(旧)三河新四国八十八ヶ所 城跡巡り 豊田市

飯盛山香積寺(愛知県豊田市足助町) 足助氏・鈴木氏菩提寺

2021年4月11日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

 紅葉で有名な豊田市の香嵐渓・・・その中心にある「もみじ寺」として知られている飯盛山香積寺の紹介です。この地を治めた足助氏の菩提寺として建立、その後この地を治めた鈴木氏も菩提寺とするなど、この地の領主の庇護を受けてきた寺院になります。昭和二年に開創された(旧)三河新四国霊場の八十八番結願寺になっています。

寺院紹介

寺院概要

寺院名飯盛山香積寺
所在地愛知県豊田市足助町飯盛三十九番地

御由緒

 香積寺は紅葉で有名な「香嵐渓」にある飯盛山の南側の麓に建つ曹洞宗の寺院になります。飯盛山は平安時代末期から室町時代初期にかけてこの地を治めていた「足助氏」の居城となる飯盛山城が築かれており、香積寺の境内地は元々足助氏の居館跡になります。山門前に今も残る土塁跡が当時を偲ばせています。

足助氏とは?
 平安時代末期、清和源氏満政流「浦野重長」が足助荘に移り住み「足助姓」を称したことから始まる一族になります。源氏一族として鎌倉幕府の御家人として足助を支配した一族であり、足助(浦野)重長の娘が鎌倉幕府二代将軍「源頼家」の室となったと言われ、公暁(三代将軍「源実朝」を暗殺した人物。)将軍家との強固な繋がりがあったと伝えられていますが、鎌倉幕府と朝廷が激突した「承久の乱」では朝廷側に与する者が現れるなど、執権北条氏の時代になると朝廷との繋がりも強くなっていったようです。
 そして、元亨四年九月(1324年10月)、後醍醐天皇による討幕計画が漏れ、六波羅探題に露見し足助氏六代目当主「足助貞親」は自害しています。この時、討幕計画の首謀者たる後醍醐天皇ですが、鎌倉幕府側が朝廷との関係を考慮した結果、後醍醐天皇は無罪となっています。
 そして、元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は再び鎌倉幕府討幕へと動き出し、見方となる武将を求めて全国に自らの皇子を派遣したとされ、足助貞親の息子で七代目当主「足助重範」の元には第三皇子「平勝皇子」と関白「二条良基」が訪れています。(足助に伝わる伝承を見ると「京都の戦乱から逃れる為、平勝皇子と二条良基が足助を訪れた。」とされています。)この両名の足助訪問の後、討幕計画が再び幕府側に露見してしまい、後醍醐天皇らは笠置山に逃れています。そしてこの地にて詔を出し、後醍醐天皇側に味方してくれる武将を招集する中、足助重範が真っ先に駆け参じています。鎌倉幕府が七万五千とも言われる大群を笠置山に向かわせる中、笠置山に集まったのは三千に過ぎず、圧倒的な兵力の差の中、足助重範は笠置山側の総大将として幕府軍と戦いますが、元弘元年九月二十八日に笠置山陥落、後醍醐天皇、足助重範などが数日中の内に幕府側に捕らえられています。後醍醐天皇は隠岐島に流罪、足助重範は六条河原にて処刑されています。
 足助重範死後も足助氏は南朝側に与しながら足助を居城としていた様ですが、南朝側が徐々に劣勢になっていく中、足助一族も足助を離れて散り散りになっています。

 香積寺の創建は「足助氏」が一つ目のキーポイント、そして足助重範を訪ね京より平勝皇子と共に足助にやってきた「二条良基」が二つ目のキーポイントとなります。

 関白二条良基が足助に滞在中、足助重範の娘「滝野」が侍女として二条良基に仕えていました。平勝皇子と二条良基がどれくらいの期間足助に滞在していたのかは不明ですが、伝承では京の戦乱が治まった為、平勝皇子と二条良基は京に戻っていったと伝えられています。実は、二条良基と滝野の間に男子が生まれています。(生まれたのが良基が足助に滞在中なのか、京都に戻った後なのかも不明です。)この二人の間に生まれた男子は幼名を三吉丸と称し、元服後は足助の少し北側にある成瀬郷を本貫としたことから「成瀬基久」と称し、尾張徳川藩家老で犬山城主だった成瀬氏の祖になります。

