城跡巡り

八ツ面城【荒川城】(西尾市八ツ面町)

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城郭詳細

城 名:八ツ面城、荒川城
所在地:愛知県西尾市八ツ面町市場、土井
築城年:不明
築城主:不明
城形式:平城
遺 構:土塁
規 模:ー

訪問日:2019年1月21日

沿革・詳細

荒川氏の居城となっていたのが八ツ面城(荒川城)になります。
承久の乱での功績で足利義氏が三河国の守護職を得ます。そして、足利一門を国内の地頭として領国経営を行っていきます。吉良荘には、西条城を築城し、義氏長子の長氏を地頭職として入城させます。その他、一門である足利実国が仁木郷に移り住み仁木性を名乗ります。更に、実国の弟である足利義季は仁木郷の隣にある細川郷に入り、細川性を名乗ります。

さらに、足利実国の弟「義宗」は戸ヶ崎郷に入り、戸賀崎義宗と称します。そして、義宗の次男である滿氏が隣村である荒河村(現在の西尾市八ツ面町)に入り、荒川性を称するようになります。そして、この荒川滿氏が居城としたのが「荒川城」と伝えられています。

荒川滿氏を祖とする荒川氏は前期荒川氏とされ、足利尊氏に付いて各地を転戦し、その後幕府の中でも実力者として石見国などの守護職を務めています。室町幕府開幕以降の荒川城は場所的に吉良氏の支城として機能していたと思われます。

そして、東条吉良氏の吉良持清の次男である義広が荒川性を名乗ります。この荒川義広から始まる荒川氏を後期荒川氏と呼ぶそうです。この頃になると、西条、東条と分かれていた吉良氏にも統一の機運が高まっていた時期であり、荒川城に東条吉良氏出身の義広が入城しても大きな問題にはならかかったのかなと思われます。

そして永禄三年の桶狭間の合戦後、今川家から独立した松平元康による吉良氏侵攻に対し、当初は反松平氏として吉良氏と共に戦っていた荒川義広ですが、突如松平側に寝返り、荒川城に松平軍を入城させてしまいます。当時、西条城には今川氏の城代が入城していましたが、荒川城に松平軍が進駐したとの情報が入ると、西条城から本国である駿河国に撤退してしまい、松平元康はやすやすと西条城を手中に収めてしまいます。

そして、藤波畷の戦いにて東条城が落城。ついに吉良氏は領土を失ってしまいます。

この一連の吉良戦線の功績で、義広は元康の異母妹である市場姫を娶ることになったのですが、三河一向一揆がおきると、今度は突如松平氏を裏切り一向一揆側に与してしまいます。一向一揆は鎮圧され、義広も荒川城から追放処分となってしまいます。

追放後の義広の動向は不明な点が多いのですが、荒川氏の家臣だった中神氏の寄近屋敷で蟄居したという説や、河内国に逃れ当地で亡くなったという説などがあります。

訪問記

荒川城を示す遺構は、住宅地の中に残る土塁跡と言われている部分のみが一部残るのみで、宅地や学校後に転用されてしまっています。

荒川城は、西尾市立八ツ面小学校が建っている周辺にあったと言われており、周囲の田圃から見てみると、荒川城があったとされる場所は周囲と比べて小高い丘の様になっていて、城を築城するには適した場所なのかなと思います。

が、普通で考えると上記写真でも写っていますが、八ツ面山がすぐ近くにあり、こちらに城を築いた方がいいのでは?と思ってしまいまうのですが、当時、山頂には久麻久神社が鎮座しており、神域となっていた為、築城できなかったのかもしれませんね。

荒川城の土塁跡と呼ばれている場所になります。道路にたいし小高く盛られた土塁跡が続いています。

土塁跡が切られた場所から断面を見ると、確かに土が盛られて壁の様になっていて、土塁跡であると確認できますね。


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