名所旧跡など

藤波畷の戦い(松平vs吉良:最後の決戦) 永禄四年九月

2018年6月3日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

前回紹介した、兵道塚と徳玄塚繋がりで、西尾市吉良町駮馬周辺にやってまいりました。長縄町から東に直線で約5km進んだ場所になります。


兵道塚・徳玄塚


5kmって聞くと「え?たった5kmなの?」と思わなくもないですが。

地図で見るとこんな位置関係

真ん中の小さい丸が長縄町を、左の丸は寺津地区、そして右の丸は駮馬地区になります。
今でこそ矢作川は放水路が作られて矢作古川としてこの地図の中央を南北に流れていますが、その昔はこの場所に矢作川本流と支流である弓取川が流れていたので、東西の交通の便は非常に悪かったんだろうと思われます。

さて、駮馬地区を取り上げるにあたり、何から記事にしていこうかと思っていたのですが、やはり、この駮馬地区にやってくる切っ掛けとなった兵道塚・徳玄塚が造られたきっかけとなった戦いである"藤波畷の戦い"から紹介してこうと思います。

"藤波畷の戦い" とは?

永禄四年(1561年)九月十三日に行われた、松平元康軍による東条城攻略戦になります。

永禄三年(1560年)五月十九日に起きた桶狭間の戦いで三河の地をほぼ掌握していた"今川義元"が討ち死に。上洛遠征の際に主君が討ち死にしてしまうという今川家内外の混乱に乗じて”松平元康”が岡崎城に入城し今川家から独立します。

当時の吉良氏は名前こそ残っていますが、今川氏の統治下に組み込まれ、一地方領主的な扱いだったんだろうと思います。(今川氏は遡れば吉良氏の分家筋にあたり、吉良荘の領地を安堵するなど優遇されていたはずです。)

さらに東条城の南側に目を向けると、今川氏服属していた東条松平家の重臣"松井忠次"が波城を拠点に小山田地区を納めていました。(この頃には饗庭城も納めていた可能性もあります。)

西条城には今川氏から牧野成定が城代として派遣されており、西条吉良氏と呼ばれていた時代の領地は今川氏直轄になっていたと思われます。

結局、桶狭間の戦いの後、一連の混乱の後に吉良氏に残った領地は、東条城と室城を中心にしたエリアのみだったと想像できまます。

そして、松平軍の吉良氏攻めは永禄四年一月頃から始まったとされています。

一月、室城攻め
四月、善明堤の戦い

善明堤の戦いでは、吉良側に手痛い反撃をもらった松平勢は、永禄四年六月頃から東条城を取り囲むように砦を気付いていきます。

東条城からわずか南に1kmの場所に小牧砦・津平砦が築かれ、それぞれに本多広孝、松井忠次が入ります。さらに室城を監視できる場所に糟塚砦を設け、小笠原宗忠が入り、東条城を取り囲み、連日連夜攻め立てる持久戦を展開したとされます。

上空から見る限りすでに東条城は孤立無援の状態の様にみえますが・・・。こんな状況でも吉良側は松平勢の攻撃を退け続けており、松平勢も攻めあぐねている様な状況でした。

東条城を守る武将の中に"富永伴五郎"という武芸でひときわ名声を得てた者がいました。一連の吉良氏と松平氏の争いの中で富安伴五郎は松平側に甚大な被害を与えており、松平側としても富永伴五郎を打ち破れば吉良は落ちるとまで考えていたと思われます。

そして、攻めての緊張感がピークに達した頃の永禄四年九月十三日、松平元康も岡崎城を出陣、小牧砦に陣を構えます。

砦の配置からいっても松平側の主攻は小牧砦に展開していた本多広孝になるかと思います。実際、本多勢の動きに合わせて東条城から富永伴五郎も城を打って出て、東条城から南東側にある藤波畷というところで陣を構えているようです。

畷という文字からわかる様に、周囲は田圃であり、馬が数頭横並びできる幅のあぜ道がまっすぐ伸びている場所だったと思います。田圃の様なところで戦う場合、どうしてもあぜ道に軍勢がかたまってしまう為、少数の富永勢でも本多勢と互角に戦う事ができます。

富永勢は多勢の本田勢と互角に戦っていた様です。特に富永伴五郎は獅子奮迅の活躍で本田勢と多大な被害を与えていた様ですが、最後は疲労の中、本多広孝の槍の前に力尽き、富永伴五郎は討ち死にします。


富永伴五郎が討ち死にした場所と言われる場所には、討死の地の碑が建てられています。
写真中央に見える木々の茂った山は東条城跡になります。見てわかる通り、東条城すぐ近くで藤波畷の戦いが行われていたのがわかると思います。逆をいえば、伴五郎が打ち取られた時も東条城の守備兵達は見えていたという事になりますね。

後世の1717年に富永伴五郎の戦死の地に地元の人々が地蔵尊を祀っています。

台座には
「昇翁浄安居士は其の姓冨永、其の名伴五郎、旧吉良東城の城主吉良義昭の家臣にして武功忠義の碑人なり、永禄四年辛酉秋東城の敗軍の節藤波縄手にて戦死せり、今に其の石墳有るのみ、故
に清水辰政、斉藤央信、天野元宣、鳥居宗次各名士旧跡荒廃せるを傷み地蔵菩薩 石像一躯を彫刻せり、永世往還の緇俗一膽一礼し法界衆城生と共にかく路に登る。

享保二庚子臘月(1717)施主 敬って白す」

と彫られているそうです。


将を失った富永勢は壊滅状態となり駮馬山方面まで追い詰められ、大河内小見、兵道、富永安徳玄も討ち死にし全滅してしまったんでしょう。

吉良屈指の将であった富永伴五郎の死は吉良勢の戦意喪失するには十分だったようで、吉良義昭は東条城の開城を決意。ここに南北朝の時代より吉良荘を納めてきた吉良氏の時代は終焉を迎えます。これで松平元康の西三河統一が果たされ、三河一向一揆を経て東三河を抑える今川氏への侵攻を進めていく事になっていきます。

敗れた吉良氏の領地は、津平砦で吉良氏と相対してた松井忠次と共に出陣をしていた東条松平家3代目の松平家忠が東条城を、富安伴五郎を打ち取った本多広孝が、伴五郎の領地だった室城周辺の地をそれぞれに与えられます。

そして敗れた吉良義昭は所説ありますが、元康の本拠地岡崎に移送されたという説と東条城からほど近くの岡山にいた説などありはっきりしませんが、三河一向一揆が起きた際、再び家康(1563年に元康から家康に改名)と相対する為に東条城を占拠することで再び歴史に登場してきます。

さて、次回は、近くまで来たので東条城を紹介したいところですが、やはり富安伴五郎ゆかりの地を順次紹介していこうと思います。

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