兵道塚・徳玄塚(西尾市長縄町・観音寺境内)

前回紹介した観音寺の墓地の一画に自然石の塚が2基安置されています。元々東条城の北東側にある駮馬山にあったそうなのですが、圃場整備があり、故あって長縄町の観音寺に移設されたそうです。


観音寺


兵道塚と徳玄塚とは?

この兵道塚と徳玄塚なんですが、前述の通り元々は東条城ちかくに据えられていた塚で、永禄四年年九月、東条城の攻防の際討ち死にした大河内小見兵道と富永伴五郎の弟で僧だった徳玄を祀った塚だと言われています。

現在、両塚の間に石碑が据えれていて、その石碑には

「永禄四年九月、松平元康公と東條吉良氏との戰に、東條方に味方し東條城落城のとき、駮馬山にて討死し、その地に葬られて兵道塚と呼ばれた。昭和五十九年九月、吉良土地改良転作促進対策事業ほ場整備のため、吉良町の要請により、駮目山より此の地に移す 昭和六十年春彼岸」

と書かれており、裏側には

大河内左京之助兵道
法名王岑正宝大居士
永禄四年九月三日

大河内善左衛門小見
法名開心道運大居士

と彫られています。


永禄四年九月の戦いとは、松平元康が吉良義昭が守る東条城を攻める最後の戦い”藤波畷の戦い“の事をいいます。東条城が落ちる日まで吉良家の宿老だった大河内氏も吉良氏側に付き戦っていたことが、兵道塚の由来から読み取ることができます。

また、徳玄塚の由来になった富永徳玄なんですが、吉良方宿老の富永伴五郎忠元の弟で出家し”徳玄”と名乗っていたそうなのですが、僧籍のまま”藤波畷の戦い”に参戦し、最終的には東条城の北東側の駮馬山まで松平軍の追い込まれ大河内小見と共に討ち死にしたと言われています。

ただ、大河内氏の家系図を調べても、大河内小見、大河内兵道の両名とも名前が出てこないので、兵道塚と呼ばれている方に大河内氏両名が祀られているかはわかりませんが、松平氏と吉良氏の東条城を巡る攻防戦での戦死者追悼の碑では間違いないと思います。


藤波畷の戦いの頃の松平軍と吉良軍のかんたんな配置図になります。

東条城からみて南側の開けた場所に、松平軍は砦を築き、小牧砦には本田広孝を津平砦には松井忠次を配置していました。また、富安忠元の居城”室城”の抑えに、糟塚砦を築き小笠原宗忠を配置していました。

東条城西側で起きた藤波畷の戦いで富永忠元が討たれ、吉良側は東条城に入城することも出来ず、東条城北東側の山側まで攻め込まれ全滅したことが読み取れますね。


長縄から始まる歴史探訪ですが、次回から東条城周辺を散策していきたいと思います!

 

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