名鉄蒲郡線と旧国道247号線の間に挟まれるように建っているのが今回紹介する弘法堂になります。何故ここに弘法堂があるのかは不明だったりますが、三河海岸大師霊場を巡っている途中に、南無弘法大師と白抜きされた赤い幟を見てしまっては、寄らないわけにはいきません。
こんな感じで、祠が見える訳ではないのですが、赤い幟が目立つこともあり、何やら寺院か祠が鎮座しているのが察することができる雰囲気を醸し出しています。
その脇には、幡豆町の寺社を巡っているとよく見かける"はずの民話"の案内看板が
金剛童子
桑畑村の北にある御林山のふもとに、治兵衛という地主がいました。
人里はなれて住む治兵衛は、村人と話をするのが何より楽しみでした。そんな治兵衛も年とともに、村までの坂道がだんだんつらくなってきました。
「村の衆が、わしの家まで来てくれたら、どげんかよかろうに」
と、思うようになりました。
そのころ、あちこちの村では小さなお堂を建てて、神や仏を祭ることがはやっていました。
「そうだ。わしの家の近くに何ぞ祭ったら、村の衆がお参りして、帰りに寄ってくれるかもしれん」
そう思いつくと、さっそく家から少し東へはなれた所にお堂を建てました。
「あれは、青面金剛童子さまといって、悪い病気や災いから村を守ってくださる、そりゃあ、ありがたい仏さまだ。みんな参っておくれ」
治兵衛が伝えたかいがあって、村人はお参りし、治兵衛の家にも立ち寄るようになりました。
治兵衛は、すっかり気をよくしていました。
その夏、二度も大きなあらしがやって来ました。海に近い桑畑村は大変なあれようで、家はこわされ、作物は流されて、村人の暮らしはたちまち苦しくなりました。そのうえ、疫病が村じゅうに広がりました。
「平七の兄ととなりのみつも、はやり病にかかったそうな」
「なあ、おらあ思うだがよ。こう悪い事が起きるようになったのは、あの金剛童子を祭るようになってからじゃねえか」
うわさはパッと広まりました。
(そ、そんなばかな)
治兵衛は、そう思いながらも気にせずにはいられません。
「村の災いが金剛童子さまのせいだなんてうそでごぜえましょう。どうか一日も早く村を救ってくだされ。お願いしますだ」
治兵衛は、だれもこなくなったお堂に出かけては、毎日祈りました。しかし、疫病の勢いはおさまるどころか、一人二人となくなる人も出てきました。治兵衛は、とうとうお堂にこもって祈ることにしました。
おこもりを始めて二十一日目のことです。さすがの治兵衛もつかれて、いねむりをしてしまいました。
「これ、治兵衛」
はっとして頭を上げると、顔は青く、髪の毛を逆立てた金剛童子の姿がありました。「治兵衛、よく聞け。このはやり病は、わしのいる所が桑畑村の鬼門に当たるからじゃ。よいか、わしを村の北に移し、この地に鬼門よけのお社口を祭るのだ。そして、この辺りを金剛童子と呼ぶがよい。そうすれば、きっとこのはやり病は治めてやろう」 夜明けを知らせる鐘の音で我に返った治兵衛は、ぶるぶるふるえておりました。
「ああ、そうだったのか。自分かってにお堂を建て、村の衆に申しわけないことをしてしまった」
治兵衛は、すぐに御林山のふもとを切り開いて、金剛童子の言われたようにお堂を移しました。
そして、一心に祈りました。
三日ほどすると、疫病にかかった人たちは元気になり、村に明るい笑い声がもどってきました。
金剛童子とは、密教の護法神と呼ばれるそうです。
元々は、民話にも出てくる通り、桑畑村の北側に安置されていたそうですが、現在では、今回紹介している弘法堂に移設されています。
真言宗の開祖が弘法大師ですし、金剛童子も密教のという事で、一応繋がりはありますね。
弘法堂中心には、金剛童子が安置され、その向かって右手には弘法大師像が安置されています。
祠の中は、現在でも熱心にお経が読まれている様です。
この三河湾沿岸の大師信仰が盛んだった事が偲ばれる弘法堂ですね。