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善照寺砦址(愛知県名古屋市緑区)鳴海城包囲”織田側”前哨砦

2020年10月3日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 今川義元側に寝返った「鳴海城」を包囲する為に構築された砦の一つ「善照寺砦」になります。地形的に鳴海城より高い位置に築かれた砦であり鳴海城の包囲網の中心と思われます。佐久間信盛が守将として命じられている所からも重要な砦であることを窺う事ができます。

城郭情報

城名善照寺砦
所在地愛知県名古屋市緑区鳴海町砦地内
築城年永禄二年(1559年)
築城主織田信長
城形式平山城
遺構
規模東西二十四間(43m)南北十六間(29m)
備考

訪問日:2020年8月26日

沿革・詳細

 前回紹介した「中島砦/紹介記事」と共に鳴海城包囲網の一翼を担う「善照寺砦」の紹介です。
 善照寺砦が築かれたのは永禄二年(1559年)とされ、織田信長と今川義元が対決した「桶狭間の合戦」の一年前になります。元々信長の家臣であった鳴海城主「山口教継」は突如今川義元側に寝返ってしまいます。今川家の勢力圏に組み込まれた「鳴海城」には今川家家臣である「岡部五郎兵衛元信」が城主として入城するなど、年々今川家の圧力が強まっていた事は容易に想像できます。そんな中、いわば今川家の最前線となる「鳴海城」を包囲するかのように織田信長は砦が築き、その一つが「善照寺砦」になる訳です。

 桶狭間の合戦の際には、熱田神宮で戦勝祈願をした織田信長は今川家から見つからないルートで善照寺砦に入城したとされます。そしてその後、善照寺砦がある山の麓に築かれた「中島砦」に向かって信長が移動をした後、旗を掲げて砦に信長本隊が留まったままの様に見せかけていたと言われています。

 桶狭間の戦いと言えば、一昔前まで織田信長による奇襲戦であると言われてきましたが、近年では奇襲戦ではなく正面衝突戦だったと言われるようになってきました。ただ、桶狭間周辺は木々が生い茂った丘陵地帯であり、今川軍の大軍という数の利を生かさせないような場所で織田信長は今川軍に突撃したといえます。

訪問記

 中島砦場所から善照寺砦の間はかなりの高低差があり、桶狭間の戦いの永禄三年当時、周囲は木々が生い茂っていたと思いますが、この砦から桶狭間山方面を一望でき、今川軍の進行具合を確認できた場所だったと思われます。逆を言えば今川軍からもこの善照寺砦の動きを確認する事が出来た為、今川義元も善照寺砦に織田信長が入城した事は気付いていたかもしれませんね。

 手前の木々が邪魔ですが遠くに桶狭間を望むことができます。信長もここから今川軍の動向を確認していたんでしょうね。

 現在はその名もずばりな「砦公園」として整備されていますが、公園内の階段などを見ても、かなり高低差があった砦だったんだなと思わせてくれます。

 遺構などはまったくなく、さらに石碑も建立されておらず、名古屋市教育委員会による善照寺砦跡の説明板がここが善照寺砦であったことを示しています。

 鳴海絞開祖の三浦玄忠(豊後高田藩竹中候の侍医)夫人の碑です。現在では「有松・鳴海絞」として国の伝統工芸品に指定された絞り染めの織物なのですが、本家や元祖を「知多郡の有松」、「愛知郡の鳴海」として共に競っていたそうです。
 有松・鳴海絞については、有松駅近くにある有松・鳴海絞会館が昭和五十九年(1984年)に完成しその歴史が紹介されています。

地図で所在地を確認

城郭名善照寺砦
所在地愛知県名古屋市緑区鳴海町砦三番地
最寄駅名古屋鉄道 名古屋本線「鳴海駅」徒歩11分

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