寺院情報
寺院名 | 天龍山常楽寺 |
所在地 | 愛知県半田市東郷町二丁目四十一番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 西山浄土宗 |
創 建 | 文明十六年(1484年) |
札 所 | 知多四国霊場 二十一番札所 法然上人霊場 一番札所 知多百観音 二十四番札所 知多六地蔵 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年5月23日
知多四国霊場札所一覧
知多四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
由緒・沿革
文明十六年(1484年)諸国遊化の途中、当地に立ち寄られた「空観栄覚上人」が応仁の乱の戦没者供養のためにと発願し、もともと天台宗の寺院「仏性寺」を浄土宗に改宗し中興開山し、この時、寺名も「天龍山常楽寺」に改称しています。
常楽寺八世住職「典空顕朗上人」は徳川家康の母「伝通院(於大の方)」の妹の子で家康とは従兄弟の間柄だった事もあり、家康は人生の節目で「常楽寺」を訪問する事になります。
一度目は「永禄三年(1560年)」
桶狭間の戦いにおいて、今川義元が討ち死にし、尾張国に進出していた今川軍は総崩れとなってしまいます。この時、大高城に入城していた「松平元康(徳川家康)」は織田方の「緒川城/紹介記事」城主「水野信元」の軍勢に包囲されてしまいます。 松平元康と水野信元は伯父と甥の関係であり、いくら敵方とはいえ討ち取る事が出来ない水野信元は、包囲の一部を解き、松平元康を大高城より逃したそうです。松平元康は、織田家の追撃軍から逃れる為、鎌倉街道を東に向かうのではなく、母「伝通院(於大の方)」の再婚先である坂部城主「久松俊勝」を頼りに知多半島方面に進んだと言われています。何時までも義理の父である久松氏の厄介にはなれないので、数日の後に、従兄弟「典空顕朗上人」が住職を務める「常楽寺」に入り、ここから船を使い、航路にて岡崎を目指したそうです。
こんな感じのルートになるでしょうか。図で書くと、かなりのう回路をとっている事がよくわかりますね。当時はまだ矢作川の放水路は掘削されていないので、現在の矢作古川を遡上しているはずです。西尾市沿岸の干拓も進んでおらず、青色の線よりもっと内陸まで海でした。
二度目は、「天正十年(1582年)」
本能寺の変において、織田信長が明智光秀に討ち取られる事件が発生します。この時、徳川家康は僅かな手勢と堺見物をしていました。堺に留まれば光秀に狙われると危惧した家康一行は、この僅かな手勢で本拠地岡崎を目指すことになります。これがいわゆる「伊賀越え」です。 伊賀を超えた家康一行は伊勢国の白子周辺から航路にて常滑周辺に上陸し、陸路で知多半島を横断し、成岩の常楽寺に入ったとされています。(白子以降の行程については所説あります。)常楽寺からは再び船に乗り、現在の碧南市大浜に上陸したといいます。
常滑上陸説では、「龍松山正住院/紹介記事」近くの海岸に上陸し、正住院で休息を下の地、陸路で常楽寺に向かったとされます。
三度目は、「天正十七年(1589年)」
豊臣秀吉による小田原征伐の前年、駿府城から上洛の際に立ち寄ったと言われています。
一度目の来訪の時か、二度目の来訪の時の事なのかはっきりしないのですが、典空顕朗上人の弟子達が裸馬に乗って警護し三河へお送りした折、裸馬にまたがる僧たちを見た家康が「鞍を得させよ。」と与えた鞍、鎧が寺宝となって残っているそうです。
「典空顕朗上人」は、慶長元年(1596年)、前述しています常楽寺の前身である「仏性寺」の観音堂を半田市有楽町に移設させています。それが現在「鳳出観音(とりでかんのん)」と呼ばれている観音堂です。こちら鳳出観音は、知多本四国移霊場という弘法大師霊場の札所になっています。
尾張藩が成立し、初代藩主・徳川義直から「浄土宗西山派知多一群の総本山なり」とお墨付きを受け、尾張藩の庇護を受けた名刹「常楽寺」になります。
知多四国霊場を行く
二十番札所「萬松山龍台院/紹介記事」を後に、名鉄河和線の踏切を渡り、国道247号線を南に向かいます。半田市立成岩中学校を過ぎると右手に今回納経する「天龍山常楽寺」の筋壁が見えてきます。
現在でも常楽寺は塔頭を四カ寺有する寺院であり、その寺勢は知多四国霊場有数だと思います。かつては七堂伽藍を有していたとか、〇山〇坊の巨刹だったという由緒をよく目にしますが、ここ常楽寺は大正時代にも火災にて伽藍を焼失しつつも、塔頭を含め再興し往時の寺院の雰囲気を今に伝えていると思います。
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参拝記
国道247号線を南下していくと、右手に筋壁のある寺院が見えてきたら、そこが常楽寺になります。名鉄河和線「成岩駅」からですと500m程の距離になりますでしょうか。現在の住所では東郷町ですが、どうもこの辺り一帯を昔から「成岩」と呼ぶようですね。
関ヶ原の合戦後の慶長六年(1601年)から約五年間、この常楽寺の近くに成岩以南を支配する「成岩代官所/紹介記事」が置かれました。代官は「榊原六郎左衛門」が務めています。
西尾市の八剱神社周辺も大師信仰が非常に篤い地域になっています。近年再興された三河新四国霊場の札所は残念ながら選ばれていないのですが、江戸時代末期から明治時代にかけて開創された、三河海岸大師霊場、(旧)三河新四国霊場、三河国准四国霊場などがあり、更に観音霊場も存在しています。今では知多四国霊場と異なり忘れ去られかけている霊場になってしまっていますが、当ブログにて順次紹介していきますので、是非参考にして頂き、巡礼して頂ける方が増えたらうれしいですね。
