三河七福神巡り 三河観音三十三ヶ所 西尾市

万灯山 長圓寺(西尾市貝吹町) 板倉氏菩提寺

2018年7月6日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

江戸幕府初期に京都所司代を勤めた「板倉勝重」が板倉家菩提寺として建立した「万灯山長圓寺」。長圓寺奥にある板倉家霊廟には、板倉一門の墓所が祀られています。

寺院情報

寺院名万灯山長圓寺
所在地愛知県西尾市貝吹町入一〇一
御本尊十一面観世音菩薩
宗 派曹洞宗
創 建中興開山:慶長八年(1603年)
札 所三河三十三観音 三十三番札所
三河七福神/布袋尊
御朱印
H P

参拝日:2018年6月29日

三河三十三観音霊場・三河七福神札所一覧

現在、作成中です。

由緒・沿革

 「万灯山長圓寺」は二代京都所司代として非常に名をはせた板倉勝重が父「板倉好重」の菩提を弔うために、元々中島にあった「永安寺」を中興開山した曹洞宗の寺院になります。この時の開基は「瑞雲山本光寺/紹介記事」住職仙麟和尚になります。

 元々、板倉勝重の父「板倉好重」は深溝松平家に仕えていました。当時の松平宗家は、松平清康が森山崩れで戦死した後で、松平一族の跡目争いが広げられ、八代目松平広忠が吉良家、今川家の後押しを得て家督を継いだ頃になります。織田信秀の西三河進出が激しくなり、天文九年(1540年)には、松平宗家となった安祥松平家としては本城ともいうべき「安祥城」が攻め落とされてしまいます。松平家単体では織田家の攻勢を防ぐことが難しい状況になり、広忠は「今川義元」に救援を求めます。義元は、援軍を出す条件として広忠の嫡子「竹千代(後の徳川家康)」を人質として差し出す事を求めてきます。広忠はこの条件を受け入れ、 天文十六年(1547年) 、竹千代を今川家に送り出します。竹千代に付き添うのは今川家傘下の「戸田宗光」になります。戸田宗光は、竹千代を「犬飼港/紹介記事」より海路にて駿府まで護衛する計画でしたが、一説には千貫文で織田信秀に竹千代を売り渡してしまいます

 これに激怒した今川義元は、戸田宗光の本城である「田原城」を攻め落とします。そして、さらに織田家、織田家に与する諸勢力に対して侵攻を開始します。深溝松平家の当時の当主は「松平好景」になります。好景は、今川方の武将として吉良方の由良氏が守る「中島城」を攻め落としています。そして中島城の城代として「板倉禅正重正」を置きます。
 永禄三年(1560年)、桶狭間の合戦において今川義元が討ち死にし、松平元康が岡崎城に入城し今川方から独立すると、 永禄四年(1561年) 今度は松平側となった「松平好景」は、吉良家と共に今川方に与した「板倉禅正重正」が守る中島城を攻め落としています。この功績により、松平好景は中島と永良の地を与えれています。

※板倉禅正重正・・幡豆郡三和村史には、板倉勝重の祖父と記されていますが、資料に乏しく、詳しい出生は解っていません。今川方の武将だったようで、最終的には永禄五年(1562年)の赤坂合戦にて松平元康軍に討ち取られています。

 松平家の圧力を感じた吉良義昭は、永禄四年四月十五日、中島郷を超え、上野城に向けて出陣をします。善明堤の戦いと呼ばれる吉良vs松平の戦いです。

 この戦いにおいて、深溝松平家当主「松平好景」を始め三十四騎が討ち死にし、その中には「板倉好重」も含まれています。松平好景が討ち取られながらも中島砦に向けて撤退戦を行っていたようで、「板倉好重」は中島城にあと少しの場所で討ち取れてしまいます。板倉好重が討ち死にした場所には石碑が設けられています。
 板倉家の家督は、勝重の弟「定重」が継いでいます。兄である勝重は、剃髪し加茂郡北古瀬村の大象山の英琢和尚に師事し「香誉宗哲」と称しています。そして、中島郷の永安寺の住職として住居していましたが、天正九年(1581年)「高天神城を巡る戦い」において、板倉定重が討ち死にしてしまい、板倉家が断絶する事は忍びないと徳川家康は香誉宗哲和尚に対し還俗を命じ、板倉家の舊性(旧性)渋川を称し「渋川甚平」として還俗します。その後、四十二才の時に板倉勝重と名乗る事になります。

