伝説、伝承 岡崎市

大友皇子伝説(愛知県岡崎市東大友町・西大友町)

2020年8月21日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 碧海郡の「ワシトリ」には延喜式内社「和志取神社」が鎮座し、その神社の御祭神は第十二代景行天皇の皇子で、「勅命により三河の地の逆臣、君主に背く者の討伐をしこの地を治めた。」とされる「五十狭城入彦皇子」であったとされ、二つの和志取神社の論社である二社の丁度中間あたりにある「和志取古墳/紹介記事」は宮内省(現:宮内庁)により「五十狭城入彦皇子陵墓」と治定されています。

 そんなワシトリ伝承が残る場所から国道一号線を超えていくと、岡崎市東大友町、西大友町に入っていきます。この両大友町には、第三十八代天智天皇の皇子である大友皇子(第四十代弘文天皇)が壬申の乱にて密かにこの地に逃げ延び居していたという伝説が残っています。

そんな伝説の地を巡っていきたいと思います。

大友皇子とは?

皇極天皇四年(645年)、非常に有名な国政改革である「大化の改新」に突入する契機となる「乙巳の変」を主導した事で有名な「中大兄皇子(後の天智天皇)」の皇子となるのが「大友皇子」になります。

 大友皇子は、大化四年(648年)に天智天皇の第一皇子として生誕しています。母は伊賀采女宅子娘。姉には、叔父であり壬申の乱にて激突する「大海人皇子(後の天武天皇」の皇后であり、天武天皇崩御後に持統天皇となる「鸕野讃良皇女」がいます。

 天智天皇は、弟である大海人皇子を皇太子としていたが、我が子(大友皇子)をかわいがるあまり、大海人皇子の皇太子を剥奪し大友皇子を皇太子としたと「日本書紀」に書かれています。天智天皇の死期が迫る中、大海人皇子は突如出家し一族と共に都を抜け出て吉野に移ります。天智天皇が崩御すると、大海人皇子は挙兵して大友皇子と皇位を巡って激突する事になります。これが壬申の乱です。

 瀬田橋の戦いにて大敗を記した大友皇子は、天武元年(672年)七月二十三日に都にて首を吊り自決し、壬申の乱は終結しています。しかし、大友皇子は「壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説が今回紹介する岡崎市東大友町、西大友町の他にも、千葉県に残っています。

岡崎市の大友皇子伝説

 前述したように天武元年(672年)七月二十三日、大海人皇子の軍勢が迫ってくる中、大友皇子は大津宮近くの山崎(場所は未確定)の地にて自害したといいます。そして、大友皇子の首は大海人皇子の元に運ばれ首実検が行われた後、自害峰と呼ばれる場所に埋められたとされます。

 埋葬地も不明であり、大友皇子の御陵候補地は何ヶ所か存在していたそうなのですが、明治十年宮内省により大津市御陵町にある園城寺境内にある「亀岡古墳」が治定され「弘文天皇長等山前陵」となっています。

 簡素に書いていますが、日本書記に書かれている内容になります。しかし、岡崎市東大友町と西大友町に伝わる伝説では、「大友皇子は自害しておらず、大海人皇子による首実検されたものは身代わりの者の首であり、ひそかに大津宮の抜け出した大友皇子と祖の従者達は、伊勢神宮に逃げ落ち、そこから船を使い伊勢湾を横断し三河湾に至り、矢作川を遡上して現在の大友の地にたどり着いた。」とあります。
 大友の地にたどり着いた一向は、地元の者に非常に暖かく迎え入れたとされ、竹林の中に館を建てて住み着いたと言われています。この館が建っていた場所を丸藪と呼んでいたとも伝えられています。そして大友皇子はこの地で亡くなり、小針古墳に埋葬されたと言われています。古くからこの小針古墳は大友皇子の陵墓であるという言い伝えがあるそうです。

岡崎市の大友皇子伝説を巡る

丸藪の館跡と神明社

 大友皇子が天照大御神を御祭神とする社を建立したのが創建と伝えれれる神明社になります。後に大友皇子が亡くなると、地元の民は大友皇子を御祭神とする「大友神社」を建立するが、明治四十一年に神明社の本殿に合祀されています。
 現在ではここ神明社の境内に大友皇子が住んでいたと言われている「丸藪館の跡」の石碑が据えられていますが、元々は旧東大友公民館の敷地に建っていた物です。

大友皇子御陵跡

 東大友町の神明社から南に180mほど進んだ場所に、住宅地の一角にフェンスで囲まれた場所が見えてきます。このフェンスの中を見ると、「大友皇子遺跡」と彫られた石碑の奥に「大友皇子御陵」の石柱が据えられていました。この石碑の裏面には「一九〇八年十月一日村社へ合祀」と彫られている事から、この場所は「大友皇子」を御祭神としていた「大友神社」の境内地だったと思われます。

大友天神社

 東大友町にある大友皇子の遺跡を訪問し、次は丁度東大友町と西大友町の町境の道となっている県道26号線を横断して、西大友町に向かいます。

 西大友町には、「大友皇子」を御祭神とする「大友天神社」が鎮座しています。こちらの天神社は、大友皇子の従者である「長谷部信次」等が大友皇子が亡くなった後に皇子を偲んで建立した神社であると伝えられています。

大佛山玉泉寺

 大友皇子が開基と伝わる寺院になります。創建当時の寺名は「白鳳山洞導寺」
 大友皇子と従者である長谷部信次がこの地に持ってきた三体の仏像(薬師如来像、大日如来像、阿弥陀如来像)の阿弥陀如来像を本尊とし天智天皇の御製であると言われているそうです。三体の仏像の内、薬師如来は和志取古墳の東隣にある蓮華寺に、大日如来像は長谷部神社の境内にあった大日堂(現在は境内東隣りに遷座)にて奉安されているといいます。後に天台宗に改宗し、更にその後浄土真宗に改宗し現在に至っていまっす。

小針1号古墳(大友皇子御陵伝説地)

 現在は三菱自動車岡崎製作所の南側にある社員寮「小針ハイツ」や「小針研修寮」などに挟まれている公園に「小針1号古墳」があります。元々は前方後円墳であったとされますが、周囲を削れて現在は円墳の様な姿になっているそうです。
 古くからこの古墳の埋葬者は「大友皇子」であると伝えられているそうです。

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