参道
駐車場は山門のすぐ近くにある為、駐車場からすぐに山門を潜り境内に行けてしまうのですが、山門からまっすぐ伸びた道路の先に寺号標が据えられています。寺号標の場所から山門方面を望む風景もぜひ見て頂きたいポイントですね。
寺号標
かなり大きく立派な寺号標になります。帆本尊国宝、家康公遺蹟と彫られていますね。現在、本尊は国の重要文化財に指定されていますね。
参道脇の辻堂
馬頭観音、地蔵菩薩が安置されています。
薬師教会
半田市の文化財に指定されている薬師教会になります。
中には、薬師如来坐像、聖観世音菩薩立像、大日如来坐像が安置されているそうです。中は暗くて確認することができなかったのが残念。
仏教で教会はあまり聞きなれないのですが、基本は布教のための説教所の様なものを指すらしいです。布教の為ですから、本尊などの仏像も置いていない所も多いんだとか。ただ、ここ西薬師教会には、半田市指定文化財の仏像が三体も安置されています。そう思うと、崇敬する人がこの境界の中で仏像に手を合わせる施設と考えた方がいいのかもしれませんね。
山門
八脚楼門の山門になります。四脚門から左右に一間ずつ間を追加させ三間で門柱が四本、控え柱が八本ある門を八脚門と呼びます。で、追加された間の部分に、多くの寺院では仁王像を安置させていて、こういった門を仁王門と呼びます。
この常楽寺の山門に安置されている像は仁王像ではなく、四天王のうちの広目天と増長天が安置されています。四天王の内の二体が安置されている門を二天門と呼ぶそうです。
常楽寺の参拝の時点では正直な所、仁王像以外に四天王像とか安置さえる門がある事をまったくしらず、写真を見直していたら、「あれ?仁王像とちゃう。」と二天門の存在に気付いた次第で・・・。さらに、実はこの先、四天王すべてを安置している四天門(こういった呼び方をするのかは不明ですが・・・)の八脚楼門の山門も登場してきます。山門に像が安置されている=仁王門という認識を改めるいい機会になりました。
塔頭
山門を潜ると、参道が本堂に向かって伸びているのですが、その参道の両脇に、常楽寺が現在でも非常に栄えている寺院と紹介した所以である塔頭が並んでいます。
一番山門よりにある塔頭「真如院」になります。
参道右手にある塔頭「遣浄院」
真如院の隣にある塔頭「超世院」
国道247号線沿いにある参拝者用駐車場を利用した場合、塔頭である「来迎院」境内を通過して常楽寺の境内に向かうよう案内板がだされています。実は参道から少し外れた場所にあるのですが、ここで紹介します。
手水舎・水盤
コンクリート造り瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。
水盤の横には水かけ地蔵尊が安置されています。
コンクリート造りという事もあり、柱も太くどっしりとした印象を受ける手水舎です。
本堂
入母屋造瓦葺平入向拝が設けられた、かなり大きな本堂になります。
ご覧の通り、非常に幅広くとられた向拝になります。これだけ幅広の向拝ですと、中間に支柱がないと支え切れないのがよくわかりますね。さらに浄土宗のお寺らしく高覧の設けられた廻縁が本堂の周囲を巡っています。
こちらが本堂中央に安置されている阿弥陀如来像になります。
国の重要文化財に指定されている仏像なんだと思うのですが、今まで指定文化財の本尊となると秘仏になっていたり、本堂そのものが鑰がかけられていて、拝見することができなかったケースが多かったので、うれしいことなんですが、これだけあっさり拝見できてしまうと、もしかして違うんじゃないか?と疑心にかられるのはしかたないことなんですかね・・・。
本堂の鴨居に掲げられている山号標になります。
観音堂
薬師如来が安置されている薬師堂になります。
まるで鐘突き堂があったかの様な石垣の上に御堂が作られています。
あと、その前に据えられている石灯篭なんですが、火袋石が抜けていて、献灯できなくなっていますね。
弘法堂
入母屋造瓦葺妻入りの弘法堂になります。
中央に観音菩薩、左側(向かって右)は毘沙門天、右側(向かって左)は弘法大師が安置されています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
弘法堂の土間部分の左側部分に賽の河原地蔵尊が安置されています。背景に描かれた絵といい、ここの場所だけなにやら異世界の感がします。
こっとり地蔵
「生きている時は健康で、死ぬ時はこっとり死ねるように」この人生至上の願いをこっとり地蔵に託します。
朱塗りの六面祠に入ったお地蔵様です。
懸魚・鬼瓦
鰭の無い猪の目懸魚と立体的造形がすごい鬼瓦になります。
さらに尾張徳川藩の三つ葉葵の紋が掲げられています。
御朱印
参拝を終えて
神戸川に向けてまっすぐに参道が伸びています。明治時代の頃までは寺号標が建っていた場所まで参道が伸び、その先は田圃だった様子です。今では、突き当りには県道34号線半田常滑線が東西に走り、知多半島横断の大動脈の一つとなっています。
雨天と時間との関係で塔頭四寺まではきちんと参拝できなかったので、次参拝する機会があれば、きちんと参拝していきたいと思っています。
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地図で所在地を確認
寺院名 | 天龍山常楽寺 |
所在地 | 愛知県半田市東郷町二丁目四十一番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 河和線「成岩駅」徒歩7分 |