ONE POINT
尾張国一之宮として非常にその名を知られている一宮市に鎮座している真清田神社の紹介です。延喜式内社であり旧社格は国幣中社に列格するなど愛知県下有数の歴史を誇っていますが、今では殆どその名を聞く事はありませんが、昭和二年に行われた「愛知県下新十名所」の選定の投票戦で第三位の票数を獲得して「愛知県下新十名所」の一つに選定された神社でもあります。
神社情報
神社名 | 真清田神社 |
鎮座地 | 愛知県一宮市真清田一丁目二番一号(Googlemap) |
例大祭 | 四月三日 |
創 建 | 伝:神武天皇三十三年三月三日 |
御祭神 | 天火明命 |
旧社格 | 国幣中社 尾張国一之宮 |
神名帳 | 延喜式神名帳:尾張国中島郡 真清田神社 名神大 尾張国神名帳:中島郡正一位 真清田明神 |
境内社
境内社 | 三明神社(御祭神:本宮荒魂) 服織神社(御祭神:萬幡豊秋津師比売命) 神明社 三末社(天神社、犬飼社、愛鷹社) 愛宕社 須佐之男社 秋葉社 稲荷社 厳島社 八竜神社 三八稲荷社 |
境外社 | 境外社として二十五社あるとする。 |
文化財
国 宝 | |
国指定 | 木造舞楽面 十二面 朱漆角切盤八枚、朱漆入角盤十二枚、朱漆擎子五枚(附 銅鋺五口、銅皿二十枚) |
国登録 | 真清田神社本殿及び渡殿 一棟 真清田神社北門及び透塀 一棟 真清田神社祭文殿 一棟 |
県指定 | 獅子頭一面 木造舞楽面七面 |
市指定 町指定 村指定 | 紙本著色真清田神社古絵図 一幅 能面 三面 宗教面 三面 金銅釣燈籠二基 銅鈴 一口 真清探桃集八巻六冊 真清田神社本殿出土鎮物 神頭矢 |
参拝情報
御朱印 | 〇 |
URL | http://www.masumida.or.jp/ |
駐車場 | 〇 |
参拝日 | 2022年3月23日 |
愛知県下新十名所
「真清田神社」は昭和二年に昭和二年に新愛知新聞社(現:中日新聞)が読書の方達からの投票によって愛知県の新しい十名所を決定しようという企画「愛知県下新十名所」において「926,136票」を集めて「第3位」になっています。
真清田神社 | 3位/57位 | 926,136票 |
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御由緒
創建は神武天皇三十三年三月三日に創建されたとするが、真清田宮御縁起(室町時代正徹作と伝わる。)を始め真清田神社の根本史料とも称すべき真清探桃集には「創建は第十代崇神天皇の御代に鎮座。」とある。
神武天皇の御代、または崇神天皇の御代・・・どちらの説にしても当サイトで以前紹介した「阿豆良神社」よりその歴史は長い神社であるということになります。後に紹介しますが、真清田神社の御祭神は尾張国造となった尾張氏の祖神とされ、阿豆良神社の御祭神は出雲族所縁の神・・・尾張氏が治めていたこの地に何らかの理由で出雲族の人々が移り住んできたというのかなという妄想が湧いてきます。
真清田神社の社名が初めて国史に登場したのは、貞観十一年(869年)に完成した「続日本後紀」に承和十四年(847年)十一月十一日、無位から従五位下に昇叙されたと記された事によります。実は同じ承和十四年十一月十一日に尾張国の大縣神社も従五位下に昇叙されていたりします。その後、昇叙を繰り返して、最終的には尾張国神名帳に「正一位 真清田明神」と記載されています。
- 承和十四年(847年):「続日本後紀」に従五位下に昇叙と記載。
- 仁寿三年(853年):「日本文徳天皇実録」に従四位下に昇叙と記載。
- 貞観七年(865年):「日本三代実録」に正四位上に昇叙と記載
- 延喜元年(905年):延喜式神名帳に「尾張国丹羽郡 真清田神社」と記載。
- 年代不明:尾張国神名帳に「中島郡正一位 真清田神社」と記載