 足助氏が足助の地を離れた後、二条良基、成瀬基久その子基直が、笠置山の戦いで奮迅、その後処刑された足助重範の菩提を弔う為、足助氏の居館があった飯盛山の南側の麓に一宇を築きます。その後応永三十四年(1427年)に曹洞宗の僧侶「白峰祥瑞禅師」により開山しています。

 香積寺本堂裏手の飯盛山中腹に、足助重範、滝野、成瀬基久、成瀬基直の墓所が設けられています。墓石が並ぶ中に「装束塚」という塚があります。これは二条良基が京に帰った後、足助に残された滝野が良基の形見の装束を抱き日々慕い続けていたが、良基が亡くなったと聞き、その形見の装束を埋めて塚とした事から「装束塚」と呼ばれています。

 香積寺は足助氏が去った後、足助を支配した「足助鈴木氏」が帰依し菩提寺としてます。先ほど紹介した装束塚から一段低い場所に鈴木氏五代の墓があり、足助鈴木家祖鈴木忠親、二代重政、三代重直、四代信重、五代康重の墓石である五輪塔または宝篋印塔が並んでいます。

創 建応永三十四年(1427年)
宗 派曹洞宗
御本尊聖観世音菩薩

 木立ともみじの香積寺は、曹洞宗の古刹である。応永三十四(1427年)足助氏の居館跡に創建されたもので、開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(尾張犬山城主成瀬家の祖)、開山は白峰祥瑞禅師である。かつては学林として栄え、時には100名もの雲水が参禅したという。

 もみじの開祖11世参栄禅師、画技にも卓越した二十五世風外禅師はあまりにも有名で、風外禅師の画を多数蔵している。

門前案内板より

霊 場

  • (旧)三河新四国 八十八番札所
  • 東加茂西国観音 二十一番札所

愛知県下新十名所

 「」は昭和二年に昭和二年に新愛知新聞社(現:中日新聞)が読書の方達からの投票によって愛知県の新しい十名所を決定しようという企画「愛知県下新十名所」において「16,355票」を集めて「第30位」になっています。

足助香積寺30位/57位16,355票

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文化財

国 宝
国指定
県指定飯盛城址
市指定
町指定
村指定
鰐口、僧風外作品群、木造毘沙門天立像

参拝情報

御朱印
URL
駐車場〇/香嵐渓有料駐車場を使用
参拝日参拝日:2021年3月17日

参拝記

 足助と言えば香嵐渓・・・香嵐渓といえば紅葉・・・と連想が容易にできてしまい程、紅葉シーズンになると連日香嵐渓の紅葉狩りで賑わっている光景がテレビなどで流れています。この香嵐渓の紅葉を植えたのが香積寺十一世三栄和尚らしいですね。紅葉の寿命がおよそ100年とも言われているので当然三栄和尚が植えた紅葉は残っていないのですが、足助の人々や香積寺の歴代の住職によって紅葉の植樹は続けられていたのでしょうね。ただ・・・大正時代に飯盛山を山林公園として整備して植えられたという紅葉がやっぱり100年を経過して寿命が近づきつつあるそうです。全部の木を植え変えるにしても莫大な費用と時間がかかるそうで、徐々に老木を間引きながら新しい苗を植えているそうですね。全体の紅葉の本数は減っても、木々の間隔があけば大きく育てば見劣りすることはないのかも?

境内入口

 香嵐渓と言えば、巴川とそこに掛かる欄干が赤い「待月橋」と紅葉というイメージが非常に強いのではないでしょうか。巴川の川岸を歩いていき、三州足助屋敷方面に向かっていくと、飯盛山香積寺への山道が見えてきます。

 石段の山道を登っていくと、眼前に袖壁の設けられた薬医門の山門が見えてきます。山門へと通じる参道の左右にはここが足助氏の居館時代、又は鈴木氏の居館があった時代の土塁跡が残っています。普段目にする土塁に比べても非常に高く盛られていることが分かるかと思います。

