城跡巡り

丸根砦(名古屋市緑区大高町)大高城包囲”織田方”前哨砦

2020年1月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城名丸根砦
所在地愛知県名古屋市緑区大高町丸根
築城年永禄二年(1559年)
築城主織田信長
城形式平山城
遺構
規模東西36メートル、南北28メートル
備考国指定史跡(昭和十三年指定)

訪問日:2018年12月5日

沿革・詳細

 永禄元年は、織田信長が弟である「織田信行(信勝)」との跡目争いに勝利し、更に翌年の永禄二年には岩倉城を落としたことで、尾張国(知多半島を除)の大半を支配する事になります。美濃国の斉藤氏の動向が気にかかるものの、ようやく今川家の尾張国侵略に対抗する事ができる環境が整った事になります。
 そんな、織田信長の勢力が拡大していくまさにそんな中の永禄元年(1558年)、鳴海城主だった「山口教継」の調略によって、織田方の水野家の支城だった「大高城」が今川家の手に落ちてしまいます。
 鳴海城、大高城は共に知多半島でも伊勢湾に面している城であり、今川家としては、今まで伊勢湾に進出する為には、渥美半島の田原辺りから出港し、知多半島の師崎を廻る海路しかなかったのですが、鳴海城、大高城を支配する事で伊勢湾の海運に大きな影響力を得る事になります。一方、今まで津島、宮を中心として伊勢湾の海運を支配する事で莫大な収入を得ていた織田家から見れば看過できない事態であると言えます。

 そこで、信長は鳴海城、大高城を封鎖するために、永禄二年(1559年)にそれぞれの城に砦を設け、監視、兵糧攻めを行っています。今回紹介する「丸根砦」もこの時に作られた砦であり、砦主は「佐久間大学盛重」になります。

永禄二年(1559年)に設けられた砦
・鳴海城・・・丹下砦、善照寺砦、中島砦
・大高城・・・鷲津砦、丸根砦、正光寺砦、氷上砦

 「丸根砦」は同時造られた「鷲津砦」と共に、大高城を封鎖すると共に、「鳴海城」との連絡を絶つために設けられた砦であり、まさに織田家の対今川家の最前線の砦であり、最重要拠点の一つと考えても良いかと思います。


「鷲津砦」の詳細記事はこちらから


 大高城への兵糧攻めはかなりの効力を発揮していた様で、大高城の城兵たちは城主「鵜殿長照」の指揮の下、城周囲の草木までも食べて飢えをしのいでいたと言われています。そんな状況の中の永禄三年五月十二日、「今川義元」率いる大軍が駿府城を発ち、鎌倉街道を西に進軍を開始したという情報が届きます。
 五月十七日には先軍である「松平元康」が沓掛城に入城、その翌日、「今川義元」率いる本隊が沓掛城に入ります。沓掛城では軍議が開かれ、大高城に兵糧入れを「松平元康」が行う事が決定されます。そして、五月十八日の深夜、有名な「大高城への兵糧入れ」を成功させます。この時、松平元康、十九歳。

 そして、松平元康率いる軍勢は「丸根砦」を落とすべく砦を囲みます。この時、時間稼ぎの為に籠城をすると考えていた元康の思考を打ち砕く様に「佐久間大学盛重」は砦から一気呵成に飛び出し元康軍に攻め込んだと言われています。一説には「松平元康軍」千人に対し「丸根砦」は四百人という少数にも関わらず、松平軍を一時はかなり追い込んだそうです。

 しかし、最終的には「佐久間大学盛重」も打ち取られ、丸根砦は陥落してしまいます。少し遅れてすぐ隣にある「鷲津砦」も陥落し、今川軍は目標の一つである「大高城」の開放に成功しています。義元は、この知らせに大いに喜び、「松平元康に大高城を与える」と言ったとか。実際、桶狭間の戦いが起きた時、松平元康軍は大高城に入城して休息を取っていたようです。

 桶狭間の戦いにおいて、今川義元の打ち取られ、今川軍が敗走する中、遅れて義元討ち死にの知らせが大高城に届き、松平元康は遅れて大高城を立ち、岡崎の大樹寺に向かっています。
 そして、空城になった大高城は、緒川城の「水野信元」がすぐに一門である「水野元氏」を送り奪還に成功しています。そして、大高城を囲んでいた「丸根砦」はそのまま破棄されています。

桶狭間の戦いの略図

訪問記

「丸根砦址」は、前回紹介した「鷲津砦址」から700mほどの距離しか離れておらず、十分徒歩で向かう事ができます。所要時間は大体10分ほどでしょうか。
丸根砦址の入口には、名古屋市緑区が設置した「史跡散策路」の「丸根砦址」の標識が設けられているので、通り過ぎる事はないかと思いますが、それ以外に道沿いに丸根砦跡を示すものはないので少し注意が必要かも。

丸根砦址にも何らかの遺構が特段あるわけではないのですが、中央は小高くなって写真の様に会談で上がってく感じになっていて、ここが丸根砦の中心部だったことがわかります。現在は木々が生い茂っている為、まったく遠くを見通すことができないのですが、丸根砦が現役だった1560年は大高城を見渡せる場所だったんだろうと思います。

先ほどの階段を上っていくと、山頂部分には、「丸根砦戦殉難列志之碑」が設けられています。今でも桶狭間の戦い、丸根砦を巡る戦いの歴史が続いているんだなと実感します。

昭和二十六年に据えられた「史跡丸根砦」と彫られた石碑になります。

そういえば、自分が小学生四年の頃、自由研究で「大高城」、「鷲津砦」、そして「丸根砦」を訪れているんですよね。自由研究の内容は「徳川家康」について。親父に頼んで連れてきてもらったのですが、自分のかすかな記憶に、ここ「丸根砦」の場所がわからず、近所に住んでいる方に尋ねてこの場所に行きついた事がありました。
 道路地図だけであちこちの史跡を訪れていたのを思い出します。まだまだ昭和の時代・・・。今の様にさっとスマホで詳細な地図を確認なんてできないので、大まかな住宅地図で近くまで行って、そこから"感"をたよりに史跡を巡っていた事を思い出します。それでも辿り付けなかったら、歩いている人に声をかけて場所を教えてもらっていた訳ですが・・。それこそ、現在では下手に場所を聞こうと声をかけると不審者扱いされる恐れがあるので、おいそれと道も聞けないご時世になっていまっていますね・・・。

というか、小学生の事やっていた事と、現在このブログを運営している事・・・やっている事が変わらないというこの事実・・・・。老けた子供だったのか、成長しない大人なのか・・・

丸根砦にも鷲津砦と同じステンレス?・・・アルミ?製の案内看板が設置されていました。さらに足元にはこれまた同じように「信長攻略」の金色の丸印がつけられていました。

https://nobunaga-kouro.nagoya/index.html

http://www.nagoya-info.jp/nobunaga/okehazama/

地図で所在地を確認

城跡名丸根砦
所在地愛知県名古屋市緑区大高町丸根十六
最寄駅JR東海 東海道本線「大高駅」徒歩11分

次の目的地は?

2020年企画"桶狭間の戦い"の地へ

鷲津砦と共に監視・封鎖していた「大高城」を訪れていきたいと思います。

知多半島を行く

丸根砦を後にして、長寿寺に戻る道中に発見した「山神社」を参拝していこうと思います。

桶狭間の戦いの特集記事のご案内

桶狭間の戦いの特集記事を作成しています。沓掛城、鳴海城、大高城、桶狭間古戦場跡の四カ所を中心に関連する史跡などを紹介していますので、こちらのも併せてご覧頂ければ幸いです。

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