城跡巡り

沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)

2022年4月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

豊明市沓掛町にある沓掛城の紹介です。織田氏と松平氏、今川氏の勢力争いに翻弄されつづけた城といえ、桶狭間の戦いの前日に今川義元が滞在した城として知られています。

城郭紹介

城郭情報

城郭名沓掛城(くつかけじょう)
所在地愛知県豊明市沓掛町東本郷十一番地
築城主藤原義行
築城年応永年間(1394-1428年)
城形状平山城
規 模東西288メートル、南北234メートル
廃城年慶長五年(1600年)
遺 構曲輪、土塁、堀

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定
豊明市指定史跡

見学情報

御城印
駐車場
訪問日2022年3月9日

御城印の保管に

 御朱印ブームの柳の下のどじょうではないですが、ある時まさに彗星の如く登場した感のある「御城印」。各神社や寺院で押印してきた御朱印と異なり、各地方自治体が観光PRも兼ねて発行している事もあり、御城印を用意する城址の数がまさに「うなぎ上り」の如く増加しています。
 御朱印帳に記入していただく御朱印と異なり、御城印は基本書置きの物になり、またそのサイズも統一されているわけではないようです。そんな御城印を管理される場合、ポケット型の御城印帳が非常に役に立ちます。御城印を集められる方は是非用意してほしい一冊です。

 

沿革

 鎌倉時代末期に後醍醐天皇からこの沓掛の地の「近藤宗光」を召し出したという記録があるといいます。近藤氏はこの地を拠点としていた国人衆だったのかもしれません。そして、室町時代になり応永年間(1394-1428年)に藤原義行がこの沓掛の地に城を築きます。これが沓掛城になります。

 この藤原義行という人物についてはどういった人物で何故沓掛城を築城したのか不明ですが、その後の沓掛城はこの地の国人衆である「近藤氏」が歴代城主を務めていく事になります。この事から戦国時代以前の沓掛城は城塞というより領主が住む「居館」としての要素が強かったのではないかと想像できます。

 沓掛城とその城主である近藤氏が歴史にはっきりと登場するのは、戦国時代に突入してからになります。時の沓掛城主は九代目「近藤景春」という武将になります。

沓掛城主「近藤景春」とは

 沓掛城主であった近藤家の九代目と伝えられる。

 史料によると、岡崎城主である松平広忠へ臣従し織田信秀に対抗していたそうですが、共に織田家と敵対してきた水野氏が松平家との同盟関係を解消し織田家との同盟関係を新たに構築していくと、その周囲の国人衆も織田家に臣従する道を選択していく事になり、近藤景春もこの流れに乗り松平家から織田家に臣従する道を選択したと思われます。

 天文二十年(1551年)、織田信秀死去。これに伴い跡目を織田信長が継ぐがこの頃の信長は皆さんもよくご存じの通り「うつけ者」と呼ばれ、信秀の跡目を継ぐ能力が疑われていた時期でもあります。そして、その信長に臣従する事を拒んだ鳴海城主である山口教継と共に岡崎の松平領を吸収した今川義元の元に寝返りをしています。

 永禄三年(1560年)、今川義元の尾張進出に先立ち、沓掛城は今川家臣「浅井政敏」が城代として入城し、近藤景春は沓掛城の支城である「高圃城」に移されたといいます。(この時、沓掛城は今川軍の本隊を迎え入れる為に改修工事が行われているはずです。)

 そして、永禄三年五月十九日(1560年6月12日)に有名な「桶狭間の戦い」が勃発し、今川義元が討ち取られ、今川軍は崩壊。沓掛城代であった浅井政敏も沓掛城を放棄して駿河方面に逃げ落ちています。近藤景春は空城となった沓掛城に入城するが、五月二十一日に織田軍により沓掛城攻めが行われ、近藤景春は討ち死にしています。

