寺院情報
寺院名 | 円通山 興昌寺 |
所在地 | 知多郡阿久比町大字福住字東脇十番地 |
御本尊 | 華厳釈迦牟尼仏 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 文亀三年(1503年) |
札 所 | 知多四国霊場 十四番札所 愛知梅花観音 三十一番札所 |
札 所 | ○ |
H P | - |
参拝日:2018年5月16日
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
興昌寺は文亀三年(1503年)に創建され、御本尊は京都の仏師竹内右門の作になります。
その後、永禄三年(1560年)に起きた桶狭間の合戦後、敗れた今川勢の家臣岡戸禰宜左衛門がこの福住に住み、現在の東浦町緒川にある曹洞宗の乾坤院四世亨隠慶泉大和尚を拝請し、開山した。
「知多四国めぐり」・「境内前阿久比町教育委員会案内板」より
知多四国霊場を行く
知多四国霊場十三番札所「板嶺山 安楽寺」の参拝を終え、その後安楽寺のすぐ隣に鎮座する「熊野神社」に立ち寄り参拝をしてきました。
安楽寺、熊野神社の前を流れる川沿いに進んでいくと、
電柱に興昌寺の案内看板と、橋には知多四国霊場の幟がはためいています。
安楽寺から500mほどの距離になります。
参拝記
地図を少し広域にして頂くと、東側に十三番札所である安楽寺が出てきます。以前の感覚でいえば、隣の村のお寺といった感覚でしょうか。
半蔵行者堂
この「円通山 興昌寺」の山門前には、「半蔵行者堂」と案内される行者堂が鎮座しています。
少々老朽化が心配な御堂ですが、この御堂には知多新四国開創に尽力した岡戸半蔵行者の像が安置されています。
岡戸半蔵とは?
宝暦二年(1752年)-文政七年(1824年)
興昌寺がある福住村に生まれる。妻子に相次いで先立たれ、発心して諸国遍歴の旅に出たそうです。そして四国遍路の最中の文政二年(1819年)、、妙楽寺住職亮山阿闍梨に出会い、霊場開創の大願に感銘し、私財を投げ打ち知多四国霊場の開創に尽力を尽くし、文政七年(1824年)に知多新四国霊場の開創と同じ年に誓海寺禅林堂にて没する。戒名は冷月院禅林逸学庵主。
福住の地には今も行者にちなむ、半蔵田・半蔵屋敷の地名が残っています。
岡戸半蔵が亡くなった誓海寺は知多新四国霊場二十七番札所になっており、更に知多新四国霊場開山所として禅林堂が選ばれています。禅林堂は岡戸半蔵を祀っている御堂になるんだとか。
こちらが半蔵行者堂の石柱標になります。札所以外にも石柱標が作られるんですね。
山門
瓦葺の薬医門の山門に潜り戸付きの袖壁が設けられています。
正面には本堂が見えています。
手水舎・水盤
手水舎があったであろう基礎の石が残っていますね。
水盤も、下駄を履かせたような独特の形をしています。
本堂
木造入母屋造銅葺平入の本堂になります。
廻縁もない曹洞宗らしい本堂になるのですが、実はこの本堂は昭和の時代に入り再建された物です。
明和元年(1764年)復興以来、空襲も台風も免がれてきた茅葺の本堂があったそうです。
昭和三十五年、遊んでいた中学生のロケット花火が茅葺屋根に突き刺さり、あっけなく燃え落ちてしまったんだとか。
昭和三十八年春、トタン屋根の本堂が落成。その当時、福住でたった一軒の雑貨屋さんは夏が来ても花火を置かなくなったという話があります。
銅葺屋根には花火が突き刺さらなくする為だったんですね。
弘法堂・観音堂
本堂脇には、観音菩薩が安置されている観音堂と、弘法大師像が安置されている弘法堂が経っています。写真の入母屋造平入の御堂が観音堂、左手の切妻屋根が重層となっているのが弘法堂になります。
非常に印象深い弘法堂になります。
千回巡礼、五百回巡礼、二百回巡礼・・・大先達の方々の足跡が飾られています。
1回の満願に1年を要している自分にとって、ありえない回数巡礼されています。しかも自分の様に車ではなく歩いて回っているんじゃないかな?と勝手な想像もしているんですが、どうでしょうね。
こちらの大師堂も宝塔に紐がくくられています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
どうゆう順番が良いのか解らないので、自分は弘法大師を参拝し納札を納めてからこの紐を握っています。
握っている時も、「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」は忘れずに。
となりの観音堂になります。
こちらの観音堂は愛知梅花三十三観音という霊場の第三十一番札所になっています。
ここ梅花観音霊場は、愛知県下の曹洞宗の寺院が開創した観音霊場となり、岡崎市、安城市、刈谷市にある7カ所の札所以外はすべて知多半島に札所があります。
そう思うと、知多半島は、非常に多くの霊場が入り乱れている場所なんですねえ。
御朱印
参拝を終えて
知多新四国霊場は知多三開山と呼ばれる亮山阿闍梨等・岡戸半蔵行者・武田安兵衛行者によって開創することができたと言います。知多に新四国霊場をと発起して開創まで十六年の月日を要しています。
今とは違い、すべては徒歩での移動だったはずですので、各寺院に弘法大師像を置かせてもらう交渉だけでも気の遠くなる距離を歩いているはずです・・・。この三開山のおかげで四国まで行かずとも巡礼ができる様になっって、こうやって開創後二百十年を迎え、この知多新四国霊場を自分も巡礼しているわけですから、巡る札所が増えていくたびに三開山の方達のありがたみを実感しています。
次の目的地は?
知多新四国霊場十四番札所「円通山 興昌寺」を後に、次は十五番札所「 龍渓山 洞雲院」を目指します。