波城跡情報
城 名:波城(はじょう)
鎮座地:西尾市吉良町小山田羽城
築城年:永享十二年(1440年)
築城主:松井忠勝
城形式:山城
遺 構:山中に土塁あり
規 模:不明
参拝日:2018年3月14日
沿革・詳細
永享十一年(1439年)、鎌倉から松井忠勝がこの小山田の地に移ってきて、波城を築城し三河松井家が始まったと言われています。そもそも、この小山田の地は、足利尊氏が荒城に在城していたと言われる暦応二年(1339年)に猪子塚新田として干拓された場所になります。
そのころのこの辺りの地形は下の地図の様な感じ。
また、別の説では、二俣城を拠点とする遠江松井氏と系譜を同じくしている事から、今川家の意向もありこの地に移住したとも言われていますが、1516年に今川家と吉良家の領地であった遠江国引馬荘を巡って争っていたりしますし、そもそも守護代が違うので、戦って切り取らない限り他国に城なんて築けないのではと思うんですけどね。
そんな波城が築城されたころは、まだまだ海辺が近く敵が船を使って近づいてきてもかなり前から発見でき、後は山、眼下は海と防衛にはかなり適していた城だったのかなと思います。
松井忠次の登場
この三河松井家の名前が知られるようになったのは、松井忠次の代になってからです。1521年、波城で生まれた忠次ですが、30歳の頃(1551年)起きた後に東条松平家と呼ばれる松平一族の内紛の後処理の際に名前が登場してきます。その頃には、この一帯は今川家の統治下になっており、今川義元から松井忠次に対し東条松平家に寄騎となる様にとの指示書が出ています。
そして、1560年、桶狭間の合戦にて今川義元が戦死してしまいます。ご存知の通り、松平元康は桶狭間の合戦後大樹寺に入り、その後岡崎城を奪取して今川家から独立を果たします。その頃には、東条松平家との外戚関係になっていた忠次も当然松平方に付くわけです。
そして1561年の吉良義昭が守る東条城攻めに突入し、敵味方共に損害を出しながらも、吉良家の降伏を持って鎌倉時代から続いてきた領主としての吉良家は滅亡します。そして、三河一向一揆の時、吉良義昭が再び東条城に籠り家康と対峙しますが、再び破れ、東条城には松平家忠が入城し東条松平家が正式にはここから始まる訳です。
その後も忠次は家忠に仕え、家忠共に各地を転戦します。家忠死後、家康は息子の忠吉を養子として送り込み東条松平家を存続させます。この忠吉の後見として忠次は再び任ぜられていきます。
その頃には、忠次は家康より松平性を与えられ、松平康親と称していていたとか。
息子の康重も功を重ねていき、家康の関東移封後、譜代大名として存続していきます。ちなみに子孫も代々松平性を称していたそうですが、明治維新後松井性に戻したそうです。
訪問記
現在では、遺構はほぼ残っておらず、竹林が広がる丘陵地帯となっています。
中央に移っている常夜燈の奥側に波城があったと推定されます。ここなら南側は新田開発によって作られた場所でまさに平野が広がっています。
・松井家菩提寺
正龍寺
・小山田地区鎮守の社
神明社