知多四国八十八ヶ所 知多郡武豊町

意竜山 蓮花院(武豊町ヒジリ田) 知多新四国霊場 二十三番札所

2018年12月7日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名意竜山 蓮花院
所在地愛知県知多郡武豊町ヒジリ田二十七番地
御本尊阿弥陀如来
宗 派西山浄土宗
創 建不明
札 所知多四国霊場 二十三番札所
知多百観音 二十六番札所
法然上人霊場 二番札所
御朱印
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参拝日:2018年5月23日

知多四国霊場札所一覧

知多四国霊場公式ホームページのご紹介

由緒・沿革

 「意竜山蓮花院」がある辺りを「ヒジリ田」と呼びます。漢字にすると聖田。武豊町にはこの「ヒジリ田」の地名の由来の二つの伝承されているそうです。

一つ目は、「聖宮の供米田」の伝承

 「ひじりみやのくまいでん」と読むようです。時は鎌倉、執権「北条時宗」の時代。モンゴル帝国の流れを汲む「元」が日本に対し武力行使を行ってきた、いわゆる「元寇」が勃発します。戦場となった九州北部に対し、全国から続々と武士たちが集結したといいます。「長尾城」城主「岩田氏」も家来を連れて九州の地に向かっています。
 二度の元寇も海岸線で上陸を押しとどめている間に「神風」が起こり、元軍は壊滅して撤退しています。
 この戦いを神風の力で切り抜ける事ができたのはまさに「神仏の加護」であると思った岩田氏は、九州の香椎聖宮を勧請し、長尾城の北東の鬼門の地に祀りました。この社が現在の長尾七社の一つ「神宮社」です。そして社の隣の地を供米田とし寄進しました。その供米田は「聖の宮の田」と呼ばれその後「ヒジリ田」と呼ぶようになったとか。

二つ目は、「僧と聖田

 室町時代中期、日本を二分しての争い「応仁の乱」が起きます。何年にも及ぶこの戦乱で日本各地の農村は疲弊を極致にあったと言われています。長尾城下のこの地も例外ではありませんでした。
 そんなある日、ひとりの僧侶がこの地を訪れ草庵を建て、新たな水田を開墾し始めます。この地ではなかった新しい耕作方法によって、土地は肥え、黄金色の首を垂れる稲穂が豊作の水田を見て、この地の農民は歓喜したと言います。
 現在は埋め立てにより海岸線からは離れた場所になったこの地も、昔は海からほど近い場所で、農耕には適さない場所だと思われていたのですが、訪れた僧侶によりもたらされた技術により、海岸線に田園風景が広がったと言われています。そしてその田を「聖田」と呼ぶようになり、いつしか「ヒジリ田」と呼ぶようになったと言います。

 「ヒジリ田」の伝承で「僧侶が草庵を結んだ」と二つ目の伝承で出てきまいした。この草庵こそが、後の「意竜山蓮花院」になります。何時の時代からか詳細は不明ですが、二十一番札所「天龍山常楽寺/紹介記事」の末寺に属していたようで、永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川方の武将として参戦していた「松平元康(後の徳川家康)」は大高城を脱し、「天龍山常楽寺」に逃げ延びたと言われています。この際、蓮花院の住職が元康の馬の手綱を引いたとされ、この由縁により山号を頂き、寺格を得たとされています。

 昭和四十一年四月、失火により本堂をはじめとするすべての建物を焼失。昭和四十五年に弘法堂、六十二年に本堂、客殿が再建されています。

知多四国霊場を行く

 二十二番札所「御嶽山大日寺/参拝記事」から南東に500mほど道なりに進むと今回納経する「意竜山蓮花院」にたどり着きます。

 大日寺から県道269号線を東に、国道247号線と再び合流すると、JR武豊線との踏切が見えてきますので、その手前を右折するとすぐに蓮花院が見えてきます。

 知多四国霊場を行く三日目の旅も、ここ連花院でタイムリミットとなります。ここからですと、岡崎に帰るのに使う「衣浦トンネル」からほど近いですし。また、次回四日目のスタートとなる二十四番札所「慶亀山徳正寺/紹介記事」も衣浦トンネルを使って向かいやすい場所になるので、丁度いい所で帰宅する事にします。

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参拝記

 JR武豊線の踏切の手前を右折すると「蓮花院」が見えていきます。交差点周辺に幟が立っているはずですので、注意してみてください。また、踏切近くの交差点を右折するので、対向車には気を付けてくださいね。

山門

潜り戸の設けられた袖壁が設けられた薬医門の山門になります。
重厚感のある薬医門ですね。

薬医門に掲げられた山号が書かれた扁額になります。

札所案内石柱

寺号標はなかったのですが、新四国二十三番札所を示す石柱が立っていました。
よく見ると、山門前には太鼓橋を模した石畳があったんですね。

手水舎・水盤

観音様が佇んでいる瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。

本堂

こういう造りは何と言ったらいいんですかねえ・・・。
重層の本堂になります。御本尊は二階に安置されていて、一階は檀家の方達が使用される会議室?集会室?になっていました。

右手に移っている階段から二階に上り、御本尊に参拝をします。

なにやら、ここ蓮花院では、御本尊からも紐が伸びている様子です。

紐を握り、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」・・・

参拝を終え、二階からの眺めが良い感じ

晴れていればもっと景色がよかったんでしょうけどねえ・・・残念ながら雨模様・・・

弘法堂

非常に色彩豊かで特徴的な外観をしている弘法堂になります。
本などをよむと、住職のデザインなんだとか?

この弘法堂も重層造りというのですかねえ・・・。
二階に向けられた廻縁は・・・何に使うのかしら?

何故か写真をとってなかったのですが、この弘法堂の正面脇には、張子大師が安置されています。自分の悪い所を紙(見た限りでは納札でした。)で摩り、祈願しながらその紙を大師様に貼り付けると、大師様が身代わりになってくれるんだとか。
前知識もなく張子大師を拝見すると、ちょっと驚いてしまうかもしれませんね。(張子大師の写真はまた機会があった時に撮影させて頂き、追記させて頂きます・・・。)

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

 

御朱印

参拝を終えて

近年建て変えられたコンクリート伽藍になりますね。寺院の本堂という性質上、木造で作り変えるよりコンクリートや鉄骨造りのがひろい空間を生み出せる、また重層化も容易にでき、ここ蓮花院の本堂の様に、一階は会議室、二階に本堂というスペースの有効活用もできるようになるという事で、一時期非常に採用する寺社が多かったですね。

ただ、コンクリートの伽藍の耐久年数って何年ぐらいなんですかねえ・・・。木造伽藍の様にきちんと管理すれば何百年も耐える物なんでしょうか・・・。一説には50年から100年ぐらいが寿命だと言われているらしいですが・・・。

地図で所在地を確認

寺院名意竜山蓮花院
所在地愛知県知多郡武豊町ヒジリ田二十七番地
最寄駅JR東海 武豊線「武豊駅」徒歩6分

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次の目的地は

知多四国巡礼3日目もここ二十三番札所「意竜山 蓮花院」でタイムアップとなりました。次回4日目は、二十四番札所「慶亀山徳正寺/紹介記事」からの巡礼開始となります。

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