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上ノ郷城跡(愛知県蒲郡市) 鵜殿氏居城

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城郭詳細

城 名:上ノ郷城
所在地:愛知県蒲郡市神ノ郷城山地内
築城年:不明
築城主:鵜殿氏?
城形式:丘城
遺 構:曲輪、土塁、空堀
規 模:-

訪問日:2018年7月12日

沿革・詳細

室町時代末期、戦国時代に鵜殿氏の居城として整備された城郭になります。鵜殿氏は紀伊半島南部の熊野地方から西都(蒲郡)に移ってきた一族になります。

上ノ郷城の他に、下ノ郷城、不相城、柏原城など現在の蒲郡中央部分を治めていました。今川氏の三河進出により今川方に付いた鵜殿氏は共に今川方に付いていた竹谷松平氏、五井松平氏、形原松平氏と共に現在の蒲郡を治めていきます。そして、善応寺の紹介記事でも出てきた”鵜殿長持”は今川義元の妹を妻とし、急速に力をつけていった事が想像できます。

しかし、永禄三年(1560年)に起きた桶狭間の合戦により今川義元が討ち死にすると鵜殿氏を取り巻く状況は一変します。今川氏から独立した松平元康が三河統一に向けて西都に攻め込んできました。鵜殿一族は松平側に与するか、義元は打ち取られ三河国で影響力が低下してはいるが今川側に与するか、鵜殿一族の中でも対応が分かれます。上ノ郷城の鵜殿氏は今川方に、それ以外の鵜殿一族は松平方に分かれてしまいます。

そして、永禄五年(1562年)2月、松平元康は上ノ郷城攻めを行います。合戦当初は上ノ郷城の堅い守りで松平側に多大な損害が出ますが、2月4日の深夜、夜陰に乗じて元康配下の忍者が上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱し落城したと伝えられています。当時の城主”鵜殿長照”は討ち死に、二人の息子は捕縛されます。

この時捕縛した鵜殿長照の息子を氏長、氏次と言い、今川氏に捕らわれたままになっていた築山殿(元康の正妻)・松平信康(元康の長男)の解放のための人質交換の交渉に使われ、今川氏に引き渡されています。しかし、結局今川氏が徳川氏、武田氏によって攻め滅ぼされ、鵜殿氏長・鵜殿氏次の両氏は徳川氏に仕えることになっていくのは時代の悪戯な感じがしますね。

その後の上ノ郷城は、松平元康の義理の父”久松俊勝”が入城し、家康の関東移封に伴い久松氏も関東に移る際に廃城になったということです。

訪問記

蒲郡市の中央公園の北西に上ノ郷城址があります。
現地は周囲がミカン畑になっていて、車で訪問する際は近くの赤日子神社の境内脇に設けられた駐車場を利用する形になります。

結構わかりにくい場所になりますので、地図を載せておきます。

赤日子神社の駐車場には、上ノ郷城址の説明板が設けられています。また、蒲郡市教育委員会が作成した”上ノ郷城跡”というパンフレットも用意されています。(写真の掲示板の右足部分に防水容器にパンプレットが入っています。)

蒲郡市としては上ノ郷城を押しているのか、赤日子神社から上ノ郷城址までの道先案内板が辻ごとに設置されています。おかげで全く迷うことなく上ノ郷城址までたどり着けますよ。

上記の場所からミカン畑の中を抜けていく事になります。
この辺りの石垣も当時の物だと言いたいところですが、近年ミカン畑を整備した時に作られた物でしょうね。

本丸ではなく、その手前に設けられた上ノ郷城址の石碑になります。

さらにミカン畑を進んでいくと・・・

本丸部分にたどり着けます。
10年以上以前にも訪問したことがあるんですが、当時はこんなに開けた場所はなかった記憶があります。やはり発掘調査でかなり重要な城跡だと認定され、市としても保存しているおかげなんでしょうね。

現地に据えられた上ノ郷城の説明板。

上ノ郷城を攻め落とした後、義理の父親である久松氏を城主に任命しているあたり、松平元康としてもこの上ノ郷城を重要視していた事がわかりますね。

本丸から南を望みます。
三河湾を一望できる場所なのがわかりますね。
海の向こうの山影は元康が上ノ郷城を落としたときはまだ今川氏の勢力下にあった渥美半島になります。この上ノ郷城を攻め落とした時には寺部城の小笠原氏はすでに松平氏の傘下に加わっており、幡豆から蒲郡の海辺には松平氏の水軍が渥美半島方面ににらみを利かせていたのかもしれませんね。

投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。

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