神社情報
神社名:八幡社
鎮座地:西尾市吉良町大島一反畑七番地
御祭神:譽田別尊、建早須佐之男命、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、宇迦之御魂神、大綿津見命
旧社格:神饌幣帛料供進指定村社
創 建:寛永元年(1624年)
境内社:稲荷社、熱田社
例大祭:五月第二日曜日
御朱印:-
H P:-
参拝日:2017年11月1日
御由緒
寛永元年(1624)九月九日、この地に産土神と定めたが正保四年(1647)三月二十六日、現在地に遷座した。元禄年間(1688-1703)領主の松平万治郎扁額を奉納す。明治五年十月十二日、村社に列し、同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定を受けた。昭和二十年一月十三日、三河地震により本殿倒壊、同三十年新宮古材の払下げを受け、本殿を再建する。同五十九年四月一日、白アリの被害により社殿を改築した。
愛知県神社庁 発刊
「愛知県神社名鑑」より
八幡社由緒
祭神:譽田別尊
配祀
津島社 建早須佐之男命
御鍬社 伊佐波登美命、玉柱屋姫命
綿津見社 綿津見大神
当地方は元和元年(1615年)より松平備前守の所領となり矢作古川より流出した白砂が堆積して山のようになっていた。元和年ここに堤防を築き人々が住居を構えるようになった。以来この地を大島と名づけられ小祠を建て神を祀った。寛永元年(1624年)より氏神として崇敬され正保四年(1647年)現在の地に遷宮して奉斎した。正徳三年(1713年)に津島社、明和五年(1768年)に御鍬社、文化五年(1808年)に稲荷社、弘化二年(1845年)に綿津見社、大正二年(1913年)に熱田社を境内神社として歓請した。貞享二年(1685年)に社殿を再建、安政元年(1854年)大地震と大津波により倒壊流失したが村を挙げ復旧された。
明治五年村社に列せられ、同四十年神饌幣帛料供進に指定された。昭和三年御大典記念として社殿を改築、同二十年三河大地震により倒壊した。同三十年伊勢の神宮より古材の撤下を受け再建したが、白蟻の被害しくこの度安政年間に建てられた拝殿の老朽とともに氏子一同相図り改築した。
境内神社
稲荷社 祭神 宇迦之御魂神
熱田社 祭神 熱田大神
明治の初め字上に歓請してあったのを移転奉祀した。
境内内御由緒書より
参拝記
神社周辺情報
河口に近い為、川の堤防というより海の堤防といった雰囲気の河口近くの矢作川沿いに鎮座するのがこの吉良町大島の八幡社になります。
一枚目の写真を撮影した場所から方向を変えると、今は廃線となった名鉄三河線の碧南ー吉良吉田間の廃線跡が残っています。こんな感じで盛土部分がそのまま残っていて、現在ソーラー発電に転用されています。
参道
堤防と田んぼに挟まれる形で参道が伸びています。片側には幟立石が設けられています。
社号標
旧社格が埋められずそのままの姿を保っている社号標になります。
鳥居
大島八幡社と彫られた扁額が取り付けられた真鍮製?の両部鳥居がお出迎え。
この鳥居は実の所、非常に珍しいスタイルなのではないでしょうか。
手水舎・水盤
二本柱タイプの銅葺コンクリート造りの手水舎になります。
二本柱タイプは重心が上の方にあって見た目のバランスが難しいなと思います。
狛犬
昭和三年生まれの子乗り、玉乗りの狛犬一対
神楽殿
鉄骨の骨組みだけの神楽殿になります。
舞が演じられるときは幕が張られているようです。
社殿
入母屋造、瓦葺、平入、高覧のついた縁が設けられた拝殿になります。
昭和五十九年の造営工事の際、拝殿、幣殿、本殿が一体となった社殿に改築されています。
資料によると、この八幡社の本殿は昭和三十年の再建の際、神宮から古材を頂いている関係もあって神明造となっていて、覆殿は設けられていなかったみたいなのですが、現在では流造の本殿が設けられています。
境内社
社殿向かって左側に鎮座する稲荷社
社殿向かって右側に鎮座する熱田社
懸魚・鬼瓦
鰭無しの蕪懸魚が設けられているのですが、撮影し忘れた為画像がありません。
参拝を終えて
かなり沿岸部に近い神社という事もあり、津波の被害もあり、さらに大地震の被害もあり、様々な苦節がありがながら、氏子の皆様の尽力で再建を数度果たしてきた神社なんですね。
元々干拓された土地柄なので、森というより防風林を兼ねた松林が広がっていたんだろうと思います。その名残なのか、境内には多くの松の木がありました。
海沿いに鎮座する神社独特の雰囲気を是非感じてほしいと思います。