- 明治十八年:国幣小社に列格
- 大正三年:国幣中社に昇格
御祭神の御名を天照国照彦火明命とも申し、天照大御神の御孫にあたり、尾張氏の遠祖で神徳高く真澄の鏡の如く清く美しく木曽川の澄みて足らえる。肥沃の地に国土を拓き、尾張の国はもとより、中部日本の今日の隆盛発展に寄せられた御神徳は貴き極みである。又御母神の万幡豊秋津比売神は織物の守護で繊維王国、尾西織物を世に広められたのは、この姫神の御神徳による。尾張地方開拓の祖神で古くからこの国の一宮として、皇室を始め衆庶の崇敬あつく、神階は承和十四年(847年)従五位下、仁寿三年(853年)従四位下、貞観七年(865年)正四位に進みその後度々の増位により正一位になった。社格は仁寿元年(851年)官社に、延喜の制には名神大社に列せられ、明治十八年、国幣小社に、大正三年、国幣中社となる。古くは神功皇后三韓征伐に際し祈願あり勅使参向奉幣する。聖武天皇は神号の勅願を献じ嵯峨天皇は雨請を祈願なされた。順徳天皇は舞楽仮面を多数奉納になった。又伝教大師弘法大師や紀貫之は参籠祈願をこめ左等の伝承も伝わり、女流の名家赤染衛門、阿仏尼は和歌を献り。伊予守源頼義は東征に際し武運を祈り凱旋の日社頭に白旗を奉納。足利将軍義殖は禁制を境内に立て、徳川家康は関ヶ原の陣に祈願あり報賽として二百石の社地を寄進した。一宮城主関氏は累代崇敬あつく蘭奢待、円鏡、鎧等を奉納。尾張候藩祖義直、社殿造営を始め歴代社殿の造営修理宝物什器に至るまで献進された。昭和二十年七月二十二日、空襲により社殿炎上烏有に帰す。同二十六年十月、造営奉賛会結成同三十二年十月、本殿造営、社務所増築、同三十六年十月楼門、東神門造成境内の整備工事完工、同三十九年十月、服織神社社殿竣工、同四十三年十月神楽殿、斎館完工。同五十九年十月、参集殿、平成元年宝物館を竣功した。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
御祭神
- 天火明命
天火明命は天照大御神の孫神であり、尾張国造であった尾張氏の祖神であるという。古事記や日本書紀の一書では、天孫邇邇芸命は弟であるという。
ポイント
尾張国造となる尾張氏の祖である小止与命が尾張国造に任ぜられたのは第十三代成務天皇の御代であるとしています。(「先代旧事本紀」「国造本紀」による)
歴史書の記述が正しいとすると、現代人で凡人である自分が想像すると「成務天皇の御代に尾張国造に任ぜられた小止与命が一族の祖神である天火明命を奉斎する神社を現在の真清田神社が鎮座する場所に創建した。これが真清田神社の創建である。」となってしまう訳ですが、古くからの歴史書などでは「真清田神社の創建は神武天皇または崇神天皇の御代」であるとしています。
真清田神社の御祭神
戦前の昭和十四年に発刊された一宮市史では、真清田神社の御祭神は「天火明命」であるとしつつも、卜部兼煕が記した「大日本一宮記」には「大己貴命(大国主命)」であるとし、参考本国神名帳説、張州府誌、尾張地名考を始めとする幾多の書物でもこれを祖述している。
また、神祇宝典、源敬公祝詞などでは「国常立尊(国之常立神)」であるとしている。他の寺社誌などでは「大己貴命と国常立尊」の二柱を御祭神とするものもあった。
その他には
塩尻、塘叢には「国常立尊、大己貴命、大龍神、姫龍神」の四柱を御祭神とし、尾張志や張州府志には「国常立尊、天照大御神、月読尊、大己貴命、大龍神の五柱を御祭神とする。天照大御神が御祭神となったのは、尾張蓮遠祖天照国照彦火明命の名を誤ったのであろうと考えらるそうです。
吉見幸和が「宗廟社稷答問」で「天日明命を祭る真清田神社は當国一宮である。」として大日本史、大日本神祇史などでこの説をとり、明治以降「天火明命」を御祭神とし、神社明細帳にも記載されている。
吉見幸和とは?