 比較対象がないので写真では分かりにくいですが、土塁跡になります。この土塁の所に元々は居館の門が設けられていたのか、江戸時代にはいってから土塁を切り崩してここを香積寺の山道としたのか、どちらなんでしょうか・・・。

 山門を抜けて本堂に向けて進んでいきます。本堂、庫裏などが建つ場所はさらに一段高くなっているようです。

鐘楼

  石段を登りながら右手を見ると、非常に特徴的な造りの鐘楼が建っていました。この鐘楼の造りはなんと説明していいのか難しいですが、一間一戸鐘楼といった感じでしょうか。写真でみて右手の壁は袴腰が設けられたり、正面となる場所には庇が設けられるなど色々装飾が付けられています。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。水盤は円形となっています。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の本堂になります。屋根の反りがあまりなくどちらかと言えば直線的な屋根の形状をしています。これは降雪対策なんでしょうか・・。足助街道から国道153線を稲武に走っていくと足助周辺から雪が積もるっていうイメージがあったのですが、ここ10~20年くらいで、足助に振る雪の両派大幅に減っている気がします。

 本堂の一角には香積寺の鎮守社である「豊栄稲荷」が鎮座しています。知多四国霊場や三河新四国霊場を遍路していると、本堂の脇陣に奉安された弘法大師像に納経する為に、その大師像の正面で納経できる様になっている寺院をよく見かけるのですが、こうして本堂に向かって鳥居が設けられたり、鎮守社が本堂に鎮座している寺院は、あまり見かけないかと思います。ただこうした風景に違和感を感じないという事は、日本人は神仏習合が普通だった証左なのかなとも思ってしまいます。

僧堂(座禅堂)

 この地方では唯一江戸時代の造りそのままの様式である僧堂が残っています。江戸時代までは僧坊がって修行僧が大勢いたのでしょうね。

飯盛山 山頂へ

 香積寺の本堂向かって左手側から飯盛山山頂に向かう事ができる登山道?が整備されています。山頂に向かう途中、歴代住職の墓と羅漢像、鈴木氏五代の墓、衣装塚、「豊栄稲荷」の奥之院を立ち寄りながら山登りに慣れていない自分にとっては、中々息があがってくる坂道をのぼっていく事になります。

 飯盛山への登山道は途中までは豊栄稲荷の奥の宮への山道と共用されているので、奥の宮までは所々に赤い鳥居が据えられています。

 ここから豊栄稲荷の奥之院への山道が始まる感じですね。鳥居脇に据えられている石碑にも「豊栄稲荷奥之院参道」と彫られています。先ほども言いましたが、飯盛山へは奥之院まではこの参道を登っていく事になります。

弘法堂

 豊栄稲荷の山道入口からふと左を向くと、弘法大師像が奉安されている宝形造の御堂(弘法堂)が目に入ってきました。もしかしてと思いこの弘法堂を参拝してみると、予想通りこちらが(旧)三河新四国霊場八十八番札所になるようです。てっきり本堂の脇陣に奉安されていると思っていたので、山頂に行ってみようと思わなかったら納経できていない所でした。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

 こうして本堂の屋根を徐々に見下ろしていく感じに登坂が続いていきます。最初は香積寺を参拝するだけで飯盛山に登ろうと思っていなかったのですが、結局めっちゃ低いながらも山登りをすることになりました。ただ、道中は手入れされていて藪漕ぎする必要がまったくないのは助かりますね。

歴代住職の墓所と十六羅漢石像

 参道を登っていくと、歴代住職の無縫塔が立ち並び、その奥に十六羅漢石像が墓所を見守る様に据えられています。

十六羅漢とは、お釈迦様の代表的な十六人の弟子の事を指すそうです。
跋羅駄闍尊者、迦諾迦伐蹉尊者、諾迦跋釐駄尊者、蘇頻陀尊者、諾矩羅尊者、跋陀羅尊者、迦哩尊者、弗多羅尊者、戎博迦尊者、半諾迦尊者、羅怙羅尊者、那伽犀那尊者、因掲陀尊者、伐那婆斯尊者、阿氏多尊者、注荼半託迦尊者

