地愛知県名古屋市緑区鳴海町城地内
築城年応永年間(1394-1428年)
築城主安原宗範
城形式平山城
遺構
規模不明
備考

訪問日:2020年8月26日

沿革、詳細

 室町幕府三代将軍「足利義満」の家臣であった「安原宗範」は鳴海周辺に知行(地頭職)を得たため、この地を納める為、応永年間(1394-1428年)に居館を築くことになります。義満と安原宗範はどういった関係だったのかよく解りませんが、熱田神宮がヤマトタケルに所縁のある神社として朱鳥元年(686年)に建立した十社の内の一社である「成海神社」を北にある乙子山に遷座させてまで、成海神社の旧境内地に居館を築けるだけの権力・財力を持った人物であろうという事がこの事からも見えてきます。
 しかし、ここまでして築いた「鳴海城」ですが、宗範が死去すると誰もこの城を使うことなく廃城となったといいます。「城」と書くとどうしても近代城郭を思い浮かべてしまいますが、この頃の城とは領主の館の周囲に堀や土塁を設けた「館城」だったはずなので、誰も使わなくなるとすぐに朽ちて自然に戻りつつあったんだろうと想像できます。

 その後100年ほど経過した徐々に戦国時代に突入し始めた室町幕府末期、尾張国も他国同様に守護代の力が衰え、豪族たちが勢力を伸ばし始めていました。その中でも「織田信秀」は各地の豪族達を従属化するなど徐々に尾張南部を支配下に納めていくようになります。
 そんな中、松巨島に築かれた「市場城」を居城とした「山口氏」によって鳴海城は整備され再び使用される事となります。室町時代に安原宗範が鳴海城を築いた時代と異なり、時は戦国時代に突入しようかという時代、南からは知多半島を中心に勢力を伸ばす「水野氏」、東からは新鋭勢力である「松平清康」が虎視眈々を尾張国を狙っている時代です。当時の様な館城ではなく、しっかりとした堀や土塁などが築かれたまさに「城」として整備されたのではないかと思います。
 鳴海城の規模がどれくらいだったのかは定かではないですが、後に起こる「桶狭間の合戦」の際、岡部元信が今川軍を率いて籠城し落城することなく織田側と協議によって開城、撤退を行っている事からかなりの数の軍勢がある程度の期間籠城できるだけの規模を有していたはずです。

 山口氏は現在の笠寺観音や富部神社などがある「松巨島」を中心に勢力を拡大していた一族になります。「松巨島」は、伊勢湾に流れ込む天白川の河口に面する場所にあり、十カ所以上の城が築かれていたと言われています。それだけの城が建築された背景には、この松巨島が伊勢湾と天白川を結ぶ海運の一大集積地であったと思われ、この松巨島を拠点とした山口氏は織田信秀も無視できない一大勢力を誇った豪族だったんだと思います。当時の織田信秀も各地の豪族を束ねる立場であり、山口氏も織田信秀を支える豪族衆の一つであり、信秀の家臣ではなかったのかなと思います。で、山口氏は織田信秀軍の中で南方担当だったようです。
 山口氏の最盛期には、松巨島のほぼ全島と対岸となる鳴海一帯を支配下に置いていたようですね。しかし、織田信秀が死去し織田信長が家督を相続すると、その能力に疑問をいだいていた鳴海城主であった「山口教継」は突如織田家を裏切り尾張国に徐々に進出してきていた駿河の「今川義元」に与する事になります。あくまでも山口教継の一族が裏切ったのであって、山口氏の本家筋となる寺部城の「山口重俊」などは織田家側に残り、山口氏は二つに割れてしまうことになります。

 当然裏切った山口教継に対し、織田信長も軍勢を送りますが、元々味方だったことに加え、当然身内である山口氏同士が戦う訳ですから、多少の武力衝突はあった様ですが、その後捕虜の交換などが行われて膠着化していたようです。

 「鳴海城」を巡る動向が急激に変わったのは、鳴海城に今川義元の直臣である「岡部元信」が城主として入城してからになります。それまでのいくら織田家を裏切ったとはいえ顔なじみや身内であった山口教継が城主であった時は、そこまで緊迫感はなかったかのように思いますが、父信秀の時代から長年戦い続けてきた今川家の直臣が城主となると、一気に鳴海城を中心に両軍の間に緊迫感がうまれたのでしょう。岡部信元は鳴海城をさらに改築を行い要塞化したと考えられ、この動きに対抗して織田信長は鳴海城を包囲する「丹下砦/紹介記事」「善照寺砦/紹介記事」「中島砦/紹介記事」を築き包囲網を構築していきます。

 鳴海城の動きを封じ込める為の砦である効果として一番大きいのは、桶狭間の戦いの際、織田信長がとった行動で「熱田神宮→丹下砦→善照寺砦→中島砦→桶狭間」と進軍していっています。当然三砦があったからこういった進路になった訳ですが、砦の防御網がもう少し脆弱であったら、織田信長の軍勢の後に鳴海城の岡部信元の軍勢が出陣して襲い掛かっていた可能性もある訳です。

