ONE POINT
戦国時代、今川義元の妹を娶ったとされる鵜殿長持の本城として整備された平山城になります。桶狭間の戦い以降、三河統一を目指す松平元康(徳川家康)との間ではじめて忍者が投入されたと言われる攻城戦の末落城し、その後、元康の義父である久松俊勝が入城しています。
城郭紹介
城郭情報
城郭名 | 上ノ郷城(上之郷城) |
所在地 | 愛知県蒲郡市神ノ郷城山地内(Googlemap) |
築城主 | 鵜殿氏? |
築城年 | 不詳 |
城形状 | 平山城 |
規 模 | ー |
廃城年 | 天正十八年(1590年) |
遺 構 | 曲輪、土塁、空堀 |
文化財
国 宝 | ー |
国指定 | ー |
県指定 | ー |
市指定 町指定 村指定 | 指定史跡 |
見学情報
御城印 | 〇/蒲郡市博物館 |
駐車場 | 〇/赤日子神社駐車場を使用 |
訪問日 | 2018年7月12日 |
御城印の保管に
御朱印ブームの柳の下のどじょうではないですが、ある時まさに彗星の如く登場した感のある「御城印」。各神社や寺院で押印してきた御朱印と異なり、各地方自治体が観光PRも兼ねて発行している事もあり、御城印を用意する城址の数がまさに「うなぎ上り」の如く増加しています。
御朱印帳に記入していただく御朱印と異なり、御城印は基本書置きの物になり、またそのサイズも統一されているわけではないようです。そんな御城印を管理される場合、ポケット型の御城印帳が非常に役に立ちます。御城印を集められる方は是非用意してほしい一冊です。
沿革
築城年代については諸説ありはっきりしないのですが、戦国時代に鵜殿氏の居城として整備された城郭になります。鵜殿氏は紀伊半島南部の熊野地方から西都(蒲郡)に移ってきた一族になります。
鵜殿氏は上ノ郷城の他に、下ノ郷城、不相城、柏原城など現在の蒲郡中央部分を治めていました。今川氏の三河進出により今川方に付いた鵜殿氏は共に今川方に付いていた竹谷松平氏、五井松平氏、形原松平氏と共に現在の蒲郡を治めていきます。そして、「善応寺/紹介記事」の由緒の中で出てきた"鵜殿長持"は今川義元の妹を妻とし、急速に力をつけていった事が想像できます。
しかし、永禄三年(1560年)に起きた桶狭間の合戦により今川義元が討ち死にすると鵜殿氏を取り巻く状況は一変します。今川氏から独立した松平元康が三河統一に向けて西都に攻め込んできました。鵜殿一族は松平側に与するか、義元は打ち取られ三河国で影響力が低下してはいるが今川側に与するか、鵜殿一族の中でも対応が分かれます。上ノ郷城の鵜殿氏は今川方に、それ以外の鵜殿一族は松平方に分かれてしまいます。
そして、永禄五年(1562年)2月、松平元康は上ノ郷城攻めを行います。合戦当初は上ノ郷城の堅い守りで松平側に多大な損害が出ますが、2月4日の深夜、夜陰に乗じて元康配下の忍者が上ノ郷城内に忍びこんで火をつけ、城中が混乱し落城したと伝えられています。当時の城主"鵜殿長照"は討ち死に、二人の息子は捕縛されます。
この時捕縛した鵜殿長照の息子を氏長、氏次と言い、今川氏に捕らわれたままになっていた築山殿(元康の正妻)・松平信康(元康の長男)の解放のための人質交換の交渉に使われ、今川氏に引き渡されています。しかし、結局今川氏が徳川氏、武田氏によって攻め滅ぼされ、鵜殿氏長・鵜殿氏次の両氏は徳川氏に仕えることになっていくのは時代の悪戯な感じがしますね。
その後の上ノ郷城は、松平元康の義理の父"久松俊勝"が入城し、家康の関東移封に伴い久松氏も関東に移る際に廃城になったということです。
主な清州城主
- 鵜殿長照
- 久松俊勝
訪問記
蒲郡市神ノ郷町に鎮座する延喜式内社である「赤日子神社/紹介記事」の境内西側に設けられた参拝者用駐車場から北西を望むと丘陵上に今回紹介する「上ノ郷城址」の看板を見る事が出来ます。上ノ郷城址の周辺はミカン畑となっており駐車場がないので、赤日子神社の駐車場を使用して上ノ郷城址へ登城する事になります。
蒲郡市教育委員会も上ノ郷城の発掘などに力を入れている様で、赤日子神社の駐車場には、上ノ郷城址の説明板が設けられています。また、蒲郡市教育委員会が作成した"上ノ郷城跡"というパンフレットも用意されています。(写真の掲示板の右足部分に防水容器にパンプレットが入っています。)
こうした案内説明版が赤日子神社の駐車場に設置されているところを見ると、この駐車場を利用して上ノ郷城へ登城する事を推奨しているようですね。
