小山田地区の北側を塞ぐように山の稜線が連なっています。その山の尾根を利用して中世に作られたのが”波城”になります。
松井家と正龍寺
この波城を納めていたのが、今回紹介する正龍寺を菩提寺とする松井氏になります。この松井氏は、清和源氏の子孫になり、源為義の子、十四男"維義"が備中国松井壮に居を構え、松井性を称したのが始まりと言われています。
案内板には、永享十一年(1439年)にこの地に移住したとありますが、どういった経緯で三河国吉良荘に移住したのかは不明ですが、この地を納めていた東条吉良家の家臣もしくは属臣として仕えていたんだろうと思われます。
その後、東条吉良家を継いだのが松平家の一族で東条松平家でした。この東条松平家の誕生にかかわってくるのが、後に松平性を授かる松井忠次です。
この正龍寺には先にも述べましたが、松井家の菩提寺として、松井忠次の祖先の墓所が一角に存在します。
松井家が大名に上り詰めていくのは、忠次の大きな決断があったからだと思います。桶狭間の合戦まで、三河地方は今川家の影響下にあり、松平家、吉良家などは今川家の家臣化していました。そして、桶狭間の合戦が起き、今川家首領の義元が織田信長に討たれます。この時、独立の道を進むことを選択した松平家、変わらず今川家追随の姿勢を見せた吉良家、この時、松井忠次は今までの関係性を考えれば今川-吉良家ラインを選択する所なんでしょうが、松平側に立ち東条城攻めなどに従軍し軍功を上げていったそうです。
桶狭間の合戦以降の三河地方における今川方の混乱ぶりがわかる事例ではないでしょうか。
正龍寺前に鎮座する祠
正龍寺の山門脇には、神明造の社が鎮座しています。
詳細は不明なんですが、千木が外削ぎ、鰹木は奇数という事で、男神が祀られているんだろうと推定できます。
秋葉神社かな?と思わなくもないですが、もしかしたら波城に祀られていた戦の神ということで八幡社かも・・・。正龍寺さんに電話して聞けばいいんですが、こういった推敲も楽しみの一つという事で。
なかなか立派な造りの祠です。神社の本殿としても十分な大きさがあると思います。
次回は、松井家繋がりで「波城」を紹介していこうと思います。