 関ケ原の合戦後、三河国三郡に六千六百石を与えられると共に京都所司代に任命されます。この時、自ら住職を務めていた永安寺を中島山長圓寺と改め吉田(現豊橋市)本光寺の八世仙麟長膳和尚に頼み開山となってもらい、板倉一門の菩提寺としました。
 嫡子である重宗は父である板倉勝重の七回忌の寛永七年(1630年)、長圓寺を現在地の萬燈山麓の貝吹村に移し、七堂伽藍を完備させています。

 中島の地に建っていた長圓寺跡地には、稲荷堂が建てられ、現在でも「万灯山長圓寺」が管理しているそうです。

戦国時代末期、父板倉好重氏、弟定重氏が徳川家康公に従っていて相次いで戦死した為、碧海郡中島村(現岡崎市中島町)にあった曹洞宗永安寺の住職"香誉宗哲"和尚は家康公の要請により還俗し、板倉勝重を名乗りました。のちに駿府町奉行、初代江戸町奉行となり、ついで二代目京都所司代として十九年間、京・奈良の治安、天皇家、公家との折衝、豊臣家との確執、大阪の陣の事後処理にかかわりました。勝重公は、慶長初年(1600年頃)永安寺を中島山長圓寺と改め吉田(現豊橋市)本光寺の八世仙麟長膳和尚に頼み開山となってもらい、板倉一門の菩提寺としたものです。

勝重公の跡を継いで京都所司代となった長男重宗公は、寛永七年(1630年)、寺を現在地の萬燈山麓の貝吹村に移し、七堂伽藍を完備させました。

板倉氏霊廟には、勝重公をまつる肖影堂を中心に板倉家一門の人々の墓所が祀られています。

長圓寺案内文より抜粋

 板倉好重またはその父親の頃に深溝松平氏に仕えたとされる板倉氏ですが、板倉勝重は深溝松平氏ではなく、徳川家康に仕え、名奉行として頭角を表していきます。そんな名奉行として名高い勝重の菩提を弔うたため、息子重宗は、勝重の遺骨を納めた木造を作成、肖影堂を建立し祀ってます。

 この長圓寺が建つ場所は、重宗の弟で天倉四郎で有名な"島原の乱"の初代総大将だった板倉重昌が収めていた深溝藩が収めていた場所になります。深溝松平氏と同様に、板倉氏もこの中島郷周辺が所縁の地であり戻るべき場所と考えていたのかもしれませんね。

歴史探訪

 徳川家康の三河統一の中で非常に重要で壮絶だったのが吉良家との戦いだったはずです。今川家から独立した当初の徳川家康(松平宗家)の領地と吉良家の領地はさほど変わらなかったはずです。そんな中、徳川家康として大きな力となったのが、後に十八松平と呼ばれる松平庶家の存在だったと思います。特に二代、三代、四代と当主が討ち死にしてまで家康に尽くした「深溝松平家」の存在は家康にとって大変大きかったと思います。

 徳川家康の対吉良戦線の序盤の主力だった深溝松平家の遺構を見ながら、吉良家の居城「東条城」陥落までを追っていきたいと思います。

[ad]

参拝記

境内入口になります。なかなか趣きのある山門ですね。

薬医門の山門になります。脇には通用口が設けられていますね。

山門に掲げられている扁額・・・なんと書かれているのでしょうか・・。

山門手前に安置されている弥勒菩薩の御堂になります。この御堂も長圓寺の境内になるのかな?


参道を進んでいくと、本堂が見えてきます。
この長圓寺の本堂は、文化十三年(1816年)に永平寺の大工棟梁によって再建された物になります。

非常に趣きのある本堂です。

この本堂の中に、本尊と布袋様が鎮座しています。

平日伺うと無住の場合が多い様で、三河三十三観音、三河七福神の朱印が置いてあり、自分で押すスタイルになっていました。

御朱印帳に押そうとも思ったのですが、参拝日など自分で記載するとなると・・・習字に自信のない自分には敷居が高いので断念。


この本堂の裏手には、板倉氏の霊廟があります。

なぜか、霊廟に向かう道は、古来の切通しの様な石畳の参道が続いていました。

本光寺の深溝松平氏の霊廟に比べてもこちらのが神秘的な感じがしますね。

深溝松平氏菩提寺本光寺、東霊廟


こちらの建物が、勝重の木造が安置されている肖影堂になります。

肖影堂を中心に墓石が広がっています。板倉氏六系の菩提寺になっているようで、所狭しと墓石が立ち並んでいます。

地図で所在地を確認

寺院名 万灯山長圓寺
所在地 愛知県西尾市貝吹町入一〇一
最寄駅名鉄東部交通バス 「貝吹バス停」徒歩10分

-三河七福神巡り, 三河観音三十三ヶ所, 西尾市