糟目犬頭神社(愛知県岡崎市宮地町)

神社紹介

神社名糟目犬頭神社
鎮座地岡崎市宮地町字馬場三一番地
御祭神彦火火出見尊、熊野大神(伊邪諾尊、伊邪册尊、素戔嗚命)、犬頭霊神
旧社格郷社
創 建大宝元年(701年)
神名帳延喜式内社 三河国 碧海郡 六座 並小 糟目神社
三河国内神明帳:明神二十二所 正四位下 糟目明神 坐 碧海郡
三河国内神明帳:明神二十二所 従四位上 犬頭明神 坐 碧海郡
境内社弁天社
例祭日十月十五日(十月第二日曜日)
御朱印
H P

参拝日:2016年11月11日
再訪日:2021年1月9日

御由緒

 大宝元年(701年)に創建され、延喜式内社の「三河国碧海郡に坐する糟目神社」の論社となっていましたが、明治二年に神祇官により、現在の豊田市渡刈町に鎮座する「糟目春日神社」が式内社として確定されている為、現在でも延喜式内社の論社なのかはよく解らない所です。

 祭神である「彦火火出見尊」は「山幸彦」で知られる神の名になりますが、実は山幸彦の孫となる初代天皇「神武天皇」の諱も同じ「彦火火出見尊」だったりします。同じ名前があるなら、どっちを意味するのか解らないのでは?と思いますが、神武天皇を彦火火出見尊とは称する事はないかと思いますので、この辺りは問題にならないのかもしれませんね。

 前回紹介した「犬尾神社/紹介記事」の記事の中でも触れていますが、岡崎市の犬頭伝説の伝承地となる神社になります。犬頭伝説については犬尾神社でも紹介していますが、

 「貞和二年(1346年)上和田城主宇都宮泰藤が、糟目犬頭神社の近くで鷹狩をし、境内の大杉の下で休憩をしていた。ところが、大杉の上には大蛇がいて泰藤を襲おうとした。
 泰藤がつれていた白い犬が、これに気づき、吠えて主人に知らせようとしたが、泰藤は寝ていて、気づかず。犬は、三度吠え続けたが、目覚めた泰藤は、犬の吠えることを怒り、犬の首をはねてしまう。
 はねられた犬の首は飛び上がり、大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、主人を救う。大蛇に気づいた泰藤は、この犬に感謝し、犬の頭を手厚く葬り、糟目犬頭神社に祀ったという。また、犬の尾は犬尾霊神として、下和田の新宮(犬尾神社)に祀ったという。」

 この犬頭伝説ですが、建武の新政から南北朝時代初期にかけて、後醍醐天皇を京の都から追放し北朝方として室町幕府を開幕する「足利尊氏」の最大のライバルとされる武将が南朝方の「新田義貞」になります。この新田義貞の鎌倉攻めの挙兵以来藤島の戦いまで行動を共にしていた武将が「宇都宮泰藤」になります。
 しかし、新田義貞は延元三年/建武五年(1338年)に越前国において討ち死(藤島の戦い)となり、その首が朝敵であるとして京の都に晒されていました。

 「宇都宮泰藤」・・・その苗字が示す様に下野国(現栃木県)を本貫とする宇都宮氏の武将となります。そんな宇都宮泰藤が三河国の和田荘に上和田城を築城して城主として治めていたのは、鎌倉幕府討幕の論功行賞で与えらえた領地と考える事ができそうです。

 泰藤は京で晒されていた主君「新田義貞」の首級を奪還すると、義貞の故郷である関東に運ぶ途中、自身の居城であった上和田城に立ち寄った際、周囲は北朝方で囲まれ、南朝方の再興は厳しいと考え、義貞の首級を領内の神社である「糟目神社」の境内の一角に埋葬した。しかし、前述したように上和田城の周囲は北朝方・・・というより、足利家の本拠地ともいえる場所であることもあり、新田義貞の首を埋葬した事が発覚してしまう事を恐れ、犬頭伝説を流布したと言われています。

