寺院情報
神社名 | 北野神社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区大須二丁目十二番二一号 |
御祭神 | 菅原道真 |
旧社格 | 村社 |
創 建 | 元亨四年(1324年) |
境内社 | 稲荷社 |
神名帳 | - |
例祭日 | 三月二十五日 |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2019年12月11日
沿革・由緒
前回アップした「北野山真福寺寶生院(大須観音)」の記事の中で、大須観音が創建される切っ掛けは、元亨四年(1324年)に尾張国中島郡大須荘に後醍醐天皇の勅命により「北野天満宮」が勧請され、この天満宮の管理の為に元々大須荘にあった「中島観音堂」を別当寺としたことが始まりと紹介させて頂きました。
徳川家康の現在の地への移転指示の際にも、真福寺寶生院と共に天満宮も遷座されているようです。江戸時代に書かれた「尾張名所図会」にも境内に「天神」と書かれた祠が描かれています。
愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」によると
昔は北野社または北野天満宮と称して尾張国中島郡長岡の庄大須、今の美濃国羽島郡小藪村大字大須にあって、後醍醐天皇の勅願により元亨四年(1324年)山城国北野神社より菅公自筆の画像を奉還し鎮座すという。この画像は今は大須の寶生院にあり。康永三年(1344年)二月、焼失し慶長十五年(1610年)木曽川の洪水の災に流さる。同十七年家康。犬山城主成瀬正成をして寶生院と共に今の社地に遷座す。寶山院真福寺を北野山と号す。
明治五年、村社に列格し、昭和二十年三月の空襲により焼失す。その後復旧し、現在に至る。
と書かれています。この辺りの由緒は、別当寺として創建された大須観音の記事を書くために調べた内容と相違ない感じですね。
御醍醐天皇の勅命により、山城国の北野天満宮に納められていた「菅原道真公」直筆の画像を朝廷に返してもらい、そして新たに大須荘に建立した「天満宮」に納められたとあります。創建当時は御神体として納められていたのではないかと。
しかし、わざわざ京都の北野天満宮から菅原道真公の自筆の画像を徴収返還を受けてまでこの尾張国中島郡の大須荘に天満宮を造営した後醍醐天皇の意図はどこあったのでしょうか。
これまた、前回の「北野山真福寺寶生院」の記事の中で、既に個人的な見解を述べさせて頂いていますが、こちらでも。
天満宮が勧請された年は元亨四年(1324年)になり、時代的には「鎌倉時代末期」に当たります。この頃には、自分の思う様な親政が行えない事を不満に思っていた「後醍醐天皇」が鎌倉幕府の討幕を意識し始めた時期に当たるのではないかと思います。実際、元亨四年には露見し失敗してしまいますが「正中の変」が起こります。この政変に関与していると言われているのが美濃国を中心とした地域に勢力を広げていた「土岐頼貞」になります。土岐氏の助力を得る為に後醍醐天皇は大須荘に天満宮を勧請したのではないでしょうか。しかも、北野天満宮から奉還を受けた「菅原道真公直筆の画像」を御神体として。さらに、後醍醐天皇の帰依を受けた「能信上人」によって天満宮の別当寺である真福寺が建立されます。この辺りから、この中島郡周辺を後醍醐天皇が重要視していたことが浮かんできます。
室町時代初期、土岐氏が美濃、尾張、伊勢の参加国の守護大名に任ぜられるなど、室町幕府の中でもかなりの有力武将だったようです。それを考えると、鎌倉末期の頃には美濃を中心にかなりの勢力を誇っていた豪族だった事が見えてくる訳で、こうした豪族の力を得る事に後醍醐天皇は腐心していたんだろうと思います。
名古屋二十一大師を行く
名古屋二十一大師霊場一番札所「北野山真福寺寶生院(大須観音)」が別当を勤めていた「北野神社」を参拝していきます。正直、大須観音が元々別当寺であることも元々現在の岐阜県羽島市にあった事も今回参拝するまで全く知りませんでした。
大須観音が別当を勤めていた北野神社と紹介していますが、実際の所は、大須まで来たんだからと大須にある神社、寺院を参拝していこうといった気持ちで参拝したのが正直なところです。そして由緒を調べていたら、「あら!こんな由緒だったのね」とビックリするやら。そうなると、ある程度事前に由緒などを調べて遍路した方がいいのかなあと思うのですが、そうすると何か新鮮味が失われてしまう気もしてしまうので悩むところですね。
参拝記
まさに市街地に鎮座する典型的な神社の趣きの北野神社になります。天満宮より境内社の稲荷社の幟のが目立ちますね。大須商店街のメインルートからは外れているので、この北野神社の存在を知らない方のが多いかもしれませんね。まぁ、前述していますが、かくゆう自分も今回参拝するまでその存在すら知らなかったですから・・・。
境内全景
狭い境内に社殿を始めとする構造物が詰め込まれているのが見てわかるかと思います。なかなかパズルの組み合わせの様に苦心されたんだろうなあ。
社号標
鳥居の後に隠れる様に据えられている旧社格も併せて彫られた社号標になります。この社号標のうしろには・・・
臥牛
社殿正面にはまったく据えられる場所がないのは解りますが、ここまでして据えなければいけないものなのかと。この臥牛に気付かない方もいるのでは?
手水舎・水盤
木造銅葺二本柱タイプの手水舎になります。
やはり境内が狭いので、手水舎も場所をとらないタイプになっていますね。
社殿
拝殿を写そうと思うと、結局境内の外からしか撮影する事ができません。
切妻造銅葺妻入りの拝殿と呼んでいいのか、本殿の向拝の様な形になっています。
境内社
赤い幟と、稲荷社特有の赤い鳥居が非常に目を引く稲荷社になります。
やはり元々は門前町という事もあり、稲荷信仰も盛んな地域なのでしょうね。
鎮座地を地図で確認
神社名 | 北野神社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市中区大須二丁目十二番二一号 |
最寄駅 | 名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」1番出口 徒歩1分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
https://amzn.to/2UHeO79
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。
次の目的地は?
名古屋21大師を行く
二番札所「稲園山長福寺」を巡ります。
昭和二十年の空襲により焼失するまでは、大須観音より規模が大きく、大須地区の中心ともいえる寺院だったそうです。
大須界隈を巡る
大名古屋八十八ヶ所霊場六番札所である「久野山清安寺」を巡ります。
尾張藩城代家老「久野七郎左衛門宗信」が父の為に荒廃していた阿弥陀堂と現在地に移設し再興させたのが始まりの寺院です。