寺院情報
寺院名 | 青野山来迎院 |
所在地 | 愛知県岡崎市上青野町稲前西四十四番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土宗 |
創 建 | 不詳 |
札 所 | ー |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年6月4日
沿革・由緒
古来より、来迎院が建つ青野の地は「青野土場」と呼ばれた船着き場で、「藤野の渡し」と呼ばれた矢作川の渡しが置かれた場所になります。矢作川の対岸は「志貴荘藤野郷」になります。江戸時代、松尾芭蕉がこの藤野の渡しを使って東方に向かおうとしていた所、矢作川が増水の為渡しが出ておらず、藤野郷にて一泊しその時に詠った句の句碑が「天神社/紹介記事」の境内にあり、現在では「藤の里伝承地」として安城市の指定史跡となっています。
この藤野の渡しを掌握する為に安祥松平家二代「松平長親」は息子である「松平義春」に青野城を与え「東条(青野)松平家」として分出させます。詳細は不詳ながら、碧海郡六ッ美村誌の内容を踏まえて考察すると、青野城主「松平義春」が帰依していた「宝譽院作印上人」に青野城の祈祷寺の性格を持った一宇建立した与えたのが来迎院の創建と考えられるようです。その後、義春が亡くなり埋葬されるのに合わせ開山し「聖衆山来迎院」と号したと考えられます。
青野城は、東条松平家三代「松平家忠」が永禄六年(1563年)に徳川家康より「東条城/紹介記事」を与えられ移る際に廃城となったとようです。
松平家忠が東条城を与えられた時、家忠はまだ六歳であり、「松井忠次(松平康親)」が家忠の後見(名代)となっていました。松平家忠が東条城を与えられた要因の一つに東条城を巡る戦において松井忠次が戦功をあげていた事があるかと思います。
松井忠次は東条城に主君「松平家忠」と共に入城すると、城の北側に「康忠山法応寺」を主君である東条松平家追善の為に建立します。この法応寺に来迎院「十世英譽哲秀」が転任しています。しかし、この頃寺伝が失われた様でどういった経緯で転任したのかは不明なようです。
開山は「青蓮社宝譽作印上人」と伝えられている様なのですが、生所ならびに事跡は不詳のようです。
安祥城主であり安祥松平家二代「松平長親」の六男「松平右京亮甚太郎源義春」は青野城を与えられ居城としています。義春が青野城主の頃、宝譽上人に帰依し一宇を建立したとし、義春自らも貞顯入道と称したといいます。
弘治二年二月二十日、松平義春は日近村にて討ち死にし、当寺に葬り「聖衆山来迎院」と号したと言います。しかし、十世英譽哲秀和尚の時、幡豆郡東条村法応寺に転任したといい、この代の時に寺の記録などを紛失してしまったようです。十七世恢譽廓全の代に本堂庫裏等を再建し、山号を青野山に改称しています。
「碧海郡六ッ美村誌」より抜粋
歴史探訪
今回紹介する「青野山来迎院」は、十八松平のひとつに数えられる「東条(青野)松平家」所縁の寺院になります。この東条松平家は、桜井松平家、藤井松平家、福釡松平家と合わせて長親系庶家とも言われます。東条松平家初代は「松平義春」であり、松平家中の勢力争いの中で一貫して松平家惣領となった安祥松平家側についていて、反惣領派となっていた義春の兄で桜井松平家二代「松平信定」とは犬猿の仲だったと伝えれています。
松平家家系図
太字は松平家惣領を指します。
赤色マーカーは安祥松平家を示しています。
松平親氏┳広親(酒井氏)
┗泰親┳信広(松平郷松平家)
┗信光┳親長(岩津松平家)
┣守家(竹谷松平家)
┣親忠┳乗元(大給松平家)
┃ ┣長親┳信忠┳清康━広忠━家康
┃ ┃ ┃ ┗信孝(三木松平家)
┃ ┃ ┣親盛(福釜松平家)
┃ ┃ ┣信定(桜井松平家)
┃ ┃ ┣義春(東条松平家)
┃ ┃ ┗利長(藤井松平家)
┃ ┣親房(桜井松平家)
┃ ┣存牛(知恩院二十五世)
┃ ┣親光(鴛鴨松平家)
┃ ┣長家(安城松平家)
┃ ┣張忠(矢田松平家)
┃ ┗乗清(滝脇松平家)
┣与副(形原松平家)
┣光重(大草松平家)
┣忠景┳元心(五井松平家)
┃ ┗忠定(深溝松平家)
┣光親(能見松平家)
┗親則(長沢松平家)