鈴木氏五代の墓

 さらに参道を登っていくと、鈴木氏五代の五輪塔と宝篋印塔が立ち並んでいます。現在は写真の様に五基の墓石が並んでいますが、基壇を見る限り近年整備されてこうした形になった様ですね。足助鈴木家祖鈴木忠親、二代重政、三代重直、四代信重、五代康重の墓石であるそうですが、どの墓石が誰のものなのかは、よくわかりません。

衣装塚

 もう一段高い所に、足助重範、滝野、成瀬基久、基直の宝篋印塔と衣装塚が並んでいます。由緒でも書いていますが、元々香積寺は足助氏を弔うために建立された寺院になります。その開基は笠置山の戦いで奮戦し鎌倉幕府軍に捕らえられ処刑された「足助重範」の娘婿とその子(重範からは孫)に当たる二条良基、成瀬基久、基直であると伝えられています。

 二条良基と重範の娘「滝野」の間に生まれた子供がなぜ「成瀬」を称したのかといえば、足助の成瀬郷という所に屋敷があったからだと聞いた事があります。そして、その成瀬郷があったであろう場所には成瀬家発祥の地として「蛇口成瀬神社」が鎮座しています。プロフィール欄に書いていますが、自分も成瀬であることから、何度かこの成瀬神社には参拝させて頂いています。今は解散してしまいましたが、全国成瀬会という会によって社殿が造営工事されていたりします。

豊栄稲荷奥之院

 衣装塚から少し山道を登っていくと、前方に赤い鳥居が見えてきます。ここが豊栄稲荷の奥之院になるようです。飯塚山の中腹辺りになる感じでしょうか。正直もっと上の方にあるのかなと思っていましたが、思いのほか奥之院まではスムーズにたどり着くことが出来ました。

豊栄稲荷
 香積寺の鎮守で「勅正一位豊栄稲荷大明神」と称す。古くは足助次郎重範が鎮護神として祀った由緒ある稲荷である。その後「古城の稲荷」と呼び諸人崇敬し霊験あらたかであった。神号は天保二年(1831年)香積寺二十四世棟嶽禅師の代に授かったものである。
足助町物価財保護委員会

 さて、奥の院での参拝を終え、いよいよ飯塚山の山頂に向けて歩き始めます。

飯盛山

 豊栄稲荷から飯盛山山頂へ通じる山道もこんな感じで狭いながらも整備されていて安心して登っていく事ができます。途中で香嵐渓入口から飯盛山山頂に向かう山道と合流するのですが、丁度春先に咲く「カタクリの花」が自生している場所の中を抜けてくる道の様で、まさに観光ルートといった趣になっていました。自分が訪れた時は「カタクリの花」がかなり咲き始めているっていうタイミングだった様で、この花を見にきた観光客の方が非常に多くいらっしゃいました。が、山頂に向かう方は殆らっしゃらないわけですが・・・。

 なんだかんだであちこち歩くようになって体力がついてきたのか、息が上がる事もなく山頂に向かう最後の階段部分までやってきました。写真を撮影している場所は、飯盛山城の曲輪跡なんでしょうかね。

 山頂に到着です。
 ここ飯盛山山頂には、この地域で古来より信仰されていた御神体といっても過言ではないであろう「磐座」があります。飯盛山は古来は神が宿る山と考えられ信仰の対象だったのでしょう。
 この神の山である飯塚山を領有する事で足助氏、鈴木氏は足助の領主になりえたのだと考える事もできそうです。

 現地の説明板によると、神がこの地から足助八幡宮に向けて足を休めた事から「足助」という名がついたという伝承が残っていると言います。

 飯盛山山頂からは木々の隙間から足助の街並みを望むことができます。上の写真は、足助陣屋跡とその近くに建つ「宝中山慶安寺/紹介記事」方面を望んでいます。

御朱印

参拝を終えて

雑誌・マンガに加えて旅行雑誌の定番"るるぶ"も月額500円(税抜)で読み放題!

やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名飯盛山香積寺
所在地愛知県豊田市足助町飯盛三十九番地
最寄駅名鉄バス足助線「香嵐渓一の谷口バス停」徒歩6分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

-(旧)三河新四国八十八ヶ所, 城跡巡り, 豊田市
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