神々の伝承

仁徳天皇(大雀命)

2018年10月2日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

仁徳天皇とは

第十六代天皇で、在位帰還は87年(仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)と言われています。

先代十五代天皇だる応仁天皇の第四皇子ともいわれる。異母弟である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と皇位を譲り合い、菟道稚郎子が病死してしまった為、皇位に付いたと古事記には記されています。

その後、都を難波に定め、現在の大阪の治水事業を推し進めていきます。そして、仁徳天皇を聖帝と呼ばれる様になる出来事がおこります。

ここに天皇、高き山に登り四方の国を見て詔らししく、「国中に烟發たず。国みな貧窮し。かれ、今より三年に至るまでにことごと人民の課役を除せ。」
ここをもちて大殿破れ壞れてことどと雨漏れども、かつてつくろひたまはず。椷もちてその漏る雨を受け、漏らざぬ処に遷り避りましき。後に国中を見たまへば、国に烟滿ちき。かれ、人民富めりとして、今はと課役を科せたまひき。ここをもちて、百姓榮えて、役使に苦しびざりき。かれ、その御世を称えて、聖の帝の世とまをす。

「古事記」下つ巻より

仁徳天皇が高い山に登り四方を見渡した時、「竈の煙が家々から立ち上っておらず、これは民が困窮しているに違いない。是より3年は課役を免除しよう。」
その為、天皇の住む大殿が破れ壞れ様とも、さらに屋根の修理も行わなかったので、至る処で雨漏りが発生していました。そこで、雨の日は、箱で漏る雨を受け、雨漏りがしていないところに避難していました。
そんな宮廷も緊縮財政を敷いて三年、再び国中を見渡すと、竈の煙が至る処から立ち上っていました。その風景をみて、人民が豊かになったな、と判断し今度は課役を科しています。豊かになっていた百姓、課役に苦しまなくなりました。この治世から、仁徳天皇の時代を讃えて聖帝(ヒジリミカド)の世と言います。


仁徳天皇より以前、神代の時代より日本は基本末子相続という考えが基本でした。

ですので、末子である菟道稚郎子が皇位を継ぐのが当たり前であるとされるはずなのですが、末子である菟道稚郎子とその兄である大雀命が皇位を譲り合っています。そして、その最中、菟道稚郎子は病死してしまい(日本書紀では自害とされています。)兄である大雀命が仁徳天皇といて即位します。

末子相続の考えは、狩猟生活が主たる世界で発生する考えで、兄弟がいると兄は当然弟よりも早く独立し自分で狩猟し生活していく事になります。それに対し弟は一番最後まで親と生活を一にしていく訳で、自然に家という物を継ぐとなると、最後まで生活を一にしている末子である者が家を継ぐのが一番理にかなっている事になります。

これが、狩猟生活から徐々に農耕社会へと変貌していくと、今までの考えではうまくいかなくなっていきます。兄弟は独立して新たに開墾して田畑を作り独立していくというより、親が行っている農耕を手伝っていく形になっていく訳です。そうなると弟が家を継ぐというより兄弟全員で家を継ぐ・・・(田畑を兄弟で分けていく)・・・という考えに移り変わっていきます。最終的には兄弟で分配するとどんどん田畑の面積が小さくなってしまうので長子相続という考えに移っていきます。

仁徳天皇が即位していた時代が、4世紀~5世紀頃だと推定されています。その頃は弥生時代から古墳時代と呼ばれる時代に替わっていく最中だと思います。そして中国などからの文化の流入もあって、日本で行われていた末子相続から徐々に相続の考えが変わっていく過渡期の出来事を書かれているんだと思います。

まあ、古事記には、仁徳天皇の兄である大山守皇子がいて、皇位を簒奪しようと反乱を起こします。しかし、大雀命と菟道稚郎子によって鎮圧されるという事も古事記には書かれています。

末子相続に反対する兄の姿も描かれており、その当時から権力や富などを巡って兄弟争いがあったことがわかります。

仁徳天皇千五百年大祭

明治三十二年(1899年)、大阪府が仁徳天皇千五百年大祭を仁徳天皇を祭神とする"高津宮"と"難波神社"で行っています。

高津宮(阪府大阪市中央区高津)

貞観八年(866年)、時の五十六代清和天皇の勅命によって、仁徳天皇の遷都した"難波高津宮"跡の探索を行い、その推定地に建立したのが"高津宮(こうつぐう)"になります。その後、豊臣秀吉が大阪城を建設する際に、現在の地に遷座しています。

難波神社(大阪府大阪市中央区博労町)

仁徳天皇の第三皇子である十八代反正天皇が反正天皇元年(西暦406年)に、河内国丹比柴籬宮に都を移されたときに、父帝の仁徳天皇を御祭神として河内国丹比に建立された。その後、六十一代朱雀天皇の命で天慶六年(944年)に摂津国大江の板平野周辺に遷座。その後、豊臣秀吉が大阪城を建設する際に、現在の地に遷座しています。


そして、この千五百年大祭の時に作られた"難波高津宮"跡の石碑が大阪府立高津高等学校の校内に建っています。

御神徳

聖帝と称される仁徳天皇は治水事業を行い、貧しい民の為に三年間の使役免除を行うなど、まさに仁政の天皇であると言え、国家安寧や日々の生活の安泰などに御神徳があると言われています。

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