東条松平家の家系図
義春┳忠吉
┗忠茂━家忠・・・忠吉(徳川家康四男)
松平家七代目惣領「松平清康」が森山崩れで惨殺されると、松平家内部も混乱状態に陥ります。清康の嫡男「広忠」が幼少であったこともあり、広忠の叔父である桜井松平家「松平信定」が岡崎城を占領し、惣領的立場に立ち、甥「広忠」を岡崎城から追放しています。広忠は僅かな側近と共に流浪の旅に出る事になり、最終的に東条吉良家の吉良義広を頼り、吉良家と同盟関係にあった今川家の力を得て岡崎城に帰還することになります。信定は今川家の兵に守られた広忠の三河帰還の報を聞いて桜井城に撤退しています。
松平庶家の中には、今川家の力を借りる事を良しとする家と否とする家とで分裂状態に陥ったとされ、桜井松平家は織田家に属していき反今川家の立場を取っていく事になります。そして東条松平家は先にも述べていますが、惣領である安祥松平家側に着いたと書きましたが、義春の嫡男「忠吉」は織田家に味方する動きを見せたたため追放され次男である忠茂が家督を継いで行きます。この事が後の「日近合戦」に繋がっていく事にもなります。
来迎院の境内には松平義春の墓石であると伝えられている五輪塔が据えられています。五輪塔脇には「墓誌」が据えられていて、それによると、弘治二年二月に起こった「日近合戦」において流れ矢を受け弘治二年(1556年)二月二十日に死去したと記されています。が、弘治二年の日近合戦で戦死したのは東条松平家二代「松平忠茂」であり、義春はそれ以前に病死したとされています。このため、この五輪塔は義春の墓ではなく、忠茂の墓なのではないかという説もあります。
来迎院に据えられてる五輪塔が松平義春の墓なのか松平忠茂の墓なのかは確定する事が難しいようですが、由緒にもでている「康忠山法応寺」に東条松平家の歴代当主の墓を建立する際に、義春の遺骨を分骨したとされているので、ここ来迎院に義春の墓があった事は間違いないと見ていいと思います。
松平忠茂が討ち死にした時、嫡子である「亀千代丸(後の松平家忠)」は1歳の乳児であったそうで、今川義元より後見として「松井忠次」が指名されています。
後に、来迎院の十世英譽哲秀が転任した幡豆郡東条の「法応寺」に分骨したとも伝えらています。法応寺は東条松平家三代「松平家忠」が永禄六年(1563年)に家康より受領し城主となった「東条城」のすぐ北側にあった寺院であり、墓所には東条松平家歴代当主の墓、松井忠次の墓などが安置されていました。(法応寺は廃寺となっており、墓所も廃寺後も当地に据えられていたのですが、土地の所有者から墓地の整理を考えているとの意向が伝えられ、2011年に西尾市による現地の学術調査を含む墓地の移転が行われ、現在は吉良町駮馬にある「花岳寺」の境内に据えられています。)
[ad]
参拝記
旧県道78号線沿いに建っている秋葉山常夜燈のある交差点の路地を入っていくと今回参拝する「青野山来迎院」があります。常夜燈脇に来迎院の案内看板が設置されているのですが、色がうすくなっているのと電柱の影になっていて、見落としてしまう可能性が大きいかと思いますので、注意して進んでみて下さい。
境内入口
来迎院と彫られた石柱門が設けられた境内入口になります。
乳出地蔵堂
宝形造の屋根に向拝が設けられた地蔵堂になります。「乳出地蔵」と書かれた扁額が掲げられていたので地蔵堂と分かった訳ですが、残念ながら施錠されており中を窺う事が出来なかった為、「乳出地蔵」とはどんなお地蔵様なのかは分からなかったです。
本堂
寄棟造瓦葺平入の向拝が設けられ、高覧のある濡れ縁がある本堂になります。
本尊にて奉安されている来迎阿弥陀如来立像は岡崎市の指定文化財となっています。
雑誌・マンガに加えて旅行雑誌の定番"るるぶ"も月額500円(税抜)で読み放題!
やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 青野山来迎院 |
所在地 | 愛知県岡崎市上青野町稲前西四十四番地 |
最寄駅 | 名鉄東部観光バス西尾東岡崎線「土井バス停」徒歩18分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。