 桶狭間の戦いが終わり、織田信長は岡部元信に対し鳴海城の開城をするよう交渉に入ります。岡部元信は主君である今川義元の首級を要求し、信長もこれを受け入れ、清州城下の須ヶ口で晒されていたが、首を棺に丁重に納めて、元信の元に送り届けたといいます。元信はこの棺を輿に乗せて、城門を開け、織田軍が見守る中、悠然と駿河方面に向けて進んでいきます。途中、急遽進軍先を刈谷城に変え刈谷水野家が居する「刈谷城」を攻め落とし城主「水野信近」を打ち取り、駿河に戻っていきます。

 桶狭間の戦いが夏に行われた事もあり、さらに須ヶ口で晒されていた今川義元の首はかなり腐敗がすすんでいて、とても駿河まで持ち帰る事ができないと判断した岡部元信は三河国幡豆郡にある「東向寺」の境内の一角に主君義元の首を埋葬し、守役として二名の家臣を残したという伝承があります。

石峰山東向寺

愛知県西尾市駒場町榎木島一一五番地 GoogleMap

  岡部元信が退去した後の鳴海城は織田信長が接収し、善照寺砦の守将であった「佐久間信盛」に与えられています。その後、織田信長が天下布武を掲げて急激に領土を広げていきますが、天正八年(1580年)三月二十五日に織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突き付けられ高野山に追放となるまで、鳴海城は佐久間信盛の所領であったようです。
 その後の城主はだれだったのかは不明ですが、天正末期には廃城となっています。小田原征伐によって北条氏が滅び、徳川家康を関東に移封した為、尾張、三河などは秀吉恩顧の武将が大名として各城に入城しており、尾張は福島正則が清州城を居城し、隣国三河には田中吉政が入り、鳴海城の意義が亡くなってしまった為ではないでしょうか。

訪問記

 名鉄鳴海駅すぐ横を南北に走り、野並方面に抜けていく「鳴海街道」の庚申坂の頂上付近に鎮座する「天神社」の境内が右手に見え、その境内から街道を挟んで反対に伸びていく路地の突き当りに「鳴海城跡公園」があります。天神社から成海城址公園全体が大体の鳴海城の城域となっているようです。

 名前から「鳴海城跡公園」の方がまさに城跡っぽいですが、こちらには城跡を示すようなものがほとんどなく、「天神社」の境内に「鳴海城址」の石碑が建っています。天神社は成海神社の旧境内地に鎮座する神社であるとされ、安原宗範が成海神社を遷座させて鳴海城を築城した後、守護神として成海神社より勧請された神社であると伝えられています。

 天神社の境内に建立された「史蹟鳴海城址」と彫られた石碑になります。地形から考えると、善照寺砦側となる天神社が鎮座しているこの辺りは、主郭(本丸)ではなく、二の丸や三の丸といった感じの場所になるのかなと思います。

 天神社から西に向かって進んでいくと、「鳴海城跡公園」が整備されています。城址公園は全国いたるところにあると思いますが、まったく遺構はなく城跡を感じさせない城址公園はどれくらいあるのでしょうか。

 城跡公園とか古城公園とか遺構が残っておらず抽象的な公園名ではなく、「鳴海城跡公園」としっかりとこの地にあった「鳴海城」をその名に刻んでいる点がいいですね。

 公園の一角に「信長攻路」の金色に輝く案内看板が設置されていました。桶狭間の戦いにゆかりのある史跡に設置されている名古屋市の外郭団体が設置している観光案内の看板ですね。

 全く遺構が残っていないと思っていた「鳴海城」ですが、城門の梁が一本だけ残っている(かも?)という情報をインターネットで調べてたらゲットしたので、その梁を使用している山門があるという「東福院」を参拝し、梁を見に行く事にします。

東福院

愛知県名古屋市緑区鳴海町花井三番地 GoogleMap

寺院名護国山東福寺
所在地愛知県名古屋市緑区鳴海町花井三番地
宗 派真言宗智山派
札 所鳴海宿十一ヶ寺 四番札所

 鳴海城跡公園から北側にたつ「東福院」になります。こちらの薬医門の梁が鳴海城の城門に使われていた部材を使用しているんだとか。東福院がこの地に移り中興された時、廃城となっていた鳴海城の部材を流用して伽藍を建立したと伝えれている様で、元々は鳴海城の部材を使用して作られた山門ですが長い年月が経ち、修復工事を行っていく間に「梁」に使われている部材のみが辛うじて生き残った感じなんでしょうね。

 薬医門の裏側から梁を見ると、丁寧に「鳴海城城門ノ梁」と張り紙されていました。山門に使われているその他の部材と見比べると確かに梁は非常に歴史を感じさせる質感になっています。

地図で所在地を確認

城郭名鳴海城
所在地愛知県名古屋市緑区鳴海町城地内
最寄駅名古屋鉄道 名古屋本線「鳴海駅」徒歩6分

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