寺院情報
寺院名 | 熊子山 真成寺 |
所在地 | 愛知県西尾市八ツ面町熊子山二十五番地 |
御本尊 | 虚空蔵菩薩 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 永禄五年(1562年) |
札 所 | - |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2018年10月22日
沿革・由緒
西尾町大字八ツ面字熊子山に在り。熊子山と号す。岡崎市明大寺町龍海院の末寺。当寺は永禄五年、八ツ面城主「荒川甲斐守源義広」の開基にして、開山は龍海院二代大通玄倬大和尚なり。当時、荒川義広は深く龍海院三世傳室和尚の道風を慕い、城下に一寺を建立して大通大和尚を招して開山一世とし傳室和尚を第二世と仰ぎたり。その後、久しく平僧相次ぎ寺運漸次衰退に及びしを以て、延宝元年、龍海院現住見龍和尚は長老に命じて中興の住持たらしめたり。この時、岡崎城主水野忠善は深く龍海院方丈に帰依し、護法の念厚かりしを以て其末寺たる当山客殿の大破を聞くに及び、直ちに資を投じて、客殿、本堂を再建したりという。本尊は虚空蔵菩薩。天正十年十月十二日、家康より寺領五石七斗徐の朱印を領して以て明治維新に及べり。
「幡豆郡西尾町誌」より
矢作川紀行
熊味町に鎮座する「久麻久神社」とは隣り合っている感じで鎮座している「熊子山 真成寺」になります。久麻久神社と真成寺が建つ場所は小高い丘の様な感じになっています。隣り合っているのですが、住所は熊味町と八ツ面町と分かれていて、町境に建つ寺社になりますね。
矢作川紀行part.5
真成寺所在地
参拝記
熊味町に鎮座する久麻久神社とは入口が反対の北入りになっている真成寺になります。
この、真成寺境内への参道に繋がる道路なんですが、ここ、実は西尾鉄道の廃線跡になります。
西尾鉄道とは?
東海道本線の岡崎駅と西三河南部の西尾、平坂、吉田といった街を結ぶべく、1916年までにこれらの路線を全通させた。まだまだ日本の鉄道黎明期に敷設された為、軌間762 mmという軽便鉄道としての開業でした。しかし。その後の鉄道の発展からは遅れていき、太平洋戦争中の1943年に戦時不急不要路線として休止、その後、一部の区間(岡崎駅前 - 福岡町)は路面電車を使用した福岡線として再開したが、1962年に廃止されました。
真成寺とは線路跡の道路を挟んで反対側に真成寺の鎮守社が鎮座しているので、元々の真成寺の参道は違うところを通っていたんだと想像できます。というか、真成寺の境内を横断する形で西尾鉄道が敷設されたと考えた方がよさげですね。
境内入口
垣根が設けられた参道が右にカーブしながら続いています。
山号と寺社名が彫られた石柱門が据えられています。
本堂
寄棟造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。
曹洞宗の寺院でよく見る廻縁のない本堂ですね。
地蔵堂
本堂の手前に置かれた地蔵堂になります。
鎮守社
参道の反対側には、鎮守社である「砥鹿神社」が鎮座しています。
「幡豆郡西尾町誌」には、
鎮守として境外約100mの小丘上に摩利支天堂あり。古来、砥鹿明神と摩利支天とを相殿に祀った。
とあります。
摩利支天には脚部の痛みに霊験ありと云われ、草履、草鞋を納める習慣があるんだとか。
砥鹿神社と草鞋、草履というと、砥鹿神社の奥宮の境内社である「荒羽々気神社(アラハバキ神社)」を思い出します。ここ荒羽々気神社の祭神は「大己貴命荒魂」であり健脚の神とされています。
そして砥鹿神社の祭神は「大己貴命」であり、この御堂に草履・草鞋を納める習慣は砥鹿神社の奥宮からやってきた風習なんじゃないのかな?と自分的には思っています。
砥鹿神社奥宮「荒羽々気神社」
荒川義広墓石
本堂裏手にある墓地の中に、荒川義広の墓があります。
墓石にうっすらと「荒川氏」「仙林院殿之墳」と彫られているのが確認されているそうです。
荒川義広は、謎に包まれた武将であり、三河一向一揆では何故に一向一揆方に与したのかも分かりません。義広が開基となった真成寺は曹洞宗であり、義広の妻であった「市場姫」が葬られている不退院は浄土宗なので、浄土真宗とは縁を感じられないんですよね・・・。一揆が鎮圧され、義広も荒川城(八ツ面城)を追われ、一説には河内国に逃げ延びたと言われ、一方では法厳寺の参拝記で書きましたが、家臣だった中神氏の屋敷で蟄居しており、そこで亡くなったと言われています。
ここ真成寺は荒川城からも近く、由緒から見ても、義広が亡くなった後祀られるには適している場所だとはおもうのですが、一体いつだれがここに墓石を建てたのかは不明ですね。
参拝を終えて
荒川義広所縁の寺院である真成寺を参拝しました。
徳川家康の対吉良戦での重要なキーパーソンでありながら、何故か家康を裏切り歴史の表舞台から去っていた荒川義広なんですが、子孫は尾張藩に仕えたそうです。