城跡巡り

鷲津砦(愛知県名古屋市緑区)大高城包囲"織田方"前哨砦

2020年1月10日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城名 鷲津砦
所在地 愛知県名古屋市緑区大高町城山
築城年 永禄二年(1559年)
築城主 織田信長
城形式 平山城
遺構
規模 東西25メートル、南北27メートル
備考 国指定史跡(昭和十三年指定)

訪問日:2018年12月5日

沿革・詳細

織田信秀が亡くなった後、織田家の家臣であった"鳴海城主"である「山口教継」は、信秀の跡目を継いだ「織田信長」の織田家を継いで行く能力について疑問視しており、遂には織田家を離反し、今川家に寝返っています。その後、「山口教継」は、鳴海城周囲にある織田方の「沓掛城」「大高城」を調略を用いて奪取しています。この「山口教継」の働きにより、今川義元の勢力圏が、それまでの安祥城、知立城周辺から、一気に鳴海、大高まで広がることになります。
織田信長から見れば、親の代からの宿敵ともいえる今川義元の勢力がすぐ目の前まで伸びてきているわけですから、とてつもないプレッシャーを感じていてもおかしくないと思います。

喉元に刀を突き刺された状況の中、信長は、奪取された鳴海城に対し兵を向けますが攻め落とすことができず、強硬手段は止め、鳴海城と大高城の周囲に砦を築き、補給路を断ち兵糧攻めに移るとともに、それぞれの城の間の連絡を絶たせて孤立化させる作戦を進めています。

今回紹介する「鷲津砦」もこの作戦の元、築かれた砦の一つになり、永禄二年(1559年)に築城されています。まさに桶狭間の合戦が起きる1年前ですね。桶狭間の合戦までには鳴海城と大高城を囲む砦は合計七ケ所築かれています。砦名については下記を参照下さい。

鳴海城・・・丹下砦、善照寺砦、中島砦
大高城・・・鷲津砦、丸根砦、正光寺砦、氷上砦

鷲津砦には、守将として「織田秀敏」と「飯尾定宗」「飯尾尚清」父子が置かれています。

鷲津砦と他三砦は大高城を取り囲み、孤立化・兵糧攻めを行っていました。この作戦は、織田信長の想定通り進んでいた様で、大高城内では兵糧が欠乏していたそうです。

当時の大高城代は「鵜殿長照」であり、今川義元の甥にあたり、とても重用された人物になります。こんな前線に一族に準ずる「鵜殿長照」を配置したのは、「苦難に当たっても裏切らない」人物を重要視していたからだと思います。そのおかげか、兵糧が欠乏した後は、城の周囲に生えている草木を食べて凌いでいたと伝えられています。
そんな最中に起きた出来事が・・・・

「松平元康の大高城兵糧入れ」

になります。
大高城を取り囲む織田軍を突破して大高城に兵糧を運び入れるという義元からの命令は非常に困難なことが予定されていましたが、松平元康は自らの手勢1000人のみでこの命令を遂行しています


鵜殿長照は、桶狭間の合戦の後今川家から独立した「松平元康」の三河統一に対抗し、本城である上ノ郷城を巡る戦いで討ち死にしています。

鵜殿長照の供養塔のある正行寺

松平元康は駿府城を出発した今川軍の第一陣として今川義元本隊に先立って尾張国に進み、その後ろを第二陣として進軍していた朝比奈泰能(泰朝)と共に大高城、鳴海城の包囲網の制圧の命を受けていたと思います。
大高城に入った松平元康は丸根砦に攻め込み、ほぼ時を同じくして朝比奈軍が鷲津砦に攻めかかります。この時、「永禄三年五月十九日」未明の事です。

鷲津砦は、前述の通り今川軍第二陣の朝比奈軍の攻撃を受けます。鷲津砦を守る「織田秀敏」は籠城戦を取り今川軍の足止めを行っていますが、鷲津砦は朝比奈軍に落とされ、 「織田秀敏」と「飯尾定宗」は討ち死に、「飯尾尚清」は何とか逃げ延びています。

鷲津砦が落とされた日の午後には桶狭間の合戦が起き、今川軍は撤退し、鳴海城、大高城に入っていた今川方も城を明け渡し三河国方面に撤退しています。大高城が手に入れたため、鷲津砦の戦略意義がなくなり、そのまま破棄されています。

桶狭間の合戦の略図

沓掛城を出発した今川義元は、大高城に向かう為に鎌倉街道を離れて西に進んでいる事がわかります。先陣が大高城を囲む砦を落とした後、大高城に向かう為、今型義元本隊は桶狭間周辺でいわば待機する状態だったのではないでしょうか。

訪問記

鷲津砦跡は現在「鷲津砦公園」として整備されています。鷲津砦公園の正面入り口は知多四国霊場八十七番札所「鷲頭山長寿寺」から県道50号線を100mほど西に進んだ場所にあります。

長寿寺の由緒にもありますが、鷲津砦築城された場所には元々「鷲巣山長祐寺」が建っていましたが、鷲津砦を巡る戦いの中、砦と共に長裕寺も兵火に係り灰燼に帰してしまっています。

公園に入っていくと、中は自然公園の様な感じでした。

こんな感じの自然のままの簡単な山登りの様な感じになっています。山頂に砦が築かれているはずですので、今川軍はこの坂道を攻め登っているんでしょうね。

桶狭間の合戦から450年も経過しているので、自然にできた窪みだとは思うのですが、見方によっては鷲津砦周囲に構築された堀跡の様にも見えてくるので、不思議なものです。

山頂部分には昭和二十八年に設けられた「史跡鷲津砦址」と彫られた石碑が建っています。この石碑の脇には「忠魂碑」も建っています。

鷲津砦址の北側は児童公園が整備されていました。その公園の脇に、名古屋市が設置した鷲津砦の説明板が設けられています。鷲津山と言っていいのかわかりませんが、麓の公園入口を正面と紹介していますので、北側の山頂側は裏側とした方がいいでしょうか。

ストリートビューで紹介するとこんな感じになっています。
鷲津砦址の石碑へはこちらからのが近いのですが、周囲に駐車場が存在せず、またこちらの山頂側は住宅地となっている為、路上駐車も遠慮した方がよいとおもいます。

説明板に取り付けらえていた、何やら金色に光る意匠物。
信長攻路で検索すると専用サイトがHITします。名古屋市はこういった歴史に関する事業に力を入れている様で、桶狭間の合戦に関するサイトも設けられていますね。

所在地を地図で確認

城跡名鷲津砦
所在地愛知県名古屋市緑区大高町鷲津山「鷲津砦公園」
最寄駅JR東海 東海道本線「大高駅」徒歩3分

次の目的地は?

鷲津砦共に大高城の包囲の為に築城された「丸根砦」に向かいます。

桶狭間の戦いの特集記事のご案内

桶狭間の戦いの特集記事を作成しています。沓掛城、鳴海城、大高城、桶狭間古戦場跡の四カ所を中心に関連する史跡などを紹介していますので、こちらのも併せてご覧頂ければ幸いです。

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