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重蔵山・剱光院 養國寺(西尾市寺津町)・三河海岸大師六十一番札所

2018年5月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

前回紹介した妙光寺から東へ100m弱進んだ所にあるのが今回紹介する養国寺になります。この養国寺も妙光寺と同じ浄土数西山深草派になります。

なんでも、元々は養穀寺を称していたそうなのですが、徳川家康によって養国寺に改称するように言われたんだとか。

「重蔵は、宝蔵無盡にして養穀は、是五穀なれば万民を救うものなり。所謂國を養うの意なれば宜しく養國寺と稱すべし」

天皇から勅額を頂いた寺名を改称させた家康の無理やり感も半端ない感じがしますが。

同じ、浄土宗の西山深草派である妙光寺と養国寺なんですが、参拝した時なんで同じ宗教宗派なのにこんなに近くに建っているんだ?と思ったんですが、よくよく調べてみると養国寺が本寺、妙光寺が分寺なんですね。

寺院情報

寺院名:重蔵山・剱光院 養國寺
鎮座地:愛知県西尾市寺津町東市場48番地
本 尊:阿弥陀如来
宗 派:浄土宗西山深草派
創 建:応永十五年(1408年)
H P:浄土宗西山深草派「総本山誓願寺」養国寺紹介ページ
札 所:三河海岸弘法 六十一番札所
札 所:西条西国 八番札所
札 所:西条吉良観音三十四ヶ所 三番札所
札 所:(旧)三河新四国 三十一番札所

由緒

創立 応永15年(1408)3月現在地に開創。 創始者は閑叟乘玄上人。 寺名は当時養穀寺(第5世まで養穀寺と号す)、現在養國寺。 明治13年(1880)4月25日、准檀林寺格許可。 明治30年(1897)5月15日檀林格許可。

浄土宗西山深草派「総本山誓願寺」
妙光寺紹介ページより

参拝記

創建が1408年ですので、すでに600年を超える古刹になりますね。

他の寺院もそうなのですが、なぜに浄土宗であるこの養国寺で大師霊場の札所として弘法大師を祀っているのか・・・弘法大師は真言宗の開祖ですからねえ・・・・。こういった奈良・平安時代からの仏教の流れと鎌倉仏教と呼ばれる浄土宗や臨済宗、曹洞宗などと弘法大師の繋がりが中々理解できないですよねえぇ・・・。

山門手前に置かれた寺社標と吉良西国第八番札所、海岸弘法第六十一番札所の碑になります。さらに、石碑はないのですが、西条吉良観音三十四ヶ所の三番札所にもなっています。

この養国寺の山門は四脚門と呼ばれる種類の門になります。

山門をくぐると、山門と本堂の間に二階建ての鐘楼が置かれています。

ちなみに、その脇には・・・・

100%の確証がある訳ではないですが、基礎石などから鐘突堂がここにあったのでは。

養国寺のHPでは伽藍配置は昔から変わっていないという事ですので、

山門 = 鐘楼 = 本堂 という配置だったのでしょう。

今一度、鐘楼を望むと、1階部分は6本の柱のみの構成になっており、重量物がすべて2階&屋根に集中するという耐震的にはかなり厳しい造りになっていますね・・・。

この鐘楼が山門の位置に置かれた場合、鐘楼門と呼ばれるんでしょうが、こういった境内の中に置かれた場合は、(二階建て)鐘楼と呼べばいいんですかね?。

鐘楼をくぐると本堂の前に。
向拝の設けられた寄棟造の本堂になります。

向拝部分の向かって右手には、お墓参りの方様に水場が設けられています。

達筆で山号が重蔵山と解ってなければなかなか読めませんな・・・。

本堂の扉が開いて中を参拝できたので、失礼して。
中央は、本尊の阿弥陀如来でしょうか。自分的には左手の涅槃像につい見入ってしまいましたが。欄間の彩色の鮮やかさなど見所満載な本堂です。

本来でしたら参拝前によるべき手水舎ですが、参道から離れた場所にこんな感じにポツンと置かれていた為、本堂参拝後に気づきました。なんだか寂しい感じがしますね・・。

養国寺の境内でも東側に鎮座しているのが北向観世音菩薩が安置されている観音堂になります。

観音堂の中には、西国観音三十三ヶ所の観音様の御分身が安置されているそうです。そしてこの観音堂が西条吉良観音三十四ヶ所霊場の三番札所なんだとか。

この観音堂が建立された逸話がのこっており、養国寺のホームページに記載されています。


養国寺:北向観世音菩薩堂


当地、寺津という場所は、 古来より豊富な海産物、肥沃な土地、また海洋交通の要として発展した豊かな土地で、 人々は日々とても幸せに暮らしておりました。

しかし江戸時代の中頃、村では子供たちにまつわる不幸な事故や流行り病いなど、たいそう難儀をする事態が続きました。 子供を失った親たちは嘆き悲しみに暮れ、そのほかの親たちも子供を外で遊ばせることすらできずに村中困惑に包み込まれてしまっておりました。

この頃、この地に助右衛門と言う 一人の男がおりました。 この男とても働き者、そのうえ信心も深く、幼い頃から、日々菩提寺である養國寺へのお参りも欠かすことがなかったそうで、その真面目な暮らしぶりゆえに誰からも人望あつく、 村の衆から大変に信頼された人物でした。

その助右衛門もこの難儀にとても心を痛め、なんとかこの続く災難を終わらせ、皆が幸せに暮らせないものかと 日々心を砕いておりましが、ある夜のこと、助右衛門の夢枕に観音さまがお立ちになられて こう告げられました。 「私は京のみやこ、清水の千手観音菩薩です。 あなたの村の難儀を知りました。 私を含む西国の三十三観音全ての御分身を作り、心を込めておまつりしなさい。 人々が信仰深く、正しく暮らすのであれば、二度とその地に災いの種が芽吹くことはないでしょう。」

夢から覚めた助右衛門は「これはありがたいお告げをいただいた!」とさっそく村の衆を集めてこの話をし、三十二体の観音像を作らせ、自らは私財をなげうち、ご本尊の千手観音さまを作り、菩提寺の養國寺に観音堂を建立し、三十三体の観音さま全てを安置して恭しくおまつりしました。

それ以来、不思議なことに降りかかる災難はピタリと止り、この地には子供たちの笑い声が途絶えることはなかったと言い伝えられております。 そしてこの故事にちなみ、今でもこの観音さまにお参りするとさまざまな災いから逃れられ、特に子供達の安全や健全ご守護には御利益絶大と、今も全国よりたくさんの信仰を集めております。

また、北向き観音さまの観音堂には「西国三十三観音」全ての観音さまの御分身を安置し、「西条吉良三十四観音霊場」の第三番札所としても、日々敬虔な巡礼の人々が参拝に訪れる霊場です。

養国寺ホームページより

 

中心に置かれているのが本尊とされる千手観音像ですね。


観音堂を後にして、養国寺の外周を見て回ろうと歩いていたら、こんな石碑が置かれていました。

なんて読むの?□国八十八ヶ所・・肝心の一文字目が読めずw

大師霊場と呼ばれる物は廃れて忘れ去れた場所がとんでもない数になるという話を聞いたことがあり、専門家でも把握しきれていないそうなんです。ただここまで大きな石碑があるという事は、それなりに栄えた霊場なんですかね。

三河海岸大師霊場

第六十番札所

妙光寺

第六十二番札所

金剛院


さて、養国寺を後にして、寺津町内の旧道沿いを歩きながら大河内氏の一族が収めていたと言われる巨海(「こみ」と読みます。)城跡に向かってみようと思います。

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