 現在の新田義貞の首塚(犬頭塚)はどうなっているかというと、琵琶湖の竹生島より市杵島姫が勧請された大和田島弁財天社の祠が塚の丘陵部に鎮座しています。祠の周囲は弁財天社といえばこんなイメージを体現したかのような池の中に浮かぶ弁財天社として整備されています。

 実は、新田義貞の首塚伝説も何ヶ所かあったります。そんな中、糟目犬頭神社の首塚伝説はどうなんでしょうか・・・。越前国で討ち取られた新田義貞の首が京都に運ばれてそこで獄門(晒し首)となっていた。この首を奪取して運ぶにしても、岡崎まで到着する前には腐敗してしまっているはず。時間的経過を考えると、新田義貞の首が何者かに奪取されたとしても、京都周辺で埋葬されたと考えるのが妥当なんじゃないのかな?と思うのですが・・・。桶狭間の合戦後、討ち取られた今川義元の遺体は駿府に運ぶ途中、腐敗が進行し現在の豊川市の大聖寺にて埋葬されている事からも、当時の街道整備の状況を考えるとやっぱり岡崎まで運ぶのはかなり厳しいと思うのですが。京→岡崎まで馬で駆ければ間に合うのかな・・・。そうにしても泰藤が一騎だけで行動する事はあり得るのでしょうか・・・。同行する武将が増えればそれだけ行動速度は落ちる訳で事実だとしたらどうやって運んだのか興味があります。

 泰藤が休んだとする大杉は、徳川家康が関東移封となった後に岡崎城主となった田中吉政によって切り倒され、大浜にて船の材料とされたと伝えられています。

 泰藤が新田義貞の首を埋葬した後の観応元年(1350年)には足利尊氏が寄進、これは秀吉による太閤検地で没収されるまで社領となっていた様で、さらに検地後には徳川家康から朱印が出され明治維新まで社領を有する神社だった様です。足利尊氏のライバルとされる新田義貞の首が埋葬されたという糟目犬頭神社に寄進をするというのも中々興味深いところです。徳川家康の朱印については、家臣である大久保氏の存在が非常に大きいのかなと思います。

「延喜式内社」で社伝に大宝元辛丑年(701年)九月の創建という。永延元丁亥年(987年)六月十五日、熊野三所権現を合祭する。旧社は隣村上和田村西糟目の森寄にあり、矢作川洪水ありて今の社地に遷座する。観応元年(1350年)足利尊氏、永百貫文目を寄進し豊臣迄続く。文和元壬辰年(1352年)五月、上和田城主宇都宮左近将監泰藤、鷹狩せんと社殿の坤方(西南)の大杉の下で昼寝す。樹上の巨蛇今にも泰藤を呑んとする。白犬しきりに吠える知らず再三吠えるにうるさしとて犬頭を断つ。その犬頭大蛇の喉のかみ殺す。泰藤之をみ驚き神助なりと犬頭天神として合祭する。慶長八年(1603年)八月八日東照君四十三石の朱印を寄進、明治に及ぶ。明治五年九月十八日、犬頭大明神を糟目犬頭神に改め郷社に列格し同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進指定社になる。社蔵の棟札に寛政五年(1793年)七月、拝殿再建とある。首塚、南朝の忠臣上和田城主宇都宮泰藤(大久保氏の祖)が足利尊氏により京都で晒されていた新田義貞の首を奪い返し、首塚に埋め発覚を恐れ犬物語を流布したと伝えられる。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