江戸時代中期の国学者であり神職であった人物。
尾張徳川家「徳川綱誠」に仕え、名古屋東照宮の祠官と務めた。
御朱印帳の保管に
数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。
ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?
参拝記
県道190号線「真清田神社前交差点」から北側を望むと、真清田神社の参道、楼門を一望する事ができます。JRと名鉄の一宮駅からもほど近く、市役所も周囲にある事から、まさに一宮市の中心に真清田神社が鎮座している事がわかります。駐車場は真清田神社の西側から境内に用意された有料駐車場が用意されています。
境内入口
真清田神社の境内入口は、元々は参道だったのかは不明ですが、まるで広場の様な感じになっています。この場所に、真清田神社の社号標、扁額の無い石造明神鳥居、火袋部分が木造となっている灯篭一対などが据えられています。その両脇にはなにやら長屋が建っていて、現在でもその長屋になにやらお店が開いていて、元々は仲見世が立ち並んでいたのかなと思われます。
戦前の真清田神社境内入口
戦前に発刊された一宮市史に戦前の真清田神社の様子を知る事ができる写真が掲載されていました。
真清田神社の社殿などは一宮空襲によって焼失されてしまった為、戦後の再建となっています。ただ、楼門は空襲の被害からは逃れる事が出来たそうですが、昭和三十六年に再建されています。写っている石造鳥居ですが戦前は神明鳥居、現在は明神鳥居とその造りが変わっています。
社号標
戦前の写真にも写っていた社号標になります。
鳥居
いつ建立されたのか確認し忘れてしまったのですが、戦前の写真とは造りが変わっていた事から戦後に再建されたと思われる明神鳥居になります。
神橋
神橋と石柱に掘られている石造りの太鼓橋になります。石造りの太鼓橋はそんなに頻繁には設けられている神社に出会う訳ではないですが、代表的な神社構築物の一つになります。
楼門
昭和三十六年再建された楼門になります。袖壁部分も同時期に再建されたと思われます。
非常に重厚感のある楼門ですね。寺院の楼門の場合は八脚部分の間と呼ばれる部分に仁王像などが安置されていたりしていますね。ここ真清田神社の楼門は間の部分も通行できるようになっています。この開口部分があるので寺院の楼門とは少し異なった雰囲気を感じる原因かなと思います。
社殿
銅板葺き妻入りの拝殿に祭文殿、本殿が直線状に造営された尾張造の社殿になります。この角度から向拝となっている切妻破風の屋根と大屋根の組み合わせが非常に印象深い造りになっています。
このアングル最高です。
東門
真清田神社の東側の境内入口に建てられた薬医門の東門になります。
境内社
真清田神社の境内社は摂社二社、末社十一社の合計十三社が鎮座しています。内、摂社の三明神社と末社の神明社は本殿を囲む透塀内に鎮座しています。
真清田神社の境内の一角に、無病植栽に御利益があるという御神水を汲むことができる神水舎があります。明治十一年には明治天皇の一宮巡幸に際して献上されたとか。今でもペットボトルなどに汲んで持ち帰る事ができるようです。
現代的な由緒書き
真清田神社の楼門脇に、まさに今どきな由緒書きが設置されていました。見やすいかどうかは実際に触って頂いて判断してほしいなと思いますが、こうした場所にもまさにIOT革命?ですかね。
鎮座地を神社で確認
神社名 | 真清田神社 |
鎮座地 | 愛知県一宮市真清田一丁目二番一号(Googlemap) |
最寄駅 | 電車:JR東海 東海道本線「尾張一宮駅」徒歩12分 名鉄 名古屋本線「名鉄一宮駅」徒歩12分 バス:名鉄バス「本町バス停」徒歩すぐ 一宮市コミュニティーバス「本町バス停」徒歩すぐ |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。