寺院情報
寺院名 | 石川山蓮泉寺 |
所在地 | 愛知県安城市小川町志茂三三九番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土真宗大谷派 |
創 建 | 1450年以降か? |
札 所 | ー |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2019年9月24日
沿革・由緒
「石川政康」の四男「石川康頼」が出家し「明了」となり開山した寺院が今回参拝する「石川山蓮泉寺」になります。
岡崎市と安城市は非常に浄土真宗の寺院が多い地域になります。これは三河一向一揆に代表される様に、浄土真宗本願寺派(現在は大谷派と西本願寺派と分裂)の一大拠点「三河教団」が形成されていた歴史があるためです。
京都を追われる様に全国に布教を行っていた本願寺派八世「蓮如」は下野国にて石川政康と出会い、政康を引き連れて三河国に布教の為に訪れます。一説には、石川家は室町幕府守護大名である「一色家」の被官であり、小川の地に所領を持っていたとも言われています。石川政康は、蓮如上人に帰依し、真宗本願寺派三河教団の大檀那としてこの地の真宗本願寺派の布教に多大なる貢献を果たした武将であると言われています。
元々浄土真宗本願寺派の布教が殆ど行われていなかった三河の地において、上宮寺、勝髪寺、本證寺と後に真宗三河三ヶ寺と呼ばれる寺院が次々に真宗本願寺派へ改宗し、更に、土呂の地に石川政康が建立した「本宗寺」の寄進を受け、法主持ちの寺院とし、三河教団の形成がなされていきます。
そんな流れの中、石川政康四男「康頼」が蓮如上人の下で出家修行するのもいわば必然的な流れとも考えれ、後に「明了」となると居城としていた「小川志茂城」の近くに石川家の菩提寺として「石川山蓮泉寺」を創建開山しています。
蓮泉寺には、石川政康、忠輔、一正の墓石や一族の位牌などが存在すると「碧海郡桜井町誌」に記されています。
歴史探訪
この地の浄土真宗本願寺派の大旦那として非常に大きな影響力を持っていたと考えられる石川家の菩提寺になります。系図にも出てくる「石川忠輔」は松平清康を支えた岡崎五人衆の一人に名を連ねる松平家家臣として重要な地位を有していた事がわかります。上記から、この地を納める松平家の家臣としての顔と、この地を中心として非常に力を持ち始めていた浄土真宗本願寺派の大檀那としての顔という二面性を有していたのが石川家であるといえるのではないでしょうか。
このため、三河一向一揆のが終結後、破壊棄却された本宗寺を中心とする土呂の街を復興の責任者となったがのが「石川数正」になります。一向一揆が起こる直前の本宗寺を中心とする土呂の街は、三河国で最大の規模を誇った門前町とも言われ、言うまでもなく西三河の商業の中心地だったとされています。土呂の街を復興させることが松平家としても最重要事項であったことが、石川数正にこの事業に当たらせている事からも伺う事ができます。
そんな徳川家において、酒井氏と双璧をなす宿老の家系が石川家と考える事が出来る訳ですが、ある日突然「石川数正」が出奔してしまい、徳川家の組織形態もすべて根本から作り直す事態になってしまいます。それ以降数正の一党は徳川家から冷遇されてしまう事になります。
蓮泉寺の寺名が世に知られるのは、明治四年、当時の明治政府が行っていた神仏分離や廃仏毀釈の流れもあり、政府は寺院も統廃合させようとしていたとしていると危機感があり、当時の大浜を支配していた菊間藩の役人と交渉しているうちに寺院側が暴走し役人を一人殺害してしまうという「大浜騒動」において、寺院側を動かしていたとされる「三河護法会」の幹事を務めていたのが蓮泉寺住職だった「石川台嶺」になります。事件が沈静化した後、政府による裁判により石川台嶺を始めとする32名が斬首の上火葬されています。火葬された場所は蓮泉寺の近くにあり、現在そこには「護法有志の墓」が建立されています。
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参拝記
桜井町から小川町を抜け木戸町に向かう市道沿いに「石川山蓮泉寺」はあります。「小川町志茂交差点」からすぐ北側に境内入口があるのでわかりやすい場所かと思います。
境内入口
蓮泉寺の境内入口になります。寺院によくある山門部分が一段奥まった場所に作られている様式になっていますね。ここだけみていると、城郭の虎口の様にみえてきますね。
その奥に本来なら薬医門や四脚門の山門があるとおもうのですが、ブロック塀による石柱門が据えられています。
石柱門の前後に四脚門の土台石と思われる物が四ヶ所ありました。石柱門が立っている場所は門柱が据えられていた場所でしょうか。断言はできませんが、もともと蓮泉寺には四脚門の山門があったと考えられます。
寺号標
境内正面、一番目立つ場所に「石川山蓮泉寺」と彫れらた寺号標が据えられています。石川家の菩提寺だから山号も石川山なんでしょうね。
手水舎・水盤
木造瓦葺六本柱タイプの手水舎になります。見てわかって頂けるかと思いますが、中間柱が少し奥側にずれていいます。手水舎と井戸跡の幅の違いに柱を合わせているんですね。
本堂
入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられ濡れ縁がある本堂になります。自分の思い浮かべるお寺の本堂の王道スタイルって感じがします。
石川政康墓所と護法有志の墓
蓮泉寺の境内を出て少し北側に歩くと、交差点部分に「大浜騒動護法有志之墓参道」という案内石柱が設けられています。この道標に従って路地を進んでいくと
ブロック塀に囲まれている墓所が見えてきます。
向かって左側が「石川政康の墓所」で右側が「護法有志の墓所」になります。
石川政康の墓所
石川氏がここ小川町に住みつくきっかけとなった小川城築城主でもある「石川政康」の墓所になります。墓石の隣に据えられている墓誌によると、石川政康は文明十八年(1486年)七十五歳でこの地で亡くなったと記されています。
桜井町誌では石川忠輔、一正の墓石もあるということでしたので、もしかしたら政康の五輪塔の横に据えられている墓石が忠輔、一正の墓石なのでしょうか。
護法有志の墓
正直な所「大浜騒動」という名前は聞いていても、今一つその実態についてはよくわかっていないというのが正直な所だったりします。ただ、今回大浜騒動に所縁のある場所を巡ったのをきっかけに一度大浜騒動についても追いかけてみたいと思った次第です。近いうちに、大浜騒動所縁の寺院や場所が紹介記事としてアップされていく事があると思いますので、その時はお付き合いの程よろしくお願います。
しかし、石川政康の四男が開山した蓮泉寺はその後も連綿と石川一族によって住職が引き継がれていたんですねえ。
地図で所在地を確認
寺院名 | 石川山蓮泉寺 |
所在地 | 愛知県安城市小川町志茂三三九番地 |
最寄駅 | あんくるばす二号桜井線「小川バス停」すぐ |