 沓掛城の北にある天神山の山中に子孫によって近藤景春の墓が建立されています。

 桶狭間の戦いでの論功行賞で、沓掛城は「簗田政綱」が拝領しています。(簗田政綱は沓掛城を拝領しながらも沓掛城に入城せず、沓掛城周辺は荒廃していたという説もあります。)そして、簗田政綱が加賀国への転任後は、「織田信照」、「川口宗勝」と城主が変わり、川口宗勝が関ヶ原の合戦の際西軍に属した為、戦後捕らえられ、伊達政宗預かりとなり、沓掛城は接収され廃城となっています。

主な清州城主

  • 近藤景春
  • 浅井政敏(今川義元家臣)
  • 簗田政綱
  • 織田信照(織田信長庶弟、織田信雄家臣)
  • 川口宗勝(徳川家康はとこ、旗本)

今川義元最後に泊まった城

 永禄三年五月十日、近年では様々な説が言われていますが、通説では上洛する為と言われる二万五千(四万五千とする説もある。)と言われる大軍が第一陣である松平元康の出陣を皮切りに次々と駿府城を出陣していきます。そして、五月十二日には今川義元率いる本隊が出陣しています。

 今川義元の本隊は

  • 五月十六日 岡崎城着
  • 五月十七日 池鯉鮒城着

と尾張国に向けて進軍していきます。そして、池鯉鮒城を出陣した義元本隊は、境川と渡河して尾張国に入国します。

  • 五月十八日 沓掛城着

 尾張国に入国した義元は、ここ沓掛城において翌日から本格的に開始する織田信長攻めについての軍議を行ったと伝えられています。

  • 松平元康・・丸根砦攻撃、大高城への兵糧入れ
  • 朝比奈泰朝・鷲津砦攻撃
  • 阿部元信・・鳴海城の守備
  • 鵜殿長照・・大高城の守備
  • 浅井政敏・・沓掛城の守備

そして、義元の本隊は、大高城を囲む砦を制圧した後に鳴海城、もしくは大高城に入城する予定だったようです。

 軍議を終えた後、義元は沓掛城に泊まったという説の他に、沓掛城の北にある浄土宗の寺院「玉松山祐福寺」に本陣を置き、こちらの祐福寺に滞在したという説もあり、正直はっきりしていません。ただ、どちらにしても、沓掛城から祐福寺にかけての地域が今川軍の尾張国攻め前野一大駐屯地であったことが推測できます。

 そして、翌五月十九日、各部隊が沓掛周辺から出陣し、大高から鳴海にかけて布陣し、織田家の各砦に向けて攻め立てていく中、義元本隊もいよいよ出陣。桶狭間を経由して大高城または鳴海城に向けて進軍を開始します。

訪問記

 沓掛城あは沓掛城址公園として整備されており、専用の駐車場も用意されているので、気軽に城址巡りを行う事が可能となっています。

 駐車場の脇に真新しい沓掛城の案内看板が設置されています。この案内板は縄張り図と現状の地形図が併記されていて沓掛城の全容を自分で想像しやすいように書かれているので非常にたすかります。

 こちらが本丸跡になります。この広さの本丸に館などが建っていた事を考えると、どう考えても今川義元の本隊全部が入城する事は不可能で、義元と主要幹部だけが城内に入り、それ以外の兵達は沓掛城外に陣を構えたのだろうと想像できます。

 こちらが、沓掛城址の石柱になります。その脇に

 豊明市教育委員会が設置した説明書きも設置されています。沓掛城址は説明板があちこちに設置されている所を見ると、豊明市としてしっかり管理されているみたいです。沓掛城は桶狭間の戦いとセットで観光客を誘致しようということなの・・・かな?

 こちらが堀跡になります。堀の深さがかなり浅く感じられるので、時代の流れの中で埋められた・・埋まった?っぽいですね。

所在地を地図で確認

城郭名沓掛城
所在地愛知県沓掛町東本郷十一番地
最寄駅電車:
バス:豊明市コミュニティーバス「本郷口バス停」徒歩11分

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