かなり小さくなってしまいましたが、赤日子神社から上ノ郷城址への経路を載せておきます。現地には案内矢印が設置されているので迷う事はないかと思います。
上ノ郷城に向かってみよう
蒲郡市としては上ノ郷城を押しているのか、赤日子神社から上ノ郷城址までの道先案内板が辻ごとに設置されています。おかげで全く迷うことなく上ノ郷城址までたどり着けますよ。
上記の場所からミカン畑の中を抜けていく事になります。
この辺りの石垣も当時の物だと言いたいところですが、近年ミカン畑を整備した時に作られた物でしょうね。
本丸ではなく、その手前に設けられた上ノ郷城址の石碑になります。
さらにミカン畑を進んでいくと・・・
本丸部分にたどり着けます。
10年以上以前にも訪問したことがあるんですが、当時はこんなに開けた場所はなかった記憶があります。やはり発掘調査でかなり重要な城跡だと認定され、市としても保存しているおかげなんでしょうね。
現地に据えられた上ノ郷城の説明板。
上ノ郷城を攻め落とした後、義理の父親である久松氏を城主に任命しているあたり、松平元康としてもこの上ノ郷城を重要視していた事がわかりますね。
本丸から南を望みます。
三河湾を一望できる場所なのがわかりますね。
海の向こうの山影は元康が上ノ郷城を落としたときはまだ今川氏の勢力下にあった渥美半島になります。この上ノ郷城を攻め落とした時には寺部城の小笠原氏はすでに松平氏の傘下に加わっており、幡豆から蒲郡の海辺には松平氏の水軍が渥美半島方面ににらみを利かせていたのかもしれませんね。
鵜殿氏所縁の史跡の紹介
蒲郡市に点在している鵜殿氏所縁の史跡も巡っています。ぜひ、上ノ郷城を登場した際にはこちらも巡ってみてください。
正祷山 長存寺(蒲郡市上本町) 下ノ郷鵜殿氏菩提寺
寺院情報 寺院名:正祷山 長存寺鎮座地:愛知県蒲郡市上本町四番地五号本 尊:十界曼荼羅宗 派:法華宗陣門流創 建:文安二年(1445年)H P:-御朱印:- 沿革・御由緒 境内に乘圓坊(寛永十四年十二月創立)智積坊(慶長十五年三月創立)の二坊あり。寺領三石この寺は往昔天台宗だと伝わる。鵜殿氏の墓あり。 宝飯郡誌より 文安二年、越後国三条市の本成寺三世である日存により天台宗の寺院であった実相坊を法華宗に改宗しています。その後、下ノ郷城主である鵜殿長存の帰依を受け、伽藍を整備、長存が死去後、法号「長存院日長」 ...
久古山 正行院(蒲郡市神之郷町中山本) 上ノ郷城主"鵜殿氏"霊碑
寺院情報 寺院名:久古山 正行院 鎮座地:蒲郡市神之郷町中山本七十六番地一 本 尊:久遠本仏釈尊 宗 派:法華宗(陣門流) 創 建:延宝六年(1678年) H P:- 御朱印:- 沿革・由緒 往古は久古山妙了寺と称し鵜殿家の菩提寺なりし、永禄五年鵜殿落城の際荒廃し釈迦堂の名のみ存せりしを延宝六年二月に再興し、元禄九年現在の正行院に改称した。 「三河国宝飯郡誌」より 参拝記 今回紹介する正行院は、上ノ郷城の北西に位置する場所に鎮座しています。元々は上ノ郷城主だった鵜殿氏の菩提寺として創建されたそうなのですが ...
上ノ郷城跡(愛知県蒲郡市) 鵜殿氏居城
戦国時代、今川義元の妹を娶ったとされる鵜殿長持の本城として整備された平山城になります。桶狭間の戦い以降、三河統一を目指す松平元康(徳川家康)との間ではじめて忍者が投入されたと言われる攻城戦の末落城し、その後、元康の義父である久松俊勝が入城しています。
巌松山 善応寺(蒲郡市元町) (旧)三河新四国 二番札所,三河新四国霊場 四十九番,五十番札所
寺院情報 寺院名 巌松山 善応寺 所在地 愛知県蒲郡市元町十三番地十八 御本尊 阿弥陀如来 宗 派 浄土宗西山深草派 創 建 永正五年(1509年) 札 所 (旧)三河新四国 二番札所 三河新四国 四十九、五十番札所 三河三十三観音 十四番札所 東三新四国 五十八番札所 穂の国観音 十八番札所 御朱印 〇 H P - 参拝日:2018年7月12日 再訪:2019年5月16日 三河新四国霊場札所一覧はこちらから https://jinja.dr-leather.com/reijou-aichi/mikawa ...
地図で所在地を確認
城郭名 | 上ノ郷城 |
所在地 | 愛知県蒲郡市神ノ郷城山地内(Googlemap) |
最寄駅 | 鉄道:JR/名鉄「蒲郡駅」徒歩24分 バス:蒲郡市コミュニティバス「赤日子神社バス停」徒歩5分 |