歴史探訪

 ここ糟目犬頭神社の境内の一角にある石碑が据えられています。

 岡崎三奉行の一人に数えられる「本多作左衛門重次」の生誕地の碑になります。
 享禄二年(1529年)に現在の岡崎市宮地町にて生誕。松平清康、広忠、徳川家康と使える。永禄元年の徳川家康の初陣となる寺部城攻めに先陣として出陣し武功を挙げ、三河一向一揆の際には、真宗本願寺派の門徒であるにもかかわらず、主君家康への忠義を貫き、一向衆の拠点に忍び込み火をつけ門徒衆を打ち取ったと言います。さらに東三河統一に向けての戦いでも武功を挙げ、永禄八年に岡崎城下の民政を執り行う奉行に取り立てられます。
 その後、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城の戦いなどでも武功を挙げ、豊臣秀吉と対立した小牧長久手の戦いでは星崎城の守将となっていたといいます。秀吉との講和を結ぶために家康が上洛し、その講和条件の一つとして秀吉の母である大政所が人質として岡崎城に滞在していた時、重次はその居館の周りに薪をつみ、京都でなにかあれば大間所を焼き殺すつもりだったそうで、人質から解放されて大阪に戻った大政所はとても怖い思いをしたと秀吉に告げたと言われています。
 北条氏攻めの際、秀吉が岡崎城に入城した時に重次を呼び寄せたが重次は応じなかったとして、秀吉は家康に対して重次は追放すべしと命令し、家康は関東移封後、重次を上総国古井戸にて屏居処分とsれその後、下総国相馬郡井野に移され、同地で六十八歳で没しています。

 永禄八年(1565年)、徳川家康は岡崎城下を民政を行う為に三武将を奉行に任じます。
 この時武将に任ぜられたのは、天野康景高力清長本多重次の三武将になります。三名の働きぶりについては「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三兵」という俗謡が流行したと伝えられています。ただ、「岡崎三奉行」という制度が存在したのかは不明らしく、もしかしたら民衆の目に触れる機会のある民政担当の武将をまとめてそう呼ぶようになったということかもしれません。

参拝記

 非常に説明ずらいのですが、法性寺交差点から東に細い路地を進んでいくと、法性寺、むつみ保育園と通り過ぎると、糟目犬頭神社の参道入り口が見えてきます。参道のすぐ東隣は中部電力の変電所になっています。今でこそ区画整理が行われて広く整備された道路がもう少し南側を東西に走っていますが、それ以前はこの道が主要道路だったのですが、今見ると非常に狭いですね。

参道入口

 参道入口には、社号標、鳥居が据えられています。参道から境内を望むと、真っ直ぐ社殿に向かって参道が伸びているのがわかります。
 社号標の上部はたぶん旧社格の「郷社」と彫られていたと思うのですがしっかりと塗り固められています。糟目犬頭神社 延喜式 と文字を掘るのではなく周囲を掘って文字を浮かび上がらせている非常に手の込んだ社号標になります。

二の鳥居と神門

 二の鳥居は越前鳥居と呼ばれる鳥居で、時の岡崎城主「本多豊後守康重」が慶長十年(1601年)に奉納した物なんだとか。岡崎市最古の越前鳥居であり岡崎市の指定文化財となっています。
 前述していますが、この辺りで本多重次が生誕している為か、本多康重は本多重次の系統かなとおもってしまいますが、同じ本多一門でもかなり遠い親戚といった繋がりになるようです。

 糟目犬頭神社と記された扁額が掲げられた四脚門の神門になります。岡崎市周辺で神門が設けられている神社は非常に少数となっていて、中々出会えない神社の構造物の一つとなっています。

手水舎・水盤

 露天の水盤となります。水盤をよく見ると水道管が治まる様に加工されています。なんだか味気ない水盤ですね。

狛犬

 熊野権現の合祀1000年記念として昭和62年奉納された子乗り玉乗り狛犬一対です。
この糟目犬頭神社には、他にも岡崎市の重要文化財に指定されている慶長15年(1610年)に奉納された狛犬一対が本殿前にあるそうなんですが・・・普段は非公開となっているようで・・・

 本殿を囲む瑞垣が中々物々しい雰囲気となっています。有刺鉄線まで張り巡らされていて、かつて侵入者がいたのかもしれませんね・・・。

社殿

 入母屋造瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。拝殿の填板が最近修繕されて真新しい木の色になています。

 拝殿中央の扉には、徳川家康から朱印を受けていた関係からか三つ葉葵の門が掲げられています。

地図で鎮座地を確認

神社名粕目犬頭神社
鎮座地岡崎市宮地町字馬場三一番地
最寄駅JR東海 東海道本線「岡崎駅」徒歩15分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である”天照大御神”とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

神社誌作成プロジェクト

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